原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

一貫してセピア色作風の画家 カリエールをご存知ですか?

2016年11月20日 | 芸術
 (写真は、昨日訪れた損保ジャパン日本興亜美術館にて本日まで開催されている 「カリエール展」 のチラシを転載したもの。)


 表題に関してだが、実は私自身は昨日(11月19日) 「没後110年 カリエール展 セピア色の、想い(パンセ)。」 を訪れるまで、カリエールとの画家の存在を露知らなかった。

 そもそも私は美術に関してはズブの素人だ。  それどころか、小中高の図工・美術の授業はどちらかというと嫌いな科目だった。

 そんな私が何故50歳を過ぎて美術鑑賞の趣味を持ったのかと言えば、それは娘の恩恵に他ならない。
 幼い頃より「色」に特異的に興味を持ったらしき娘の言動に気付いた私は、小学生になって以降娘を造形教室へ通わせ自由気ままに造形や絵画に取り組むチャンスを与えた。 その後中学生になった後、同じ恩師の下で油絵に取り組ませた。
 その娘が中一の時に「美術方面へ進みたい」との意向をチラつかせた。 その娘が高校生になる春に「美大受験を狙うか否か?」を確認したところ、そうしたいとの希望だ。 早速、夜間美大予備校へ通わせる段取りとなるのは必然的だった。
 (ところが高校3年生になる直前の春に、娘が泣きながら「美大受験を断念する…」とサリバン母の私に告げた衝撃的な事件については、既にバックナンバーにて幾度も公開している。)
 結局、娘は進路を大きく方向転換し異なる分野の大学学部へ入学し、そしてまた、大学卒業後は更に異分野業界企業へ就職した事実も公開済みだ。)


 話題を我が美術趣味に戻そう。
 娘のサリバン先生を務めている私が、娘が美術方面に進みたいと言い出した段階でその分野を少しでも学習せんとの努力をしない訳もない。  未だ亭主も現役世代だった事が幸運して、私は昼間、美術鑑賞をする事によりサリバンとして美術に関する知識を少しでも深めたいと考えたのだ。
 早速、「ぐるっとパス」なる、美術館・博物館等共通入場券&割引券を買い求めた。 この代金が¥2,000-也! 有効期限の2ヶ月間内に、対象美術館等(東京版の場合、およそ70カ所程の著名施設)を網羅可能なチケットだ。
 このパスを何度買い、利用した事であろう。 
 元々美術の趣味が無い私だが、特に平日の混んでいない美術館や博物館の“あの独特の落ち着いた雰囲気”に魅了され始めた。 これが癖になり、サリバン業を一時忘れて束の間の芸術空間を楽しんだ。 特にカフェがある美術館など、何とも言えず乙なものだった。 あるいはミュージアムショップを散策するのも楽しみで、何時も必ず自分用のお土産品を購入した。 それらは現在も我がコレクション(と言う程高価なものは一つも購入していないが)として、ひととき眺めては自己満足に浸っている。


 やっと話題を「カリエール展」に戻そう。

 いやはや、まさに今回のカリエール展の触れ込み通り、何ともまあ、美術展会場は画家カリエール氏による「セピア色の想い(パンセ)」で溢れている!

 過去にゴッホの大作「ひまわり」を巨額で購入した損保美術館(元・安田美術館)(正式名称ではない事をお詫びします。)は国内外に著名であろう。  未だに当該美術館最後の常設展示室に燦然と輝く「ひまわり」だ。

 その空間へ辿り着くまでの長き展示室は、カリエールの世界だった。
 展示されている作品すべてが「セピア色」で埋め尽くされていた事実に、愕然(と言っては失礼だが)とさせられた私だ。 「セピア色」と表現すれば日本人の我々には聞こえがよかろうが、ウィキペディア情報によると“褐色に靄がかかった”色で作品すべてが完成されているのだ。

 こんな美術展は未だかつて観賞したことがない。
 人生を掛けて絵を描き続けた画家は数多いだろうが、それぞれその時代変遷と共に“画風”が移り行くものだ。
 ところが、殊、カリエール氏に関しては、一生かけて描いた代表作の作風すべてが「セピア色」なのだ!
 (余談だが、我が娘にも油絵を少し嗜ませたから分かるのだが、カリエールさんは褐色絵具代にカネがかかっただろうなあ… 


 最後に、画家カリエール氏に関するウィキペディア情報のごく一部を紹介しておこう。

 ウジェーヌ・カリエール(Eugène Carrière、1849年1月16日 - 1906年3月27日)はフランスの画家。褐色の靄がかかったような独特の絵画手法で知られる。 彫刻家のロダンとも親交が深かった。
 19世紀後半パリでは、印象派が勃興し時代の一大潮流を築いていた一方で、それを乗り越えようとする一つの芸術運動として、象徴主義が生まれた。 外界の現実よりも観念の世界に志向するこの潮流に独自の立場から加わったのがカリエールである。 カリエールはもともと多彩な芸術家で絵画にとどまらず、挿絵や彫刻も手がけた。 絵に関していえば、彼の初期の絵画は色彩が豊かなものであった。 しかし最終的には母子像や著名人の肖像画を靄のかかったような茶褐色の画面に明暗を強調して描く、神秘的で独特な絵画を制作するようになった。
 1898年には、画塾「アカデミー・カリエール」を創設する(後にこのアカデミーからは、マティスやドランといった有名な画家を輩出している)。 またカリエールはパリ万国博覧会のポスターやヴィクトル・ユゴーの挿絵を描き、サロン・ドートンヌの創設に関わるなど精力的に活動している。 しかし、1905年に2度目の喉頭癌の手術を受けてからは、ほとんど声も出せず、衰弱も激しくなり、翌年1906年3月26日に死去した。


 最後に、原左都子の素人私観だが……

 へえ、そうだったんだ。 
 実は私は素人なりにアンリ・マチスも好むのだが、“色の魔術師”と言われたマチスがカリエール氏創設のアカデミーから排出された画家だったとは、何とも不思議な感覚だ。

 カリエール氏が画家としての生涯を歩む過程で 「セピア色の、想い(パンセ)。」に辿り着いたその心境の程は、到底私には計り知れないなあ。