昨夕、自宅マンションのエレベーターに面識のないご婦人と乗り合わせた。
普段エレベーター内で滅多に人と居合わせることはないため、先に乗り込んでいた私は重い買い物袋をエレベーターの床にドスンと置いていた。 後から乗り込んで来たそのご婦人に「こんばんは」との軽い挨拶の後、「大きな荷物を床に置いて申し訳ありません。」と頭を下げて買い物袋を手に持ち直そうとした私である。
そうしたところ、ご婦人が応じて曰く 「いいのよ。大丈夫。」
このわずか10秒間程の面識のないご婦人との会話ではあったが、この会話により原左都子は咄嗟にある事を悟ったのだ。
(相手は私を自分よりもかなり年下とみたようだ。 もしかしたら、ずっと年下のギャルにでも見えたのであろうか??)
上記のエレベーター内での会話は、そのように私が感じるような対話内容であると分析できないだろうか?
こちらとしては相手が面識がないご婦人であるため、当然ながら敬語で話を切り出している。 通常ならばそれに応える相手も敬語で返してくるのが良識的であろう。 にもかかわらず返ってきた返答は 「いいのよ。大丈夫。」 これは明らかに“上目線”からの発言であると分析できよう。
人の年齢とは一見して分からないものである。 特に現在のごとく人のライフスタイルが多様化した時代においては、それが顕著であろう。
上記のエレベーターで遭遇したご婦人に関しては、原左都子側としてはおそらく自分と同年代の女性であろうと想像した。 にもかかわらず返ってきた返答は 「いいのよ。大丈夫。」……
これを“若く見られた”と善意に解釈することにして、話を進めよう。
私事で恐縮だが、原左都子は社会人になって以降ずっと年齢よりも若く見られる人生を歩み続けていると言える。
中高生時代及び学生時代は決してそうではなかった。 子どもの頃より身長が高かったことが大きな要因と自己分析するのだが、例えば中学生の頃にミニスカートで街を闊歩していると片田舎の地方にして既に年上男性にナンパされそうになったこともある。 それはおそらく身長の高さ故に殿方には私が“いっぱしの娘”に見えたからであろうと推測する。
20代前半に上京して社会人になり、ディスコ帰りの朝方新宿歌舞伎町を歩いていた時に高校生に間違われて警察官に補導されそうになったエピソードについては、既に「原左都子エッセイ集」バックナンバーで暴露している。
その後20代後半にして民間企業(参考のため現在東証一部上場企業です。)で同期新入社員の出世頭として係長に任命された後も、社内外問わず一見して誰からも私が職場長であるとは認識してもらえなかったものである。 私が対応に出ると必ずや「責任者の方にお目にかかりたいのですが…」と返されたものだ。 年齢よりも若く見られることの“不利益”を思い知らされると同時に、外見とは自己の内面と一致していることが理想なのかと認識した時代でもあった。
その後年月が流れ、長~~き独身時代を経て高齢出産の娘が現在17歳になっている現在の原左都子はやはり、何処に出向いても「お若いですね!」の言葉のシャワーである。
こんなことを書くと「そんなの、社交辞令に過ぎないよ」とおっしゃる方々も多いことであろう。
その通りであろうが、上記のごとく違った角度からこれを聞き飽きている我が身としては正直なところ、結構鬱陶しくもあるのだ。
話が大幅に変わるが、私は昼間在宅している時にNHKの対談番組「スタジオパークからこんにちは」を見る機会がある。
あの番組の現在の司会者は、3月にNHKを退職して民放での再出発を志しているという住吉美紀氏との女性アナウンサーなのである。
この住吉アナウンサーの司会が原左都子にとっては少々鬱陶しい。 何故ならば、その一つの理由は(今回の記事の趣旨からはずれるが)対談番組の司会者にして自己のプライバシー(住吉氏自身の離婚歴や親の職業等)を語りたがるのである。 対談番組の司会者たるや、あくまでも聞き役に徹するべきであろう。
そしてもっと鬱陶しいのは、住吉氏はゲストが自分よりも年上の場合、番組の冒頭で必ず「お若いですね!」と決まり文句を発するのである。
住吉氏にとっては「お若いですね!」が年配者に対しての褒め言葉の社交辞令であるとのご認識なのであろうが、これはテレビ視聴者の立場としては痛々しいだけである。 NHKのアナウンサーにして何故にその辺の客観力に欠け、いつまでも年配者ゲストに対し「お若いですね!」の決まり文句を多発するのか、そのキャパの貧弱さに辟易としている原左都子なのだ。
あえて、その一例を挙げてみよう。
例えば数日前にゲスト出演した うつみ宮土理氏 や 火野正平氏 など、原左都子の目からみるとその“外見”は今時の60代にしてはずい分と老け込んでおられるようにお見受けするのだ。 ところがお2人のトーク自体は輝きを発しておられる。 テレビのトーク番組とは、ゲストの人物像が本人の内面から湧き出てくるメッセージとして語られることに視聴者は魅力を見出せるのである。 司会者たる者、冒頭で「若いですね」などとの通り一遍の社交辞令で事を済ませるのではなく、その人生の重さを短時間で十分に引き出して欲しいものである。
実際の世界でも事は同様なのだ。
確かに「お若いですね。」の社交辞令の一言は原左都子とて一瞬うれしくはある。 その場限りのお付き合いの場合は、それで必要十分な挨拶言葉と言えるであろう。
ところが初対面にしてのこの言葉とは、発せられた側としてはそれ以上の進展性がないようにも感じられるのだ。 極端な話、「あなたは若く見えることのみが取り得だ」と結論付けられているような側面も含有していると受け止められるのである。 もちろんその後の人間関係の進展度合にもよるが、この言葉によって、いつまでも“若く見えることのみ”を強要されたのでは本人としてはたまったものではない。
要するに、外見を若く見てもらえることはもちろんうれしいのだが、それ以上に人間とは個々が“一人格”を誇りつつこの世に生きている存在である以上、外見的要因を超越して内面を研ぎ澄ました他者とのお付き合いを志すことこそが原左都子としての本望なのである。
普段エレベーター内で滅多に人と居合わせることはないため、先に乗り込んでいた私は重い買い物袋をエレベーターの床にドスンと置いていた。 後から乗り込んで来たそのご婦人に「こんばんは」との軽い挨拶の後、「大きな荷物を床に置いて申し訳ありません。」と頭を下げて買い物袋を手に持ち直そうとした私である。
そうしたところ、ご婦人が応じて曰く 「いいのよ。大丈夫。」
このわずか10秒間程の面識のないご婦人との会話ではあったが、この会話により原左都子は咄嗟にある事を悟ったのだ。
(相手は私を自分よりもかなり年下とみたようだ。 もしかしたら、ずっと年下のギャルにでも見えたのであろうか??)
上記のエレベーター内での会話は、そのように私が感じるような対話内容であると分析できないだろうか?
こちらとしては相手が面識がないご婦人であるため、当然ながら敬語で話を切り出している。 通常ならばそれに応える相手も敬語で返してくるのが良識的であろう。 にもかかわらず返ってきた返答は 「いいのよ。大丈夫。」 これは明らかに“上目線”からの発言であると分析できよう。
人の年齢とは一見して分からないものである。 特に現在のごとく人のライフスタイルが多様化した時代においては、それが顕著であろう。
上記のエレベーターで遭遇したご婦人に関しては、原左都子側としてはおそらく自分と同年代の女性であろうと想像した。 にもかかわらず返ってきた返答は 「いいのよ。大丈夫。」……
これを“若く見られた”と善意に解釈することにして、話を進めよう。
私事で恐縮だが、原左都子は社会人になって以降ずっと年齢よりも若く見られる人生を歩み続けていると言える。
中高生時代及び学生時代は決してそうではなかった。 子どもの頃より身長が高かったことが大きな要因と自己分析するのだが、例えば中学生の頃にミニスカートで街を闊歩していると片田舎の地方にして既に年上男性にナンパされそうになったこともある。 それはおそらく身長の高さ故に殿方には私が“いっぱしの娘”に見えたからであろうと推測する。
20代前半に上京して社会人になり、ディスコ帰りの朝方新宿歌舞伎町を歩いていた時に高校生に間違われて警察官に補導されそうになったエピソードについては、既に「原左都子エッセイ集」バックナンバーで暴露している。
その後20代後半にして民間企業(参考のため現在東証一部上場企業です。)で同期新入社員の出世頭として係長に任命された後も、社内外問わず一見して誰からも私が職場長であるとは認識してもらえなかったものである。 私が対応に出ると必ずや「責任者の方にお目にかかりたいのですが…」と返されたものだ。 年齢よりも若く見られることの“不利益”を思い知らされると同時に、外見とは自己の内面と一致していることが理想なのかと認識した時代でもあった。
その後年月が流れ、長~~き独身時代を経て高齢出産の娘が現在17歳になっている現在の原左都子はやはり、何処に出向いても「お若いですね!」の言葉のシャワーである。
こんなことを書くと「そんなの、社交辞令に過ぎないよ」とおっしゃる方々も多いことであろう。
その通りであろうが、上記のごとく違った角度からこれを聞き飽きている我が身としては正直なところ、結構鬱陶しくもあるのだ。
話が大幅に変わるが、私は昼間在宅している時にNHKの対談番組「スタジオパークからこんにちは」を見る機会がある。
あの番組の現在の司会者は、3月にNHKを退職して民放での再出発を志しているという住吉美紀氏との女性アナウンサーなのである。
この住吉アナウンサーの司会が原左都子にとっては少々鬱陶しい。 何故ならば、その一つの理由は(今回の記事の趣旨からはずれるが)対談番組の司会者にして自己のプライバシー(住吉氏自身の離婚歴や親の職業等)を語りたがるのである。 対談番組の司会者たるや、あくまでも聞き役に徹するべきであろう。
そしてもっと鬱陶しいのは、住吉氏はゲストが自分よりも年上の場合、番組の冒頭で必ず「お若いですね!」と決まり文句を発するのである。
住吉氏にとっては「お若いですね!」が年配者に対しての褒め言葉の社交辞令であるとのご認識なのであろうが、これはテレビ視聴者の立場としては痛々しいだけである。 NHKのアナウンサーにして何故にその辺の客観力に欠け、いつまでも年配者ゲストに対し「お若いですね!」の決まり文句を多発するのか、そのキャパの貧弱さに辟易としている原左都子なのだ。
あえて、その一例を挙げてみよう。
例えば数日前にゲスト出演した うつみ宮土理氏 や 火野正平氏 など、原左都子の目からみるとその“外見”は今時の60代にしてはずい分と老け込んでおられるようにお見受けするのだ。 ところがお2人のトーク自体は輝きを発しておられる。 テレビのトーク番組とは、ゲストの人物像が本人の内面から湧き出てくるメッセージとして語られることに視聴者は魅力を見出せるのである。 司会者たる者、冒頭で「若いですね」などとの通り一遍の社交辞令で事を済ませるのではなく、その人生の重さを短時間で十分に引き出して欲しいものである。
実際の世界でも事は同様なのだ。
確かに「お若いですね。」の社交辞令の一言は原左都子とて一瞬うれしくはある。 その場限りのお付き合いの場合は、それで必要十分な挨拶言葉と言えるであろう。
ところが初対面にしてのこの言葉とは、発せられた側としてはそれ以上の進展性がないようにも感じられるのだ。 極端な話、「あなたは若く見えることのみが取り得だ」と結論付けられているような側面も含有していると受け止められるのである。 もちろんその後の人間関係の進展度合にもよるが、この言葉によって、いつまでも“若く見えることのみ”を強要されたのでは本人としてはたまったものではない。
要するに、外見を若く見てもらえることはもちろんうれしいのだが、それ以上に人間とは個々が“一人格”を誇りつつこの世に生きている存在である以上、外見的要因を超越して内面を研ぎ澄ました他者とのお付き合いを志すことこそが原左都子としての本望なのである。
内面を年相応に見て欲しいって事ですよね?
世の中、外観で判断する人が、普通で当たり前です。
若い女性が、ケバイ化粧で、ド派手な服装、ドぎついヘアースタイルならギャル(メイク)って言いませんか?
これは外観で、判断した典型的な事例です。
自分達は、人を外観で判断してしまうのに、自分だけは、外観をパスして内面を見て欲しいなんて、難しい話なのかもしれませんね。
なぜならば、人間とは人生経験を積むほどにそれと平行して気持ち(内面)もずっしりと重くなっていくものと捉えているためです。
下手に“気持ちが若いですね!”などと言われたものならば、馬鹿にされているのか?と受け取めてしまうようなへそ曲がりであるとも言えます。
若い娘さんに対するお気軽挨拶として「可愛いね」「美人だね」等の社交辞令用語が存在するように、年配者には「若くみえますね」という社交辞令用語が安易に投げかけられるのでしょう。
若年層がその社交辞令を安直に受け止めて喜んでいる分にはまさに「可愛いね」で済ませられるのでしょうが、いい年をした人間が「若くみえますね」という言葉を欲するがあまり、ただひたすら外見を繕ってばかりいるならば、この世の発展は望めないでしょう。
年齢を重ねてこそ、やはり外見のみにこだわって日々を送るのはつまらないです。
還暦が近づいたってギャルメイクをしてもいいけれど、超ミニスカートで街を闊歩していいけれど、それと同時に内面を評価される人間でありたいと原左都子は志し、日々努力を重ねているつもりです。
初対面の人の評価は外面で判断する事は軽薄だと思います。司会者も必要以上の世辞を言う必要は無いと思います。前出のエレヴェーター内の応答でも「良いのよ、大丈夫」よりも「あっ、大丈夫ですよ」あたりが普通であるように思います。
私が若く見えるか否かは別問題として、面識の無い初対面の相手に対して(相手がよほど小さい子どもでもない限り)「いいのよ。大丈夫。」ははやり非常識ですよね。 (「何様なの、あなた?」と言いたくもなりますが、この種の“上から目線”を自然に表出する人種の精神構造とは如何なるものなのでしょう。)
そしてisseiさんがおっしゃる通り、人間関係において必要以上のお世辞は無用でしょう。
などと言っている私も、相手と基本的な思想や価値観が合わずに話題に困窮する場合など、とりあえずお世辞を言って場を繕うことがよくあります。 一応相手を褒めることによって相手から会話を引き出そうとの趣旨なのですが、大抵の場合はそれに喜ぶ相手が一人でくっ喋るばかりで、つまらない時間を過ごすはめになります。
その意味で、トーク番組の司会者とは相当のストレスを食らっているのであろうと察します。
そもそもアナウンサーなどという職業は見かけは華やかそうで、実は自己表現が大いに制限される地道な仕事であることを実感します。
これは今昼もNHKの「スタジオパーク」の前半部分を見て感じた印象なのですが、話が少々ズレて申し訳ありません。