原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

腰を落ち着けて、他者とのかかわりを

2009年11月14日 | 自己実現
 慌しい一週間を送り、久しぶりに腰を落ち着けて我がブログの記事作成画面に向かう時間を取ることができた私である。


 5日前に公開した前回の記事 「“老いらくの恋”の顛末」 のコメント欄において、記事のテーマからはずれるが、老後の我が人生の送り方についての展望などを少々述べさせていただいた。
 高齢出産ゆえに老齢に向かいつつある今尚、子育て真っ最中の日々を余儀なくされている私である。 子どもを一人前に育て上げ親としての役目を全うした暁には、我が全霊を傾けられるような何らかのまとまった事柄に集中して取り組み、まだまだ実りある日々を送りたい旨の我が密やかな夢の序章を前記事のコメント欄において呟かせていただいたところである。


 そんな折、本日(11月14日)の朝日新聞別刷「be」“悩みのるつぼ”に掲載された悩みの相談内容の、周囲を慮ることなく自己満足の世界にどっぷり漬かっているがごとくの、子育て中女性の“軽薄”とも受け取れる“多動行動三昧”の様子に首をかしげてしまった私である。

 早速、50歳女性による「貪欲、前進欲で身が持ちません」と題する上記相談を以下に要約して紹介しよう。
 仕事、学生、子育ての三つのわらじを履く50歳の女性であるが、3人の子どもを育てながら医療系の専門職で正社員として働き、50歳を目前に大学に編入しヒーヒーいいながら生活している。どう考えても破綻しそうな生活だが、まだまだやりたいことが山ほどあるし、大学院へも進学したい。 仕事ではいろいろなアイデアが出て仕事量が増えるばかりで、専門分野をベースにした会社を起こし、いつかは中学レベルの英語力も克服して自分の仕事の一部を海外の人にも紹介したいと思っている。 腰を落ち着けて一つのことに取り組む人が羨ましく感じつつも、頭の中でいろいろひらめいてしまう。大学の卒論提出もせまっているが、次々と「やりたい事が出てくる病」は治らない。 「貪欲、前進欲」に苦しむ「肉食おばさん」は、今後どういうふうに考えればよいのか。
 

 私論に入ろう。

 この相談女性を取り巻く諸環境が自分の好き放題生きられるごとく万全に整っているのであれば、好きになさって一生を全うされたらよいのではと、とりあえずは申し上げたい。

 この相談のみでは相談女性の行動パターンは把握できても、その日々の“頑張り”がもたらす成果やご自身の満足度や周囲への貢献度の程は不明である。
 もしかしたらこの女性は、日々の生活が破綻する程忙しい割には、実はその忙しさがもたらす収穫や満足感を得られていないのではなかろうか?? あるいは自身が設定した課題の“目標達成評価”を怠っているが故に、何らのプラスのフィードバック感もないまま、次から次へと多動行動に走らざるを得ないのではないかとも懸念する。 もしも、自分なりに自己の目標課題行動に対する達成感が得られているならば、あえてこのような悩みの相談を新聞に投稿しようなどとの発想もない程に充実した日々であるはずだ。

 この相談女性の50歳までの生育歴や人生の歩み等のバックグラウンドがまったく不明であるため、容易には物申せない。
 その上で多少気にかかるのは、もしかしたら生来的に“多動性行動”に走る傾向にある人物なのではないかという点である。  本人がおっしゃるように、本心から“一つのことに取り組む人を見ると羨ましく感じる”にもかかわらず自分自身を制御できず多動行動に走っているとすれば、それは先天的な要因であるのかもしれない。 (そうであるとするならば医学的観点から話が多少厄介となるため、今回は“スルー”させていただき、そうではないことを前提に私論を進めよう。)

 相談女性と同じく子育て中である私が一番気にかかる点は、その女性の3人の子ども達との普段のかかわりである。 医療関係の専門職の正社員として働きつつの大学生ということはおそらく夜間大学へ通っているのであろうが、一体全体3人の子ども達といつ親子のかかわりを持っているのであろうか? この辺に関しての記載が相談内にまったく見当たらないのだが、これはどう考察しても3人の子ども達が“なおざり”にされている日常を想像するしかない。 はたまた、ご亭主とは日頃どのような関係が築かれているのかもまったく把握できない。

 相談女性は確かにある意味で“貪欲”なのかもしれないが、この種の多動行動が決して“前進欲”とは言えないにもかかわらず、本人がその言葉で自己を表現して自己肯定しようとしている辺りも大いに気にかかる。
 こんな多忙な状況下で、子育て中の子ども達(年齢は不明だが)と普段いつ会話して、母親としていかなる子ども達の未来を描いているのであろうか?


 自称「肉食おばさん」に提言したいのだが、もし貴女が“先天的多動性気質”(医療がご専門とのことですから、ご自身である程度自己診断出来ますよね??)の持ち主ではない限り、とりあえずは子育て中の子どもさん達と十分なかかわりを持つ事に重点を置きつつその成長を願ってはいかがであろうか? 
 その上で尚余力があるようならば、今後あくまでも「自己責任」の下でさらなるチャレンジに突き進めばよいであろう。

 お互いに少なくとも一番身近な子どもをはじめ周辺の他者とのかかわりを尊重しつつ、ビジョンを明確にして納得いくまで“前進”しませんか。
        
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“老いらくの恋”の顛末

2009年11月09日 | 恋愛・男女関係
 いや~、これまた何ともお粗末な恋の顛末の物語である。

 今時“老いらくの恋”自体に関しては特段珍しい社会現象でもないため、今回の本ブログの記事においてはそのもの自体をテーマに論評しようとする趣旨ではないことを、最初にお断りしておく。


 昨日(11月8日)、朝日新聞別刷「be」の“悩みのるつぼ”に寄せられた66歳無職男性からの相談を読んで、呆れ果てるやら相談者男性が気の毒であるやら、やるせない思いの私である。

 それでは早速 「40年連れ添った妻の浮気で」 と題するその相談内容を以下に要約して紹介しよう。
 私の63歳の妻が4年程前から山仲間のグループ内で63歳の男性と出会い、回を重ねるにつれて気心も知れ、浮気となったようだ。この話をつい1ヶ月程前に妻の告白で初めて知った。「早く手を切りたかったが、脅されて…」と泣きながら妻から訴えられた時には、とても信じられなかった。あまりのショックに血圧が上がり医者通いになり、睡眠不足の日々が続いている。そしてこの男性が妻と別れたくない一心で今度はストーカーに変身して、現在警察の世話になる始末である。 4年程前と言えば、自分は寝たきりの母の介護や町内会などの福祉活動に飛び回っていた。妻に関しては監督不行き届きで少々夫婦間の会話も不足していたように思う。 40年も連れ添いながら悔しさと腹立たしさの毎日で、離婚を考慮している。 妻はやり直したいの一心のようだが、悩める日々である。
 (以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」への66歳男性の相談より要約)


 早速、私論に入ろう。

 この相談を読む限り、相談者の男性側には何らの落ち度もないと私は判断する。
 いい大人同士である夫婦関係において両者は対等関係以外の何ものでもなく、夫が妻に対して(その逆も)“監督責任”などないどころか、どちらか一方が相手を管理下に置く事は法的にも大きな問題を孕むことは明白である。 また、熟年夫婦間で少々会話が不足することなど、どこの家庭においても日常茶飯事の一般的現象であろうと私は捉える。

 
 それに引き換え、この妻の“思慮の浅はかさ”や“他力本願気質”は一体どうしたことか??
 そうねえ。 山仲間に限らず男女が集う会合の場で、異性と意気投合するなどということはよくあるシチュエーションではあろう。
 若い世代の人達はその種の男女の出会いの場が欲しいがために積極的に「合コン」などを企画して、自らの出会いの場を演出しているのは理に叶った行動力であり、私などそんな若者を応援したい立場である。(この私も遠い昔に足繁く「合コン」に出かけた人種だしね~

 この相談者の妻の一番許し難き点は、60歳代というその熟年にして今尚自己が確立できていない部分である。 (こういう軟弱女の存在が、世の自立している女性達の足を引っ張っているのは事実だよ~)
 浮気などあくまでも自己責任の下でやりなさいよ、と言いたくもなる。“自己責任”の意味もその重みも知らずに、ただ自らの気持ちが趣くままに浮気などするからこういう結末となるのだ。 
 当ブログのバックナンバー記事「隠れてコソコソやる美学」においても既述しているが、不倫や浮気とは“決して他者を巻き込まない、不幸にしてはいけない”との確固とした信念の下でやるべき行為なのである。 そのすべての責任を自分一人で背負う覚悟と、破綻の後には自ら不幸を一心に受け入れる決意が常に背中合わせの緊張感の下に決行するべき業なのである。

 まったくもって、この妻の言動は子どもじみている。 自分の山仲間の男と懇(ねんご)ろの仲になるなとは言わないけれど、相手の男のストーカー気質など早期に見抜けて対応できたであろうに…。 4年間夫に背いて自分だけいい思いをした挙句、相手のストーカー男に脅された始めたからと言って、よりにもよって背信行為をして裏切った夫に泣き付くとは、一体全体どんな神経をしているのか。 行き着くところ自分の亭主に頼るしか生きるすべのない女に、浮気などする資格は誰が考えても到底ないよなあ。


 相談者のご主人は、まったくもって気の毒としか言いようがない。 何の落ち度もないのに高齢にして警察沙汰にまで巻き込まれ、体調を崩しつつこのような相談を新聞に投稿するしか手立てが打てないご様子に同情するばかりの私である。

 この相談の回答者でいらっしゃる作家の車谷長吉氏が回答欄で述べられているごとく、妻の浮気相手のストーカー男に襲撃されて命を落とす前に、未熟な奥さんとはとっとと離婚して別の場所で暮らしましょうか? と、私とて言いたくもなる。

 ところがもっと辛いのは、相談者であるご主人が“子どものごとく未熟な”奥方の裏切り背信行為に体調を崩してまで苦悩しているにもかかわらず、それを切り捨てる覚悟も無く今尚その奥方の存在を頼っているのが相談内容から見え隠れしている点である。


 誰しも若かりし頃には様々な喜怒哀楽を乗り越えて、いくらでも自分の人生を取り戻せたものである。
 ところが年老いた人間達にとって人生を立て直すこととは実は多難な作業だ。
 にもかかわらず、若者の言動パターンをいとも簡単に模倣できる情報入手手段が多様化した現代社会の下で、深い思慮もなく若者同様の行動に走って享楽だけを真似し、自ら不幸のドツボにはまる年寄りが増殖しつつあるような軽薄化した今の時代なのであろうか?? 
             
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変わりたくない、変わらない

2009年11月07日 | 自己実現
 昼間在宅している時に、私はNHKの「朝の連続テレビ小説」(と言うのか?? 正式名称は不明だが、若手新人女優にとっての登竜門とも言われている、もう何十年来続いているNHKの例の15分ドラマのことであるが) の昼の再放送を見る習慣がある。
 決して私があの“マンネリドラマ”を好んで見る程、日々暇を持て余す“プー太郎主婦”ではない (ほんとか?)ことを、最初に断っておく。

 いつも若い女性が主人公であるため、テーマがどうしてもその年代の女性の生き様に限定されざるを得ないようだ。 またドラマ放映時間帯の視聴者がおそらく主婦層が大多数であると思われるため、これまたどのシリーズも「家族物語」のドタバタ劇とお決まりのパターンでもある。

 このドラマの主人公女性は、シリーズが幾度変わろうがいつもその人物像が限定されている。 とにかく元気だけが取り柄で素直で明るく、ちょっと抜けているところが周囲に愛されるという設定なのだ。
 言っちゃ悪いが、今時こんな“単純バカ”的天然質の若い女性が現実社会に存在し得るのか? 存在するとしてもこんな単純キャラが決して流行(はや)らない時代であるし、この手の“お気軽”女が周囲から無条件に愛されるという設定にも現実味が無く“いじわるばあさん”の目線からは受け入れ難いんだけどね~。
 そして、その主人公が失敗を重ねつつ成長する姿を半年に渡って描いているのも“お決まり”である。 世の中、そんなに甘くはないよな~。

 などと批判精神旺盛な割には、この10月から始まった新シリーズを結構気合を入れて見ている私である。 それには特別な理由があるのだが、その理由とは我が故郷が今回のシリーズの舞台となっていることである。 なんせ、あの独特の方言こそが“我が遠く過ぎ去りし過去のノスタルジー”なのだ。 俳優の皆さんが発する方言が正確とは言えないまでも、要所要所の特徴は捉えられていて懐かしい事この上ない。 10月以降、あのドラマのせい(お陰)で話し言葉にお国方言が混じってしまっている“バイリンガル”の私である。


 前置きが長くなってしまったが、今回の当ブログの記事は「NHK連続テレビ小説」について論じようとする訳ではない。 このドラマの中で発せられたある文言が印象的であるため、その文言について考察しようというものである。

 上記ドラマの中に、亀園さんという海がめセンターの女性学芸員が登場する。この亀園さんのドラマ上での人物像の設定は、海がめ専門の学芸員であり、海がめ一筋に生き「海がめになりたい」と心より願う程に海がめを愛する女性である。
 この亀園さんがドラマに登場当初より幾つかの名言を発している。亀園さんの発する名言が、まだ未熟であるが故に亀園さんの生き様を理解できない主人公の単純さと交錯しつつ、物語が展開している最中である。

 亀園さんが登場した当初より何気なく発するその名言に、共感する私である。
 例えば主人公女性が亀園さんに対して「なぜその道に進んだのか?今後海がめ専門家として何を目指すのか?」と詰め寄った時、亀園さんは「人生に道などない。私は海がめになりたい」と独り言のようにつぶやく。
 あるいは、“世界を舞台に活躍する編集者になりたい”との至って単純な夢を描いている割には大した努力も深い思慮もなく、元気だけを活力に独りよがりに活気付いている若気の至りの主人公に対し、亀園さんは「自分自身のコンパスを持ち、何億年も変わらずに世界の海の中で生き抜いている海がめのように、私も変わらずにありたい」と相変わらずである。 (ドラマの台詞の記憶のみを頼りに綴っていますため、正確さに欠ける点をお詫び致します。)


 さて、最後に私論を述べよう。

 そうだなあ。 このドラマの主人公は大学卒業後間もない20歳代前半位の年齢設定であるため、まだまだ単純でお気軽に生きていて当たり前の年頃であろう。
 この主人公のごとく、小学生の頃から自分なりの夢を描けていてその夢に向かって猛進している割には、何らの能力も備わっていないのに就職にありつける状況は奇跡的に恵まれているとしか言えない。 現実世界においては、大した能力もない若造がこんなに順調に事が運ぶすべもないのは、やはりドラマだから故の単なるフィクションの世界の話であろう。

 そんな中、亀園さんの発する言葉には現実性があり重みがある。
 自分の好きな事、それの発展型である自分の「専門」を極める行為とは、本来のその目的は決して“世界を目指す”ことでも“何らかの実績を残して有名になる”ことでもないはずである。 そう言った付随的な事柄とは、当初より目標として掲げるものではなく、結果として後からついてくる場合もあるという程度のものであろう。
 “海がめになりたく”て海がめを研究し、その海がめのために道など無い人生の変わりのない日々を地味に歩み続ける亀園さんの姿にこそ、実りが訪れることもあろうと私も共感するのだ。


 こんな私の拙いブログでも、知人より「出版」のアドバイスをいただけることがある。 このような自分勝手なオピニオンエッセイが元より売れるはずもないと冷静に判断するが故に、損失を計上してまで出版に踏み込む気もさらさらない“計算高い”私である。
 それ以前の自分自身の哲学として、亀園さんのごとく「変わりたくない、変わらない」「海がめのごとく自分なりのコンパスを見失わず」、いつまでも大海を遊泳し続けるような人生の楽しみもあろうかと考察する原左都子でもある。  
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キャリアは不採用から始まる

2009年11月05日 | 仕事・就職
 「こんな会社に落とされるとは…」

 職員採用試験に不採用となり、上記のごとく (ここまでレベルを下げれば採用されると思っていたのに、こんな会社にさえ門前払いを食わされるのか…) と嘆く就職希望者が今の時代、世に溢れていることであろう。

 朝日新聞の生活面で現在「不採用にめげない」と題するシリーズ記事が掲載中なのであるが、11月2日の“シリーズ③”においても同様の嘆きの事例が取り上げられていた。
 その記事によると、55歳のある女性は「こんな会社でも落ちるなんて…。私って世間からいらない人?」と肩を落としている様子である。この女性は2月に派遣切りに遭って以降約50社に応募し、現在全敗状態とのことである。

 そうか~。 55歳にして果敢にも採用試験に挑んでいるんだなあ~。 この不況の真っ只中、若い世代の人でさえ超就職難の現状なのに、高齢者が就業を果たすのは“神がかり的”なのだろうなあ、と同情する私である。

 かく言う私も、当ブログのバックナンバー記事「就職活動悪戦記」において既述済なのだが、今から3年程前に就職活動に邁進した時期がある。 その時既に50の大台に乗った年齢である私が、子どもの中学受験のフォローを経て子どもを無事中学進学させたことをきっかけに、熟年にして再々々…就職目指して我が各種専門分野の採用試験を受け倒したものである。

 その3年程前まで医学関係の最先端の専門分野で(単にアルバイトの身分ではあったが)就業していた私は、まだまだ自分の専門力が社会に通用するはずだと信じて、あくまでも自分の専門を活かせる業務への就業に狙いを定め就職試験にチャレンジしたのである。 私の専門職種分野を大きく分類すると医学関係、教育関係の二つなのだが、それらの職種の経歴・資格等の応募条件を満たす求人に的を絞って応募したため、事前に履歴書を郵送した場合には、ほぼ100%の試験面接通知が届いたものである。
 当時は今ほどには経済不況が激しい時代ではなかった。とは言え、採用側は労働基準法をはじめとする雇用における法的規制の動きが厳しくなりつつある時代背景の下で、求人に際して決してそれに違反してまでも身勝手な雇用条件を前面には出さないものの、水面下では、特に“年齢制限”に関しては各事業所が確固とした基準を定めていることをこの私も実感させられたものである。 採用側が呈示した表向きの応募条件を応募者が満たしている以上とりあえずは来社させざるを得ないけれど、高齢者など最初から“お呼びでない”ため、何とか理由を付けて不採用に持ち込みはじき出そうとする言動が採用側に見え見えなのだ。(詳細はバックナンバー「就職活動悪戦記」を参照下さい。)
 それでも私は、今時の採用側の採用担当者の力量の程やその事業所のレベルをとくと拝見するのも一つの楽しみで、不採用となることを承知の上でいそいそと採用試験に出かけたものである。

 そんな中、雇用業界の観点から判断すると“高齢者”である私にも、採用通知を届けてくれる希少な事業所が当時複数存在したのだ。
 その一つが当ブログバックナンバーで紹介している「某学習教室フランチャイズ」大手業者であり、これに関しては結局自ら早期撤退を選択するに至った話も本ブログで既に公開済である。
 もう一つは某医学関係の事業所からいただいた採用通知であるのだが、実はこれに関しては面接時から採用されるであろうとの予感は私の方にもあった。 採用担当者が私の経歴や人となりを気に入ってくれた(??!)ことを“年の功”故に直感したのである。  面接後に実際の職場まで案内いただき、その場で私が担当するべく仕事の詳細に渡る説明まで伝授いただいたものだ。  ところが、そんな職場長の配慮は心よりうれしかったものの、実際の職場まで披露されたことが私にとって大きなプレッシャーとなってしまった。 医学方面におけるブランクを余儀なくされている私が、今となって人命を預かる専門性の高い仕事を真っ当にこなせるのであろうか?、との大いなる不安感が私の脳裏に過ぎってしまったのだ。 自己弁護以外の何ものでもないが、責任感が強靭な私はその旨正直に事業所に伝えて採用を辞退させていただく結論を導いたものである…。 (その失敗以降、もう二度と医学専門職の門戸をくぐることはない私である。)

 そんなこんなで、やはり“高齢者”とは様々な意味合いで職場にとって厄介で扱いにくい人材である事に“高齢者”の立場で同感している私である。


 私のような年寄りの話は二の次でいいとして、若い世代の皆さんにとっての職員採用試験の場においての“不採用”とは、今後の自らのキャリアを磨くまたとないチャンスであるのかもしれない。
 何度も“不採用”の経験を積み重ねる中で、採用側が何を欲しているのか、あるいは採用担当者やその主体である事業体の社会的ポジションや力量や職員採用の真意の程を見抜いていく場とすればいい。 そうすることにより自己が育んできているキャリアがさらに磨き抜かれて、たとえ歴史的不況の厳しい就職状況の下でも、今後自分自身から主体的に就業先や将来像を決定できる洞察力や決断力を磨けるかもしれない。


 “不採用”と“採用”の間には何の距離もないどころか、“不採用”経験こそが今後の長い人生における自らのキャリアを育てる試金石と成り得るであろう。
            
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“聞き上手”の言い分

2009年11月03日 | 人間関係
 本ブログ「原左都子エッセイ集」において勝手なオピニオンを“言いたい放題”発信し続けている原左都子であるが、ネットを離れた現実社会においては、以外や以外“聞き上手”であると自己診断している。


 昔から生来的にそうであった訳では決してない。 ご覧の通り、常に発信したい種々のオピニオンを我が心中に山と抱えている私であるが故に、もしも話す場さえセッティングされれば、存分に喋り倒すエネルギーは常に内在している。 それが証拠にアルコールが入ると冗舌となり、周囲の迷惑を顧みずに一人芝居の演説をぶって顰蹙を買うことも少なくない。


 そんな“浅はか”な私が気が付けば“聞き上手”に転身していたのは、そのように志向してそうした訳ではなく、様々な人生経験がもたらした自然の成り行きであるのだろうと分析する。

 例えば職場において上司の立場となったり外部交渉の業務を経験することは、まだ若かりし私にとって“聞き上手”のノウハウを習得するにはまたとはない修行の場であったものだ。
 あるいは学校の教員など、生徒の話の“聞き上手”であることが生徒指導の第一歩であるとも言える。(ところが、こんな指導の初歩すら理解せずして、説教好きの“勘違い組”の熱血教員が学校現場には何とまあ多くのさばっていること…。 生徒に人気のある教員とは例外なく生徒の話の“聞き上手”であるのにねえ…)

 子を持つ母となって以降は、これぞ“聞き上手”の力量発揮の舞台である。
 子どもがまだ物心付かない頃に、人間特有に備わっている“話す”という能力を徐々に発揮し始める子どもが発するたどたどしい言語に耳を傾け反応することは、日々その子をじかに育てる母でしか享受できない至福の時間であろう。
 既に高校生に成長している我が子の「日課報告」を毎日聞きつつ、親子で笑い転げたり、ある時は子の苦悩に耳を傾け親子で対策を練る貴重な時間も、出来ればずっと末長く子どもと共有し続けたい一時である。

 故郷で一人暮らしの年老いた実母の話を電話で聞くのも、娘としての私のノルマである。
 これが、いつも嫌になるほど長~~いし、何度も同じ話を繰り返すという年寄りに特徴的な習性に例外がないのである。  時々堪忍袋の緒が切れそうになる私であるが、80歳近くになって尚、一緒に暮らしたいとも訴えずに田舎で一人で気丈に頑張っている母の“並々ならぬ決意”の程を思えば、“聞き上手”であることがせめてもの親孝行かと、親を放ったらかしている我が身として罪滅ぼしをする私である…


 一方で、私が“聞き上手”であらねばならぬ場面でないにもかかわらず、話を聞いてもらっていることに気付きもしないで、くだらない話をくっちゃべり続ける“単細胞人間”が、今の時代老若男女にかかわらずなんと多い実態なのであろう。

 例えば、ある場である人物とあくまでも対等関係で初対面であるようなシチュエーションにおいて、私としては話のとっかかりを繕うためにいつもの“聞き上手”のサービス精神でこちらから相手に語りかける。 そうした場合、私の問いかけに一通り答えた後で、通常は同様の質問を問い返す等の配慮をするのが会話関係の常識と私は認識しているのだが、こんな初歩的で簡単な会話術を心得る人がほとんどいない現状なのである。 引き続きその相手との会合を続行し時間を持たせるためには、こちらから“興味もなく聞きたくもない”質問を続け相槌を打つしかないのだが、相手は相変わらずそんな聞き手側の思惑を推し量る事ができず、問いかけに対して一人でくっちゃべるのみである。 こちらは欲してもいない回答を聞かされてばかりで、とてつもなくつまらない時間が過ぎ去るのだ。(こんな相手とは、今後一切付き合いたいとは思わないよな~~)

 どなたも自分の事を話す事には熱心である。 特にこちらが誠意を持って聞き役に徹した場合、自分の事を“聞かれる”ことはそれはそれはうれしいようで、喜んでいろいろと答えてくれる。 ところが、“聞き返し”という技をこれ程一般庶民が身に付けていないのは、一体どういう訳なのだろう??
 これはやはり、学校教育における「横並び教育の所産」(本ブログ同名のバックナンバー記事をご参照下さい。)であり、またこの国における“人間関係の希薄化現象”の成せる業であろう。
 早い話が、自分とそれに利害関係のある周辺にしか興味がなくて狭い視野しか持てず、自己中心の閉鎖空間で生きる国民が増殖している現状なのである。こんなことでは国民のグローバル性が育つ訳など到底ない。
 そんな現状にさらに拍車をかけるごとく、新政権は国民に“スズメの涙”程の手当をバラまくと言う。そのような短絡的な政策では、「友愛」の原点となるコミュニケーション能力が末端庶民に育つはずもないであろう。


 (最近テレビの国会答弁を好んで見ている私であるが、昨日昼間に放映された予算委員会国会答弁における自民党の大島さんの代表質問は、冷静沈着かつ専門力も伴っていてなかなかのものがあるぞ、頑張れ!!、とついついテレビの前で力を入れて応援した原左都子である。 それに答える鳩山さんも“敵の攻め”に対して“聞く耳”をお持ちのようだし、相当の頭脳の持ち主であられるのをこの原左都子も実感できて、“結構いけてましたよ~”と褒めて差し上げたいところである。  ところが残念なことに、鳩山総理はいざ答弁の段になると、その頭の良さ故に言葉を選び過ぎるのか、あるいはあえて丁寧な言葉を使うことで国民の耳を錯乱しようと企てているのか、ご自身の主義主張が曖昧模糊としてしまうところが難点であるなあ~。 原左都子としては、大島さんが何度も指摘されたように、質問に対してもっと単刀直入に答えてくれた方が一般国民に分かりやすいのかとも感じたものでありますぞ。)
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