(冒頭写真は、少し前の朝日新聞記事より転載したもの。 あくまでも原左都子の私見だが、この写真を見ると アインシュタイン氏はかなりイケメンだったと判断できそうだ。)😊
原左都子エッセイ集に於いて、過去に幾度も当該アインシュタイン氏に関して綴り公開している。 (よろしければ、本エッセイ集「学問・研究」カテゴリー等々をご覧下さい。)
何故かと言うと、30歳過ぎて後に2度目の大学として受験・合格し入学した大学にて、自身の当時の専門ではなかった「科学哲学」の授業に大いにハマり。
その講師先生(某私立大学の教授であられ、我が大学には講師の立場で来られていた。)の授業に没頭したがために、アインシュタイン氏の業績に触れることが叶ったが故だ。
そのアインシュタイン氏に関する話題を取り上げた朝日新聞記事に、久しぶりに触れることが叶った。
冒頭写真が、当該朝日新聞記事内のアインシュタイン氏の映像だが。 (私が今までに見たアインシュタイン氏の映像の中で一番イケメンだと評価する。)
表題に記した「光が波であり粒子でもある事実」に関しては。
我がエッセイ集バックナンバーにて、再三公開して来ているのだが。
久々に朝日新聞記事にて目にしたので、ここで少しだけ再掲載させていただこう。
量子もつれの存在に疑問を呈したのアインシュタインだったが、何も量子論全体を否定した訳ではない。 光が波でもあり粒子でもあること(光量子仮説)を最初に指摘したのはアインシュタインだし、彼は量子論の創始者の一人だといえる存在だ。
アインシュタインが問題視したのは、光子の偏光の向きが縦と横のどちらに観測されるかは偶然に支配されており、確率的にしか予測できないという考え方だ。 このような考え方は、デンマークの「コペンハーゲン解釈」とよばれる。
一方のアインシュタインは、光子の偏光の向きは、「観測する前から決定していた(実在していた)はずだと考えていた。 このような性質を「実在性」という。 実在性がやぶれるコペンハーゲン解釈は間違っていると考えていた。
アインシュタインは、物理学者マックス・ボルンへの手紙の中で、「神はサイコロをふらない」という表現を使ってコペンハーゲン解釈に疑問を呈している。 また物理学者アブラハム・パイスに対しては、「月は君が見ているときにしか存在しないとほんとうに信じているか」と問いかけて、実在性がやぶれることへの疑問を口にしている。
アインシュタインは、そのような量子論の考え方の矛盾点を突く論文を1935年に発表した。 論文のタイトルは「物理的実在記述は完全だとみなせるか?」というものだ。
そこで提示された現象こそが、「量子もつれ」だった。 (中略)
この論文は、アインシュタインと二人の物理学者との連名で発表された。 この論文で発表された現象(量子もつれ)は、彼らの名前の頭文字を取って「EPRパラドックス」とよばれた。
(以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
いやはや、夏の終わりにアインシュタインがらみのエッセイを綴れる幸せを満喫させてもらい、大いなる自己満足感に浸っている原左都子だ。
「量子もつれ」に関しては、我が記憶によれば過去に複数回「学問・研究」カテゴリーにて綴り公開している。
今現在となっては、世間では「アインシュタインの業績」を疑問視する声もある、との報道に触れる機会もあるのだが… (この件に関しては、原左都子は現在勉強不足故に論評不能の立場だが…)
上記の如く最新の朝日新聞記事にて、アインシュタインの業績が取り上げられた事実を鑑みるに。
世の科学者の(アインシュタイン等々過去の科学者に対する)評価が割れているとの一現象であり。
それら意見の相違や論争が存在する事実こそが。
今後の科学の発展を目指そうとする科学者たちの本気の姿勢であろうと、私は高評価したい!!