原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

左都子の「自然科学概論」 小講座 Ⅺ

2021年08月03日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、原左都子2度目の大学にて受講したA先生による「自然科学概論」講義ノートより転載したもの。)



 今回の講義ノートは、前回の「ラテン中世の科学」の続きとなる。


         
 アリストテレスが説いた自然法則には、必然性がある。
 必然的な規則を見つけ、そこから論証することこそが科学。

 自然法則に関しては、ニュートン古典力学が正しいとすれば、そこには必然性が存在する。
 哲学においては、必然性、現実性、可能性、(これらを様相modalityというが)、この様相に結び付けずに自然法則を考える。
 ただ、必然性、可能性、とは一体何か? これすら分かりにくく、故に、認められないことになる。(?)


          
 無神論者のヒュームは、法則の規則性理論 regularity theory を打ち立て、因果性 causality  因果結合 という特別な結合を否定した。
 例えば、針で刺すと痛いが、ここには特別な結合性があるわけではなく、単に出来事が相次いで生じたに過ぎない。 → 恒常的連鎖 coustout  conjunction
 必然性と言うものは無く、 帰納を正当化できない。
 我々はそういう習慣を作り上げてしまっているため、それが自然ではあるが…  human nature

  アリストテレスのエピステーメーの原理では、 単に正しいのではなく、必然性が必要としている。
 我々は正しいと掴み取る能力をあらかじめ持っている。(としているが、突き詰めていくと、んなものは無い。)

 哲学者がよく使う言葉に、分析的 analytical があるが、 これは言語規則に基づいているため、必然性がある。

 近代の自然科学概念 natural low 
  デカルトは、キリスト教的考えや神学的背景に基づいて、神が自然界に対して与えている法を、神がそうしたととらえ、必然性があるとした。 
 ドグマ、 ドクトリン 。

          
 今は、アリストテレス的に考える人はいない。
 では、ヒューム的に考えるべきか? これに関しては、現在でも議論されている。

 自然的な事柄とは別に、超自然的な事柄がある。
 アリストテレスは、自然的な事柄のみにあてはまるとする。
 超自然的 super nature   このカテゴリーを認めると、科学の研究がバカバカしくなる。 
 懐疑主義に於いては、我々が経験と理性によって明らかにしていくことを科学とする。
 啓示(おつげのようなもの)は経験と理性に基づかないものであるが。
 自然界についても、この啓示により明らかにすることができるという道があったが、これは怠慢な方法とされ。 
 現在の科学は、probabirityを高めていっている。

 ニコール・オレーム(14c後半)は、能力ある頭の良い人物だったが。
 ● 多世界論 ー たくさん世界があっても差し支えない、と考えた。 
 ● 地球の自転に関しても、自転・力学・経験の間に不整合が存在するが、どれかを手直しすればよいとして、 インペトウス理論(ビュリダン)を唱えた。
 この理論によれば、インペトウスが原因となって物体を動かしているとすることにより、物体の運動の持続を説明がなされている。 (近年では、慣性原理があるが。)   

          
 この理論を使えば、地球の自転も不整合とはならない。
 しかし実は、地球は自転していない。(これは教義による考え。)

 中世の科学とは、肝心なところが曖昧。
 ある意味では現代の科学を先取りしているともいえるが。

 マートン派(14c前半)は、等加速度運動(当時uniformly ununiform  と言ったが)。
 これの実証を、応用数学的演習問題として行った。
 ただし、リアリスティックな要求は無く空想的だった。
 近代の先駆けと言えるが、質的には異なっている。



 最後に、原左都子の感想を付け加えさせていただこう。

 元科学者の端くれとして、医学基礎研究に携わってきた私でもあるが。
 この辺りの時代の「自然科学概論」は、確かに現在の科学に繋がっている感覚がある。
 そんな思いを抱かせて下さる哲学者A先生の講義内容は、今再び読ませていただいても実に興味深いなあ。
         

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