原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

我が国の「理科教育」、大いに勘違いしていないか??

2020年12月10日 | 教育・学校
 (冒頭写真は、昨日2020.12.16付朝刊 一面記事の一つを撮影したもの。)


 元々理系の私は教育界が未だ小さき子どもを捕まえて「理系・理科」と大騒ぎし始めた頃より、表題に掲げた事象が大いなる懸念材料だった。

 巷の学習塾が理科実験を小さい子どもに課しているらしき折り込み広告を、頻繁に目にし始めるようになり…


 そんな折に本エッセイ集にて綴り公開したのが、2014.02.03付「実験好きと理系頭脳とは相関し得るのか?」と題するバックナンバーである。
 早速、以下に再掲載させていただこう。

 私は「リケジョ」なる新語が嫌いだ。 と言うよりも聞かされて「気持ち悪い」。
 元々理系の私だが、こんな流行り言葉がなかった遠い過去の時代に理系に進学した事を今更ながら安堵させられる。
 何故私がこの言葉に嫌悪感を抱かされるのかというと、その言葉の裏に“男尊女卑思想”が見て取れる故だ。
 人間男女を問わず誰しも自分が欲する分野に進出してよい事など歴然のはずなのに、なぜ理系女子のみを「リケジョ」なる言葉で分別するのか?   その背景とは、理系に進む女子が今現在尚少数である事が第一の理由なのであろう事ぐらいは理解できている。 

 ところが私に言わせてもらうと、“理系”と一言で表現したところでその分野とは膨大に多様化している現在だ。  更には、科学・学問の大いなる進化・融合により、現在では「理系」「文系」の垣根を超越した学問分野も数多く存在する現実でもある。
 そんな学問を取り巻く時代背景に於いて、まさか「リケジョ」と呼ばれて優越感に浸る軽薄女子などいない事と信じよう。

 先だって、理化学研究所の研究員の小保方晴子氏が、マウス動物実験に於いて新型万能細胞であるSTAP細胞の作成に成功した事実が世界中で報道された。
 現時点では未だマウス動物実験結果に過ぎない段階の「STAP細胞」に関する私見を公開することは差し控え、この実験の成果が一段階進捗した時点で、元医学関係者である原左都子の私論を公開したいと考えている。
 (ここで2020.12現在の追加記述をすると。 2014年春にこの報道に触れた直後より、私は当該STAP事件に関して大いなる胡散臭さを感じていた。 主たる実験者である小保方氏よりの発言内容が大きく科学性に欠ける事実を、私は当初より見抜いていた。) 

 これに関するメディア報道を受けて、日本中が「リケジョ」騒ぎとなるのは当然の成り行きなのであろう。
 
 さて、ここで原左都子の私事を語らせていただくこととしよう。
 私は中学3年生時点で、自分は将来理系に進む!との一応の判断を下していた。
 ただし、それは決して「理科好き」だったからではなく、「数学好き」だったからに他ならない。
 何故私が数学好きなのかに関する記述を「原左都子エッセイ集」2008年10月8日バックナンバー「1か0かの世界」に於いて披露していため、その部分のみを以下に要約して紹介しよう。
 私は小学生から高校2年生の途中頃まで、算数、数学が好きな子どもだった。 そのため大学の進路希望では理系を選択したのであって、当時特段理科が好きだった訳ではない。
 私が算数・数学が好きな本質的理由は、数学とは哲学と表裏一体である点である。(このような数学の学問的バックグラウンドを把握したのは、ずっと後のことであるのだが。) 紀元前の古代から数学は哲学と共に研究され論じ継がれてきているが、数学の概念的理解を要する部分が当時の私には大いなるインパクトがあったのだ。
 一例を挙げると、中学校の数学授業時間に「点」と「線」の概念について数学担当教員から(おそらく余談で)話を聞いたことがある。 「点」や「線」を生徒が皆鉛筆でノートに書いているが、これらはあくまで“概念”であり形も質量もないものであって、本来はノートなどに形にして書けないものである。数学の学習のために便宜上鉛筆で形造って書いているだけのことである…。 おそらく、このような内容の話を聞いたと記憶している。  この話が当時の私にとっては衝撃的だった。「点」や「線」とはこの世に実在しない“概念”の世界の産物なのだ! (当時は言葉ではなく、五感に訴えるあくまでも感覚的な存在として“概念”という抽象的な思考の世界に私としては初めて触れた経験だったように思う。)
 お陰で数学に対する興味が一段と増したものである。
 同様に、“2進法”を中学生の時(?)に学んだ記憶があるが、これも大いにインパクトがあった。
 「1」と「0」のみの世界! 要するに「存在」と「非存在(無)」の哲学の世界なのだが、世の中のすべての基本はこの2進法にあるのではなかろうか、(と考えたのはやはりずっと後のことであるが…)。
 小さい頃から10進法に慣らされている頭には、この2進法の洗練された世界はまだまだ子どもの私にとってとても斬新だった。 またまた数学の面白さを学ぶ機会となった。  この“2進法”はコンピュータの計算原理でもある、と教えられ、コンピュータとは電球がONかOFFになることの発展型であることを頭に思い浮かべて“なるほど!”と納得したものである。
 
 単に数学好きで決して理科好きではなかった私にとって、実は「理科の実験」ほど嫌いなものはなかったとも言える。 小学生の頃からその思いは強かった。
 ここで参考のため、「原左都子エッセイ集」2008年8月17日バックナンバーで公開している「料理嫌いな女」とのエッセイの一部を以下に紹介しよう。
 私が料理が嫌いであるひとつの理由は、基本的に私は破壊的思考よりも建設的思考を好むためでもあると自己分析している。  私にとっての料理とは、食材を撒き散らし油を飛ばし、周辺をギトギトに汚染し破壊していく行為なのである。この汚染と破壊が耐えられない。 
 私にとっての理科実験嫌いとは、まさに上に記した「料理嫌い」とその根底心理が重なるのだ。 何で綺麗に整頓されている机の上で火を燃やし水をまき、はたまた危険な薬剤で汚染せねばならないの!? こんな「破壊行為」勘弁してよ!!  
 
 それでも何故、私が若かりし時代に「理系」を志向したのかというと、それは頭脳面で理系志向だったからと結論付けられる。 (敢えて悪く表現するならば「机上の空論好き」とでも言うべきか…)
 その後時が経過して、私が更なる学問に励み36歳時点で「経営法学修士」を取得するに至った背景に関しても、頭脳面で「理系志向」だったからに他ならないとの結論を導けそうだ。

 冒頭にても記述したが、今現在の科学・学問とは「理系・文系」が大いに融合していることに間違いない。 
 その一例が元々存在する「経営学」であり「法学」でもあるのではないかと私は考察するのだ。(法の解釈論など、まさに数理思考に基づくのではないかと分析して楽しんだのだが…。)
 すべての学問の基本にあるのが「哲学」及び「数学」であることに間違いないと、私は今尚信じている。

 現在「リケジョ」なるある意味“差別用語”で奉られている女子達に私は提言したい。
 学校の理科実験になど満足して「リケジョ」を目指してもよいのだろうが、もっと理系を目指すための柔軟な“基礎頭脳”を磨いては如何かと。
 それは大学入学後でも遅くはない。 必ずや大学とは「哲学」を筆頭に、貴方たちに基礎教養学問講義を用意しているはずだから、それを惜しみなく受講して、自らの「理系頭脳」を今一度磨こうではないか!! 

 (以上、本エッセイ集2014.02公開バックナンバーの一部を引用したもの。)



 冒頭写真の話題に戻そう。

 何故小4の子ども達は「理科が楽しい」にもかかわらず、点数をとれないのか?
 新聞記事の最後に、大学教授氏の談話があるが。 「(実験等の)体験や感覚として知っていることを整理し、まとめる力が足りないことが見て取れる。」 
 まさにその通りなのであろう。

 
 最後に私見だが。

 要するに、子どもの実験とは単に“遊び範疇”で実施されているのではなかろうか?
 そして指導者の姿勢のあり方がその“遊び”中心に始終してしまい、実験結果のまとめ(要するに、データ処理や考察)部分が手薄になっているとの懸念もある。
 これでは、決して“理系頭脳”が育成されるはずもない。
 
 加えて、そもそも“実験”との“作業”自体が子どもの「理系頭脳」を育成するものではない事も付け加えておきたい。

 「理系頭脳」を育成する原点とは。
 やはり、「数学」であり「哲学」であると私は結論付けたい。
 それを脳内に吸収可能となるのは、ある程度の学習力が身につき脳が急激に発達する中学生以降の学齢ではなかろうか?
 私の場合実にラッキーだったのは、その学齢時に「数学」の授業に於いてそれを語れる教師に巡り会えたことだったと振り返る。
 今思い返しても、実に授業内容にインパクトがあった。 (いやもちろん生徒間の興味の多様性もあろう。 ことこの私にとっては、その後の我が人生を決定付けてくれたとも表現可能な、一人の中学数学教師との出会いだったものだ。)

 下手な実験を子どもに課すよりも。

 教える側の資質や力量が問われる課題であり。
 また、それを受け入れる能力を子ども側が育成出来ているか否かの課題でもあろう。 


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