冒頭表題は、2023.11.01付朝日新聞「論の芽」欄より引用させていただいた。
昨日公開したエッセイの続編の形となりそうだが。
早速、冒頭表題が書かれていた朝日新聞記事「論の芽」より、作家・町田康氏による「旅行、そんなに行きたい? 不便だし面倒なのに」の一部を、以下に引用させていただこう。
僕(町田氏)が旅行嫌いである一番の理由は「不便」だからです。家であれば快適に過ごすために用意されているものを、持っていかなければいけない。「忘れていないか」と考えなければいけない。汚れものも持ち歩かないといけない。 (中略)
しかも、「必ず帰る」という重い十字架を背負うことになる。 もう旅行は「遊び」じゃない。仕事以上にめんどくさい。 海外旅行になると、さらに不便も不安も増大する。
僕は消費するより、何かを生み出す方が楽しい。心の中に「いいなぁ」と湧いてくるのは自分の内側から発生する「生産」だが、観光地の人工的な珍奇な所に身を置くのは「消費」と感じる。 (途中大幅略)
なんとなく周囲に合わせて「旅行に行かなきゃ」と思う必要はないし、もし
「家で発散」するタイプであったなら、堂々と家で遊ぶことをおすすめする。
わざわざお金をかけて大変な思いをするのが嫌になったり、やめにしたことも何度かある。
(以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)
ここのところ我がエッセイ集では、今週の木曜日に出発する「郷里旅行」に関する記述が続いているが。
今回の我が「郷里旅行」の場合、そもそも「旅(たび)」と言うよりは実母の永代供養の生前挨拶であったり、郷里出身大学の同窓会出席であったりと。 その目的が通常の「旅」とは異質のものであろう。
それ故に元々“エンジョイ”するのが第一義ではないことが、むしろ私としては“救い”ですらある感覚だ。
これに対して、特に独身時代に友と共に実行した海外旅行(ヨーロッパ、米国、バリ島、香港、etc.)は、楽しむのが第一義であったことには間違い無い。
何と申しましょうか独身との自由度が大きく功を奏したのだろうが、これらの旅行は確かに嬉し楽しいものだった。
その中でも 独身最終期に旅した米国西海岸に於いては、国際恋愛に発展するべく現地男性との出会い等々もあり(結果としては半年程で別れが訪れたが…)、今思い起しても何とも印象深い旅となったものだ。
その後 晩婚後は、どうしても幼い娘中心の旅行とならざるを得なかった。
旅行中の自由度を最優先したい私だが 安全を考慮した場合、例えばエジプト・ギリシャ方面を訪れる際には、不本意だが団体旅行に依存した。
いやいや、某美術家女性(娘の造形・絵画の恩師だが)にどういう訳か50代を過ぎた母親の私が誘われて、インドやアルゼンチン・ブエノスアイレスへ国際美術賞受賞式典出席のための個人旅行へ出掛ける機会を得たのは、何ともラッキーだった!!
あれ程、自由度が高く奔放に活動できた旅行はまたとない我が思い出である。
その後は大学生になった娘を長期休暇中に引き連れて、海外個人旅行へ幾度か行ったものだ。 (ウィーン、米国西海岸、台北、等々)
米国西海岸など私としては人生3度目の旅だったこともあり、娘の意向を無視して自分の方針で旅程を練ったのがマイナスでもあった…
旅程最終日の夕方に 普段は大人しく従順な娘から、「観光名所へも行きたい!!」なるオファーが出て。
我が独りよがりの旅程を十分に反省させられた… 😭
急遽、タクシーにて「ゴールデンゲイトブリッジ」へ走ったものだ!
あの時娘と2人で観た、夕焼けに輝くゴールデンゲイトブリッジの何とも美しかったこと。
ホテルへの帰り道タクシーの中での娘の笑顔が今でも忘れられない。
我が脳裏にいつまでも残っている、娘の笑顔の光景… これぞ、旅行の醍醐味かもしれない。😷 😪
そのように考察してくると。
最初は乗り気でなかったとて、旅行中に多少の失敗があったとて。
やはり、旅行って “行ってなんぼ” のものではなかろうか?!?
我が今週の郷里旅行も、そうであって欲しいものだが…