(写真は新聞広告から転載。 写真をクリックしていただきますと少し大きくなります。)
私など人に贈り物をする時には今尚、今回の表題の「つまらないものですが、どうかお受け取り下さい…」等々、ついつい口にしてしまう世代の人間である。
ところが残念なことに現在の日本の若い世代の人々の間では、この手の言葉は既に死語化していて奇異な表現であるらしいのだ。
上記写真は現在65万部突破!大ヒット中という漫画本の新聞広告を写したものであるが、「日本人の知らない日本語」と題したこの漫画本の広告の中に一つの4コマ漫画が掲載されていた。
いつもながら写真が見づらいため()、以下にこの4コマ漫画の内容を文章にて紹介しよう。
登場人物の若い女性が海外で使用されている“日本語会話例文集”を手に入れたのだが、その中に以下の日本語会話が記載されている。
「素敵なお召し物ですね」
「いえ、こんなのは“ぼろ”でございます」
それを見た若い女性が「いつの時代の会話?」と驚き、焦りおののく… 、といったごとくの内容である。
この広告の4コマ漫画を見て、驚いたのは私の方である。
と言うのも冒頭に既述の通り、私などこれに類似した会話は日常茶飯事であるからだ。“ぼろ”とまでは言わずとも、会話の相手から「あら、素敵な洋服ね」などと褒められると、ついつい「大したことないわ。安物なのよ~」なんて咄嗟に反応するのは、一種の礼儀と私は心得ているのだけれど…
いや、相手と親しい間柄であるならば「ちょっと奮発したのよ~」などと本音の会話にもなろう。 一方、懇親の仲でもない相手に対しては褒められた御礼こそ素直に伝えても、まさか子どもじゃあるまいし、「これ、高価なんですよ~」等と声高々に応じる単細胞人間は日本では少数派なのではなかろうか??
皆さんはいかがであろう。
しかもこの漫画本の題名が「日本人の知らない日本語」ときている。
広告だけ見て本の中身を読まずしてブログでコメントするのも筆者に対して失礼な話だが、上記の会話のごとくの日本の伝統でもある“謙遜の文化”が、若い世代に「知らない日本語」と明瞭に表現されるほど現代日本社会は廃れ去っているのであろうか??
話が変わって、たまたま本日(10月7日)、NHK昼間の番組「スタジオパーク」にフリーキャスターのジョン・カビラ氏が出演し、氏の日本語と英語のバイリンガル人生についてトークを繰り広げているのを見聞した。
そのトークの中で、日本の“謙遜の文化”について触れ、氏の日本人である父親に対してはずっと謙譲語あるいは丁寧語を使い続ける人生である旨語られていたのが興味深かったものだ。
ジョン・カビラ氏に限らず、諸外国の人々にとって日本の“謙遜の文化”は今や世界的に既存の事実であり、自国にはないその文化を高く評価する諸外国からの風潮に私は今まで多く触れてきている。 日本人の謙遜の礼儀とハートを自分は好むと言う諸外国の人々からの賞賛を、今までに私は何度も経験してきているのだ。
今回の広告4コマ漫画の“ぼろ”の表現は極端で誰しも驚くであろうが(これは漫画ゆえにデフォルメした表現であり、日常的には使用されない言葉であろうと私は捉えているのだが)、自己を謙(へりくだ)る時に「つまらないもの」等の否定的表現を用いることが謙る場面での単なる“慣習”であることを社会的合意として一旦理解出来たならば、それは既に“美学”の域に達しているのである。
そのような我が国の伝統的文化である謙遜の美学が、次世代からけんもほろろに「知らない」と驚かれ否定される程受け継がれていないとすれば、既に何の取り得もなくなりつつあるこの日本は、今後一体何を目指せばよいのであろうか?
「つまらないもの」と言う言葉を真に「つまらないもの」と受け取る単細胞さで自分本位に世渡りするのではなく、一人ひとりがその時の空気を客観的に読める繊細さを備え、その言葉に相手の思慮深さを慮り、謙遜の文化を次世代まで継承できる日本社会でありたいものである。
私など人に贈り物をする時には今尚、今回の表題の「つまらないものですが、どうかお受け取り下さい…」等々、ついつい口にしてしまう世代の人間である。
ところが残念なことに現在の日本の若い世代の人々の間では、この手の言葉は既に死語化していて奇異な表現であるらしいのだ。
上記写真は現在65万部突破!大ヒット中という漫画本の新聞広告を写したものであるが、「日本人の知らない日本語」と題したこの漫画本の広告の中に一つの4コマ漫画が掲載されていた。
いつもながら写真が見づらいため()、以下にこの4コマ漫画の内容を文章にて紹介しよう。
登場人物の若い女性が海外で使用されている“日本語会話例文集”を手に入れたのだが、その中に以下の日本語会話が記載されている。
「素敵なお召し物ですね」
「いえ、こんなのは“ぼろ”でございます」
それを見た若い女性が「いつの時代の会話?」と驚き、焦りおののく… 、といったごとくの内容である。
この広告の4コマ漫画を見て、驚いたのは私の方である。
と言うのも冒頭に既述の通り、私などこれに類似した会話は日常茶飯事であるからだ。“ぼろ”とまでは言わずとも、会話の相手から「あら、素敵な洋服ね」などと褒められると、ついつい「大したことないわ。安物なのよ~」なんて咄嗟に反応するのは、一種の礼儀と私は心得ているのだけれど…
いや、相手と親しい間柄であるならば「ちょっと奮発したのよ~」などと本音の会話にもなろう。 一方、懇親の仲でもない相手に対しては褒められた御礼こそ素直に伝えても、まさか子どもじゃあるまいし、「これ、高価なんですよ~」等と声高々に応じる単細胞人間は日本では少数派なのではなかろうか??
皆さんはいかがであろう。
しかもこの漫画本の題名が「日本人の知らない日本語」ときている。
広告だけ見て本の中身を読まずしてブログでコメントするのも筆者に対して失礼な話だが、上記の会話のごとくの日本の伝統でもある“謙遜の文化”が、若い世代に「知らない日本語」と明瞭に表現されるほど現代日本社会は廃れ去っているのであろうか??
話が変わって、たまたま本日(10月7日)、NHK昼間の番組「スタジオパーク」にフリーキャスターのジョン・カビラ氏が出演し、氏の日本語と英語のバイリンガル人生についてトークを繰り広げているのを見聞した。
そのトークの中で、日本の“謙遜の文化”について触れ、氏の日本人である父親に対してはずっと謙譲語あるいは丁寧語を使い続ける人生である旨語られていたのが興味深かったものだ。
ジョン・カビラ氏に限らず、諸外国の人々にとって日本の“謙遜の文化”は今や世界的に既存の事実であり、自国にはないその文化を高く評価する諸外国からの風潮に私は今まで多く触れてきている。 日本人の謙遜の礼儀とハートを自分は好むと言う諸外国の人々からの賞賛を、今までに私は何度も経験してきているのだ。
今回の広告4コマ漫画の“ぼろ”の表現は極端で誰しも驚くであろうが(これは漫画ゆえにデフォルメした表現であり、日常的には使用されない言葉であろうと私は捉えているのだが)、自己を謙(へりくだ)る時に「つまらないもの」等の否定的表現を用いることが謙る場面での単なる“慣習”であることを社会的合意として一旦理解出来たならば、それは既に“美学”の域に達しているのである。
そのような我が国の伝統的文化である謙遜の美学が、次世代からけんもほろろに「知らない」と驚かれ否定される程受け継がれていないとすれば、既に何の取り得もなくなりつつあるこの日本は、今後一体何を目指せばよいのであろうか?
「つまらないもの」と言う言葉を真に「つまらないもの」と受け取る単細胞さで自分本位に世渡りするのではなく、一人ひとりがその時の空気を客観的に読める繊細さを備え、その言葉に相手の思慮深さを慮り、謙遜の文化を次世代まで継承できる日本社会でありたいものである。
私も幼稚な絵といい加減な文章でブログを書いていますので 原さんブログの文章や視点の高さに少々後ろめたさを感じています 格調など追うつもりはありませんが 参考にさせて頂き時にはパクらせても貰って励みといたします 以上ご報告まで
歌で「ちあきなおみ」の「喝采」をご存知でしょうか?出だしから淡々と情景が浮かびます。
「いつもの様に幕が開き 恋の唄歌う私に 届いた知らせは 黒い縁取りがありました~」
たった一行で、情景が浮かびます。
今の唄は、日本語を大切にしてるんだろうかと思います。
歌謡曲の歌詞で、日本語の変遷が分かると思います。
「原左都子エッセイ集」もご覧の通りの決して格調などとは程遠いブログなのですが、たまにはそういう路線を追った方が洗練されるのかとも考えてしまう私でもあります。
とは言えども無理なものは所詮無理ですので、「原左都子エッセイ集」はこういう毒舌路線を突っ走りつつ生き延びることと思いますが、今後共、ゴジダツジさんのご訪問をお待ち申し上げております。
私もこのブログで、どれだけ日本語本来の奥ゆかしさや美しさを壊してきていることやら…
それにしてもドカドンさん、よくもまあ“ちあきなおみ”の「喝采」を出してくれました。
この曲は私が高校生の頃にレコード大賞を受賞したのですが、これは私にとっても未だに恐れ多い曲です。カラオケファンの私が、今尚この歌だけはカラオケで歌えない程の重みがありますね。
確かに、今の歌の歌詞なんて耳を通り過ぎるだです。 趣味の多様化現象も背景にあるのでしょうが、表面的なものに流れる若い世代の感性を憂える私でもあります。
私も未熟ながら今までの人生において自分なりの拙い実績を重ねつつ、その表裏で様々な分野、世界の人々との出会い触れ合いを重ね、その人達の人間性の奥深さに触れる事によりそれを自分の人生の一部として重ね合わせ感動を頂きながら成長してきている実感があります。
そんな中で、真心が触れ合える出会いを大事にしたい気持ちは山々なのにもかかわらず、いい年をしてまだまだ生き方の下手さ加減を日々実感してばかりいる私です…
違うのは私には尊敬語も謙譲語も解かっていない事です。笑い。
「つまらないものですが」を使えない人種って言うのは、「ブランド好きな人種」に置き換えられないでしょうか。笑い。今、ふとそう思いました。ブランド指向の人が「こんな物、安物よ」とは言わず。「これアルマーニなの」なんて言うんじゃないかと。
私が若い頃からブランドを好まない理由はその辺にあります。
極端な言い方をすれば「私って単純バカなの」と宣伝して歩いているように私には見えるのです。(ブランドを買う財力のない私の単なるひがみか??)
あのロゴがいただけませんね。
ブランドにもランクがあって、超高級品とはロゴを前面には出していない商品が多いようです。
でかでかと(例えばLVと)ロゴを鞄中にプリントした商品を持ち歩いて宣伝に加担する必要もないのに何を好き好んで…と思ってしまいます。
美学とは奥ゆかしくありたいものです。(そう言う私ももまだまだ修行が足りませんが…)
でもその部分は辛口すぎて広告には向かないかも。
ブランド品は、ロゴがわかりやすいものはあくまでカジュアル用ですから、胸にコカコーラとか書かれてるよーなトレーナーと同じレベルですよね。
MHLVとコカコーラ、どっちが企業として大きいのかどーかは知りませんが、成功している企業に自分を包む行為はまあ、シャレですよね。
成功すれば凄くおしゃれ。
でも使い方を間違えるとすごく痛いですよね。
結婚式にブランドロゴが散らばったバッグにデザイナーの名前が入った洋服なんか着ていたら、大島紬
(洋服で言うと、一目でわかるブランドのロゴ入りジーンズでしょうなぁ)
着てきちゃうより遥かに痛い。
伝説になる。
しかももしそのブランドなり大島紬なりの本人が、自分がその場で一番高価なものを着ているからイケていると思っている様子だったらもう目も当てられないくらい輝いてないと思います。
原様はいつもちゃんとした服装をしておいでですから、一目でわかる露骨なブランド物は却って使いにくいと想像しておりますが、やはりそうだったのですね。
いつも本本体を読まずして、新聞広告や書評だけ見てコメントするのは原左都子の悪い癖です。トホホ…
ブランドの話ですが、(私は単に貧乏で買えないだけの話なのですが、それは置いといて)日本国内(ブランド直営店は別として)や海外旅行で旅行会社に連れて行かれる免税店に置いてあるブランド商品とは、特殊ですよね。やたら滅多らロゴがでかでかとプリントされているものが多いように感じます。 要するにそれが日本人の好みで、お手頃価格で売れ筋なのでしょう。 結局それはカジュアル商品だから故にお手頃価格なのでしょうね。
(コメント欄なのでこっそり書きますが)、そんな私も独身時代にブランド物を頂戴することが何度かありました。
その中で、某米国人男性からのプレゼント品はどれもロゴが小さくて一見してブランド物であることがわからないのです。特にジバンシーのシンプルな鞄は私のお気に入りだったのですが、ブランドに詳しい高校生の生徒が私の鞄をまじまじ見て「先生、これ、物凄い高級品だよ!!」と教えてくれたのです。そうとは露知らず、普段の通勤用鞄としてぞんざいに使用していた私は、その時その価値を初めて知った私でした…