まず、言葉の解説から始めよう。 (以下はウィキペディア等を参照)
「レイシズム」とは何か?
レイシズムを日本語訳すると、「人種差別主義」。
人種差別主義とは、恣意的に人間を分類して区別・差別することである。 世界的、歴史的に各種の事例が存在している。
人種差別撤廃条約は、定義として「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定めている。
社会学者ロバート・マイルズは、レイシズムを以下のように定義した。 肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し、この特徴により人間集団をカテゴライズし、否定的/肯定的な評価を付与し 一定の人間集団を排除/包摂していくイデオロギー。 ステレオタイプな他者像をともなう。 分類の基準となる特徴は一般に形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見て直ぐに分からない生まれつきの現象(例:血統)も重要な特徴として選ばれることがある。
市民的及び政治的権利に関する国際規約は、第20条第2項で「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める。
ついでに、「ヘイトスピーチ」とは何か?
ヘイトスピーチとは「憎悪表現」と訳される概念。 喧嘩言葉と同様に相手方の内部に憎悪を生み出すような言論(表現)類型と考えられており、話者(表現者)の側の憎悪感情が問題とされる。
ある個人や集団を、人種(民族)・国籍・性といった先天的な属性、または民族的文化などの準先天的な属性、あるいは宗教などのように人格との結び付きが密接な特別の属性で分類し、それを有することを理由に、差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような言動のことを指す。ヘイトスピーチの対象は言論以外に表現全般に及び、例えば宗教的象徴を中傷する漫画や動画の公開や、歴史的経緯を踏まえた上で民家の庭先で十字架を焼却する行為なども議論の対象に含まれる。
一般には「差別的表現」と解釈されることが多い。
人種、民族、国籍、宗教・思想、年齢、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位・経済レベル、外見などを貶め、憎悪、暴力をかき立てるような表現をすることがヘイトスピーチの特徴である。憎悪バイアスをもたらす表現形態としてジェンダー論の立場からはポルノグラフィ規制論とも関係する。個人に対するいやがらせ表現などは侮辱罪やストーカー規制法などの対象となる。
本題に入ろう。
私は常々、日本人程周囲に根拠無き「同化」を強要して平然としている人種は世界に類を見ないのではないか? と嫌気がさしている。
昔ながらの「村八分」がその典型例だ。
あるいは、学校をはじめとする組織に於ける「集団主義」も然りであろう。
はたまた東日本大震災後に流行語となってしまった「絆」なども、人々に無責任な「同化」を強要しているとしか捉えようがない。
最近の事例で言えば、2020東京五輪開催決定に関しても、反対派である私など未だに身の置き場がなく縮こまざるを得ない有様だ。
朝日新聞10月15日夕刊文芸批評ページに、そんな私の日本国内に蔓延っている「同化」への大いなる反発心を払拭してくれそうな記事を発見した。
早速、関西学院大学教授 金明秀氏による「『同化』求めるのも、差別」と題する記事を以下に要約して紹介しよう。
今月7日、在日特権を許さない市民の会らによる京都・朝鮮学校前での街宣活動に対し、人権差別と認める民事訴訟判決が下りた。 その直後より判決に反対するヘイトスピーチがネット上に溢れっぱなしである。 日本に於ける排外主義の根は既に深い。
日本におけるレイシズムの現れ方は2種類あることが分かっている。
「排外主義的レイシズム」とは、日本の伝統や血統とは異なる集団を劣等視したり、互いの差異を誇張することで排除する態度である。 多くの日本人にとってのレイシズムのイメージはこれに当たるだろう。
一方、「同化主義的レイシズム」とは、異文化集団に日本社会の「普通」で「正常」な文化への同化を強制する態度を指す。 これに同化しない限り対等な社会の構成員とは認めないとの態度だ。 欧米の多くの国では「同化」はマイノリティのアイデンティティを脅かすということから、差別の同義語として理解されている。
しかし日本では「同化」は好ましい事と考えられている。 例えば「転校生が土地の言葉を話すようになったとき、本当の仲間になれた気がした」とのエピソードが美談として語られる。
「同化」との言葉とは日本人にとってはある種のロマンチシズムを喚起し、レイシズムへと繋がるような疎外の現実がいつも語られずに終わっている。 その意味でヘイトスピーチの原因は日韓の政治対立である。 そうした「異常事態」が収まれば(日本にとっての)異常事態が収まり「普通」に戻るとの主張は問題が多過ぎる。 日本に於ける「普通」に同化すれば問題が解消するとの楽観的な態度こそが、何年もの間ヘイトスピーチを放置する始末となっている。
日本に於けるレイシズム問題を乗り越えるためには、「普通」に戻るのではなく一人ひとりが「同化」を美化する物語を克服せねばならない。 極端で分かり易い「排外主義的レイシズム」だけを他人事のように問題化して、穏健で分かり難い「同化主義的レイシズム」を「普通」の事として温存する構造を打破しない限り、ヘイトスピーチの被害を食い止めることは出来ない。
(以上、朝日新聞掲載の金明秀氏による記事から引用)
最後に原左都子の私論でまとめよう。
金明秀先生、朝日新聞紙面上でよくぞここまでご論評して下さったものだ。
国際問題に関してはさほど詳しくない私だが、「同化主義的レイシズム」こそが日本人が昔から背負っている「負の気質」の“諸悪の根源”と私が忌み嫌っている現象である。
金氏が記されているように、「排外主義的レイシズム」とは誰にも分かり易い差別主義的思想であろう。 これに関しては、「それはいけないよ」「今は皆平等なんだから、肌の色や習慣が違っても皆が仲良くするべきだよ」と、たとえ小学生であれども応える事が可能だろう。
ところが一旦「同化主義的レイシズム」に移行するなり、この国の市民達とは「やっぱりこの国に来たならば我々に馴染んで欲しいし、我が国の文化に従ってくれたら嬉しい」と志向し始め、そう努力させる事こそが「普通」と感じるのが常であるのが嘆かわしい。
やはり日本とは未だに「島国」であることを実感させられる思いだ。
「絆」「絆」と、その言葉の本来の意味すら理解せずして自分本位に周囲を「同化」しようと企てている輩が多い現状に、辟易とさせられるのみである。
しかもその思慮なき言動により傷付く相手の存在も理解出来ずにいる単細胞気質こそを、この国日本の国民達は本気で終焉させる努力をせねば、今後の真の世界親交が叶うすべもない。
「レイシズム」とは何か?
レイシズムを日本語訳すると、「人種差別主義」。
人種差別主義とは、恣意的に人間を分類して区別・差別することである。 世界的、歴史的に各種の事例が存在している。
人種差別撤廃条約は、定義として「人種、皮膚の色、世系又は民族的若しくは種族的出身に基づくあらゆる区別、排除、制限又は優先であって、政治的、経済的、社会的、文化的その他のあらゆる公的生活の分野における平等の立場での人権及び基本的自由を認識し、享有し又は行使することを妨げ又は害する目的又は効果を有するもの」と定めている。
社会学者ロバート・マイルズは、レイシズムを以下のように定義した。 肌の色など恣意的に選び出された特徴を重要な基準として選択し、この特徴により人間集団をカテゴライズし、否定的/肯定的な評価を付与し 一定の人間集団を排除/包摂していくイデオロギー。 ステレオタイプな他者像をともなう。 分類の基準となる特徴は一般に形質的なもの(例 肌の色、髪の型、頭の形)だが、見て直ぐに分からない生まれつきの現象(例:血統)も重要な特徴として選ばれることがある。
市民的及び政治的権利に関する国際規約は、第20条第2項で「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する。」と定める。
ついでに、「ヘイトスピーチ」とは何か?
ヘイトスピーチとは「憎悪表現」と訳される概念。 喧嘩言葉と同様に相手方の内部に憎悪を生み出すような言論(表現)類型と考えられており、話者(表現者)の側の憎悪感情が問題とされる。
ある個人や集団を、人種(民族)・国籍・性といった先天的な属性、または民族的文化などの準先天的な属性、あるいは宗教などのように人格との結び付きが密接な特別の属性で分類し、それを有することを理由に、差別・排除の意図をもって、貶めたり、暴力や誹謗中傷、差別的行為を煽動したりするような言動のことを指す。ヘイトスピーチの対象は言論以外に表現全般に及び、例えば宗教的象徴を中傷する漫画や動画の公開や、歴史的経緯を踏まえた上で民家の庭先で十字架を焼却する行為なども議論の対象に含まれる。
一般には「差別的表現」と解釈されることが多い。
人種、民族、国籍、宗教・思想、年齢、性別、性的指向、障害、職業、社会的地位・経済レベル、外見などを貶め、憎悪、暴力をかき立てるような表現をすることがヘイトスピーチの特徴である。憎悪バイアスをもたらす表現形態としてジェンダー論の立場からはポルノグラフィ規制論とも関係する。個人に対するいやがらせ表現などは侮辱罪やストーカー規制法などの対象となる。
本題に入ろう。
私は常々、日本人程周囲に根拠無き「同化」を強要して平然としている人種は世界に類を見ないのではないか? と嫌気がさしている。
昔ながらの「村八分」がその典型例だ。
あるいは、学校をはじめとする組織に於ける「集団主義」も然りであろう。
はたまた東日本大震災後に流行語となってしまった「絆」なども、人々に無責任な「同化」を強要しているとしか捉えようがない。
最近の事例で言えば、2020東京五輪開催決定に関しても、反対派である私など未だに身の置き場がなく縮こまざるを得ない有様だ。
朝日新聞10月15日夕刊文芸批評ページに、そんな私の日本国内に蔓延っている「同化」への大いなる反発心を払拭してくれそうな記事を発見した。
早速、関西学院大学教授 金明秀氏による「『同化』求めるのも、差別」と題する記事を以下に要約して紹介しよう。
今月7日、在日特権を許さない市民の会らによる京都・朝鮮学校前での街宣活動に対し、人権差別と認める民事訴訟判決が下りた。 その直後より判決に反対するヘイトスピーチがネット上に溢れっぱなしである。 日本に於ける排外主義の根は既に深い。
日本におけるレイシズムの現れ方は2種類あることが分かっている。
「排外主義的レイシズム」とは、日本の伝統や血統とは異なる集団を劣等視したり、互いの差異を誇張することで排除する態度である。 多くの日本人にとってのレイシズムのイメージはこれに当たるだろう。
一方、「同化主義的レイシズム」とは、異文化集団に日本社会の「普通」で「正常」な文化への同化を強制する態度を指す。 これに同化しない限り対等な社会の構成員とは認めないとの態度だ。 欧米の多くの国では「同化」はマイノリティのアイデンティティを脅かすということから、差別の同義語として理解されている。
しかし日本では「同化」は好ましい事と考えられている。 例えば「転校生が土地の言葉を話すようになったとき、本当の仲間になれた気がした」とのエピソードが美談として語られる。
「同化」との言葉とは日本人にとってはある種のロマンチシズムを喚起し、レイシズムへと繋がるような疎外の現実がいつも語られずに終わっている。 その意味でヘイトスピーチの原因は日韓の政治対立である。 そうした「異常事態」が収まれば(日本にとっての)異常事態が収まり「普通」に戻るとの主張は問題が多過ぎる。 日本に於ける「普通」に同化すれば問題が解消するとの楽観的な態度こそが、何年もの間ヘイトスピーチを放置する始末となっている。
日本に於けるレイシズム問題を乗り越えるためには、「普通」に戻るのではなく一人ひとりが「同化」を美化する物語を克服せねばならない。 極端で分かり易い「排外主義的レイシズム」だけを他人事のように問題化して、穏健で分かり難い「同化主義的レイシズム」を「普通」の事として温存する構造を打破しない限り、ヘイトスピーチの被害を食い止めることは出来ない。
(以上、朝日新聞掲載の金明秀氏による記事から引用)
最後に原左都子の私論でまとめよう。
金明秀先生、朝日新聞紙面上でよくぞここまでご論評して下さったものだ。
国際問題に関してはさほど詳しくない私だが、「同化主義的レイシズム」こそが日本人が昔から背負っている「負の気質」の“諸悪の根源”と私が忌み嫌っている現象である。
金氏が記されているように、「排外主義的レイシズム」とは誰にも分かり易い差別主義的思想であろう。 これに関しては、「それはいけないよ」「今は皆平等なんだから、肌の色や習慣が違っても皆が仲良くするべきだよ」と、たとえ小学生であれども応える事が可能だろう。
ところが一旦「同化主義的レイシズム」に移行するなり、この国の市民達とは「やっぱりこの国に来たならば我々に馴染んで欲しいし、我が国の文化に従ってくれたら嬉しい」と志向し始め、そう努力させる事こそが「普通」と感じるのが常であるのが嘆かわしい。
やはり日本とは未だに「島国」であることを実感させられる思いだ。
「絆」「絆」と、その言葉の本来の意味すら理解せずして自分本位に周囲を「同化」しようと企てている輩が多い現状に、辟易とさせられるのみである。
しかもその思慮なき言動により傷付く相手の存在も理解出来ずにいる単細胞気質こそを、この国日本の国民達は本気で終焉させる努力をせねば、今後の真の世界親交が叶うすべもない。