原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

25年前の8月12日、私は…

2010年08月12日 | 雑記
 毎年8月12日が訪れると、25年前に起きた日航ジャンボ機墜落の大惨事が私の脳裏にフラッシュバックする。

 私は25年前のまさにこの日に、この歴史的大惨事の第一報を旅先のテレビのニュースで見聞した。


 当時30歳を直前に控え未だ独身だった私は、自己実現欲に溢れると同時に、恋愛三昧とも言える日々を謳歌していた。

 その頃付き合っていた男性とは音楽の趣味が合っていた。 私が素人ロックバンドのボーカル経験があることを知った男性の提案で、“にわかロックバンド”を結成して三重県の音楽リゾートで合宿をしようという話になった。 その男性が自分の仲間の素人ミュージシャン数名に声をかけ、車2台に分乗して音楽リゾートへ向け1泊2日のスケジュールで三重県へ旅立った。 車での出発組はボーカル担当の私が紅一点だったが、現地で“観客担当”の女性2名が合流することになっていた。  「ロックバンドの合宿」と言えば聞こえがいいが、実はこの旅行は要するに独身男女の“合コン旅行”と表現するのが相応しいことを、当然ながら承知の上での旅立ちだった。


 8月12日と言えば、我が故郷における日本に名高い盆踊りの開催日初日でもある。 毎年この時期には、職場の夏季休暇を利用して郷里に帰省するのが例年の私の行事であった。 ところが85年の夏は、上記の「ロックバンド合宿」のスケジュールが入ったため故郷には帰省しないつもりなのだが、実家の親には“軽ノリ合コン旅行”へ行くことは内密にして、その年は帰省しないことのみをあらかじめ伝えておいた。


 さて、8月12日の出発の朝はあいにくの雨だったことをよく憶えている。 私が指定した自宅近くの待ち合わせ場所に車2台が到着し、私は当然ながら当時付き合っていた男性が運転する車の助手席に座った。そしてその車には、その男性と一番親しい“ミュージシャン”が後部座席に同乗していた。 この三者関係は至って良好だった。
 昼食のために立ち寄った食事処において私はもう一台の車のメンバーと初対面となるのであるが、これがどうもギクシャク状態なのだ…  3人とも無愛想この上ない。 それもやむを得ない話であろう。 どうも無理やり集められた感覚があった。 (まあ、現地に着けば女性2名が合流するし、何とかなるかもしれない…)との希望を繋ぎつつ、不安を抱える私である。
 そしてその日の午後三重県のリゾートに到着し、2名の女性も合流して、音楽リゾートのスタジオでいよいよ「ロックバンドの練習」と相成る。 練習曲は既に決まっていた。私が過去にボーカルをした楽曲の練習をして来くれていたメンバー達が、音合わせの後直ぐにその楽曲を奏でてくれる。 ボーカル担当としては、これは心地よい!  女性2人もノリよく音楽に合わせてそれぞれに踊ってくれたりする。 それはいいのだが…

 どうしても、にわかに集められたミュージシャンメンバーのノリがイマイチ悪いのだ。 それが気になって仕方がない私は心より楽しめないのだが、当時若気の至りの私はそれにどう対応していいのやらその方策が持てないままこの「ロックバンドの合宿」は終焉を迎えることになる。
 その後、この“にわか仕立ての合コン”は夜の飲み会へと時が移る。


 テレビニュースが大惨事の前兆を伝えたのはちょうどその時であった。
 「東京から大阪に向かっている乗客乗員524名を乗せた日航ジャンボ機が消息を絶った…」

 我が“にわか仕立ての合コン”仲間の間にも戦慄が走った…

 あの時我が心の内部にどんより押し寄せたのは、何と表現してよいのかわからない一種“罪の意識”だったものである。
 私はいろんな人の思いを裏切ってこの旅に出ている。 私の我がままでロックバンドのボーカルを再現したいがために見知らぬミュージシャンにご足労いただいて迷惑を掛けてしまっている。 郷里の親にも今年のお盆は帰らないと言ったものの、その結果は、こんな面白くないことになってしまった…。 そして、現在付き合っているこの男性を私がどう捉えているのかに関して自己分析も出来ていないのに浅はかにもこのような旅に出てしまっている…
 だから、こんな大惨事が同時進行で起こってしまったとしか考えようがない……


 あくる日、予定通り東京の単身住まいの居住地へ私は帰宅したのだが、私の固定電話には郷里の母からの留守電が何本も入っていた。
 それは今夏は帰省しないと言った私の安否を郷里の母が気遣うものだった。
 (娘はああ言ってたけど、きっと今年も“阿波踊り”を見るために墜落した日航ジャンボ機に乗って大阪経由で帰省しようとしていたのかもしれない…  娘と昨日から連絡が取れないのは娘が墜落事故に巻き込まれているからに間違いない! テレビニュースでも娘の名前と似た搭乗者名が発表されていた!)……
 

 徳島の“阿波踊り”は本日(8月12日)開幕である。
 25年前に、阿波踊りの開催初日に日航ジャンボジェットが墜落したのも何かの怨念かと、その地の出身である私は今でも少しだけ思ったりもする……

 先週から発生している台風の影響はどうなのだろうか??  これ程に郷土愛のない原左都子ですら、毎夏徳島の天候が“阿波踊り”開催中の8月15日までの4日間は晴天だといいと願ったりもするのだが……

 今年のお盆も郷里へ帰省しない私は、日航ジャンボ機犠牲者520名の冥福を祈りつつ、せめても夜7時のNHKニュースの最後のわずか10秒間で、束の間の郷里の“阿波踊り”を楽しみたいものだが…。
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高齢者所在不明のミステリー

2010年08月10日 | 時事論評
 表題においては「ミステリー」と表現したが、これはミステリーなどではなく、現実人間社会の内面に蔓延っている病巣が表面化した事象であると位置付けるのが正確であろう。


 先週、東京都足立区に生存しているはずの111歳高齢者男性の自宅における白骨死体での発見がニュースとして報道されて以降、日本全国の自治体は100歳を超える高齢者の所在確認作業に追われている様子である。

 本日(8月10日)現在の100歳以上の不明者は全国各地で193名にも及んでいるとのことである。
 中でも、神戸市においてはなんと105名もの大量の高齢不明者が判明したとのことであるが、神戸市における100歳以上の人口が847名とのことで、その1割を超えるお年寄りが所在不明のまま放置されていたとの計算になる。

 一例を挙げると、戸籍上102歳で所在不明の東京都八王子市の男性の場合、男性と同居していることになっている長男の現在62歳の妻は、長男と結婚した頃から既に義父が所在不明であるにもかかわらず捜索願も出さないまま長年の年月が流れているようだ。
 上記に類似する事例や、高齢者本人が家から出て行ったまま連絡が取れないと家族が語る事例が多い様子である。 その多くは高齢者が行方不明であるにもかかわらず捜索願を提出していない一方で、年金は何十年にも渡り受給し続けている家庭が少なくないというのが今回の高齢者所在不明事件の特徴であるとも言えよう。
 その高齢者の年金等の振込総額が本人の所在不明にもかかわらず1,000万円近くに及ぶ事例も存在するようである。調査が進むにつれ更なる巨額年金受取事例も表面化することは目に見えている。 なぜならば、現在100歳を超える高齢者が年金受給に差しかかった何十年も前の時代には、先々を見据えない国家財政の下で野放図に年金制度が厚遇されていたからである。


 今回の高齢者所在不明の背景には、多くの社会問題が潜在していると原左都子は捉える。

 その一つは行政の住民基本台帳制度のあり方である。

 こういう事件が表面化して初めて高齢者の所在確認に奔走する行政や自治体は、またもや国民市民に対し“公務怠慢”の醜態を晒す結果となったと言わざるを得ない。 このような事件が表面化しないもっと早い時点で、住民基本台帳確認作業等自らの日々の公務を全うしておけばよかったのではないのか?

 「原左都子エッセイ集」の前回の記事において子どもの虐待に対する公務執行の軟弱さについて触れたが、高齢者に対する対応も同様に軟弱であるとは一体どうしたことか?
 
 これに関して行政や自治体は「個人情報保護法」を引き合いに出したい所存のようである。
 仙石官房長官が「個人情報保護法」が実態把握の阻害要因になっているとの認識を国会で明言したことを受けて、自治体もそれに同調したのか、この法律がまかり通ってしまって以降、打つ手が遮られてしまったと“泣き言”を国民に晒している有り様である。
 そうではないであろう。 
 国や自治体には緊急時には国民市民の命を守るべく“特別法”により「個人情報保護法」を超える特権が付与されているはずである。 残念ながら、(前記事のごとく)子どもの命がかかっている虐待においてさえ軟弱な対応しか出来ない自治体である。
 そんな国政や自治体にとって、近い将来死にゆく運命にある高齢者の優先順位は低く、あえて救うはずもないのであろう。 それが証拠に、当の昔に公園や更地になっている住居地に住民登録している不明高齢者を、何十年もそのまま住民登録し続け年金を支払い続けている実態である。 これぞ自治体の職務怠慢以外の何物でもない。


 そして次なる問題は、高齢者の“高額の年金”である。

 従来の年金制度を引き継ぎつつ現在の年金制度が成り立っていることにより、高齢者程年金額が高額であるのは既に国民の周知の事実であろう。
 そこで、卑属(高齢者の子、孫等に当たる親族)にとっては尊属である年寄りへの高額の年金を利用しない手はない。 手っ取り早い話、自治体が何も調査をしに来ないことをいいことに、年老いた親がいつまでも生きていることにしさえすれば末永く高額の年金が自分達卑属の手元に保管している親名義の通帳に入金され続けるのである。
 この不況の時代、自動的に入金され続ける親の年金を“食い扶持”にしない手はないとの次世代の発想も大いに成り立つのだ。
 しかも、政府はいつまで経っても若い世代に対しては苦しい経済不況と就職難を押付けたまま、政権は我が身息災に揺れ動くばかりで何の進展もない現状である…


 最後に、国民の所在不明問題は実は“高齢者に限ったことではない”事実が一番の恐怖なのではあるまいか…

 今回の政府の調査は100歳以上に限っているが、この調査を全国民に拡大した場合、原左都子の推測によると悲しいかな膨大な国民の所在不明が成り立つように思考発展するのである。
 と言うのも、ここのところの長引く国の経済雇用失策により現役世代間に「定職」がない人種が蔓延っている現状である。 核家族化に加えて、今の時代職場等自分が所属する機関の確保も難しく、ましてや近隣住民との接触をはじめとする周囲の人間関係も皆無に近い現状において、行政にとっては学校を卒業した国民の所在確認は至って困難なことであろう。


 高齢者の生存に関しては「世界の長寿番付」等により国の威厳が保たれるため、長寿王国日本において今回の高齢者所在不明事件の報道表面化に対応するべく即時行政が動いているのであろう。

 それよりも深刻なのが、現役世代の所在不明なのではなかろうか??
 前回の(「原左都子エッセイ集」の記事の)子ども虐待事件のごとく23歳の娘とその幼き孫2人の所在すら知らない40代の両親が平気で通常に生きている我が国の実態である。 冗談抜きで、今後現役世代の人口調査に国政は入魂するべきであろう。

 今年秋に国勢調査が実施されるようであるが、これは全国民の所在把握のまたとはない機会なのではなかろうか?
 従来のようにアルバイトのおばさんに調査を頼るのではなく、国や自治体の公務員自らが「法的特権」を利用して、ある程度は“無料奉仕ででも”自ら調査に赴く勢いを持って、根気強く国政調査を実行してはいかがであろうか?    
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「産まない」という選択肢もあるのに…

2010年08月07日 | 時事論評
 子どもの虐待死事件の報道を見聞する都度、いつも私の脳裏に過ぎる思いがある。

 「“産まない”という選択肢もあるのに、何故にあえて子どもを産んで殺すのだろうか…」

 
 先週大阪市において発生したワンルームマンションにおける2児の育児放棄・置き去り死事件で大阪府警に逮捕された23歳の母親は、「自分の時間が欲しくて、育児から逃げ出したかった」と供述しているとのことである。

 どうやらこの若き母親は子どもを産んだ当初は子どもを可愛がり、義母等に育児相談をしたりしつつ一応母親らしく子どもに接していたとの報道もある。
 昨春離婚後風俗店に勤めはじめて以降、母親としての“たがが外れ”はじめた様子である。 逮捕直前までクラブや居酒屋で“遊び三昧”を繰り返し、その様子を自らネット上に公開した写真も報道されている。

 ここでこの事件の加害者女性の身内に関してピックアップして述べることにしよう。
 2児の父親である加害者の夫は当該事件に関してどのような扱いになるのであろうか。 それは法的には離婚時の協議に従うことになるのであろうが、子どもの父親としての道義上の責任は重いものがあると私は見る。 夫婦双方に如何なる離婚上の事情があれども、子どもを産んだ責任とはその父親にも一生あってしかるべきだ。 その意味で、母親に育児の一切を任せて離婚した夫側も責に問われるのが妥当と私は考えるのだが…。

 一方、この若き母親が子どもを産んだ当初は育児に協力的だったらしい義父母は、息子夫婦離婚の暁に、これまた何故に孫を一切見捨てる選択をしたのだろうか? 
 義父母はともかく、加害者母親の実父母の報道がほとんど見当たらない状態である。 加害者の父親に関しては、まだ40歳代の現役バリバリの高校教師でありラグビー部の監督でもあるとの報道を見聞した。 その父親曰く、「(加害者の)娘とはもう何年も連絡が取れず娘から子どもに関する相談もまったくないため、大阪に住んでいることすら知らなかった… 云々……」とのことであるらしい。 加害者の母親に関しては、一切報道がない。  どうやらこの加害者女性の一家自体が“家庭崩壊”状態だったのではないか、とも捉えられる気がするのは、原左都子の歪んだ視点によるものなのか?? (単なる私の勘違いでしたら、関係者の皆様にお詫び申し上げます。)

 虐待死した子どもの祖父母等身内にあたる周辺者でさえ、上記のごとく3歳と1歳の幼児が何ヶ月も帰らぬ母親を待ちつつワンルームの密室で餓死するのを救える状況にはないという現実こそが、悲しいかな現実社会の人間関係の希薄さの究極を物語る実情なのであろう。


 ましてや、子どもの虐待防止のためにいつまでも周辺住民の情報に頼ろうとする行政の姿勢も如何なるものなのであろう?

 「児童虐待防止法」によると、虐待の疑われる通報に関しては住民らに協力してもらい、子どもに直接会って安全を確認するべく児童相談所は立ち入り調査の権限が与えられている、とのことである。
 この公的権限が親に虐待されている子どもを救うべく行使された事件が如何ほどあるのか? 私が認識している範囲では、ほとんどの虐待死事件において住民の再三の訴えにもかかわらず児童相談所の対応が後手後手に回った結果、救える命が救えない結果となっているように感じざるを得ないのだが…
 今回の大阪市の事件とてそうである。 マンション内の住人による「子どもの泣き声が聞こえる」「今泣いているから直ぐきて下さい!」等々の切羽詰る通報にもかかわらず、結局自治体は子どもの命を救えなかったのだ。


 行政はこの現実を真摯に受けとめることから児童虐待問題を考え直し、出直すべきなのではなかろうか。

 近隣住民に通報を頼ると言うけれど、今の時代において特に都市部では「地域コミュニティ」なるものは事実上存在しないと見限るべきであろう。 にもかかわらず親切にも近隣の幼児の鳴き声を通報する地域住民の貴重な通報を何故に行政は“軽視”するのか?? それ程に軟弱な対応で、虐待死にあえぐ幼児、児童を本気で救えるとでも思っているのだろうか?


 子育てに行き詰った若き母親が自分の血縁も含めた身内も一切当てにできず、子どもをワンルームマンションに放置したまま何ヶ月も現実逃避する現状…。
 ましてや行政の対応も軟弱となれば、後は子どもを産む性である女性の「子どもを産まない」選択こそが、児童虐待阻止の第一歩にして最高に確実な手段であると原左都子は本気で考察するのだ。

 それを実行してきたとも言えるのが、我が人生でもある。
 原左都子はこの大阪市の育児放棄加害者女性とは意味合いが大きく異なるのだが、元々若かりし頃より“子どもを育てる”ことに関しては優先順位が低かった。 自分自身の成長欲が強いが故に結婚もどうでもよかったため、長い独身時代を謳歌してきたのである。
 元々子育てにさほど興味がなかった私は“計画的”に子どもは「一人」限定だった。 そんな私に授けられた命である我が一人娘に来る日も来る日も最大限の愛情を注ぎつつ月日が流れ、すばらしく成長していく娘と日々接しつつ、親子関係は至って良好である。


 子を産む性である女性の皆さん、政府の少子化対策に惑わされることなく、ましてや近所のお節介おばさんの「子どもは2人以上がいいよ!」等の無責任な挨拶言葉に迎合することなく、是非共自分自身の“母性”のあり方について子どもを産む前に自己分析をして欲しいのだ。
 もしかしたら、自分は子どもを産まない方がより良い人生を歩める等の結論も導き出せるかもしれない。 少なくとも、親が子どもを産むことによって自己存在を正当化したり、自分(達)の寂しさを紛らそうとしたり、自分達の今後の人生を支えてもらう事だけは絶対に避けよう。 今の日本の行政はひと昔前とはまったく異なり、「家」や「親」制度の観点から子どもを育てる教育力は皆無であると心得ておこう。

 男性も含めて今の世に生かされている若者達には、子どもを「産まない」という選択肢がせめて残されている事を、児童虐待死廃絶のために原左都子は心より伝えたい。
         
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映画「アリエッティ」にみる“等価交換”のあり方

2010年08月05日 | 芸術
 水曜日の映画館は「レディースデイ」。 女性ならば誰でも¥1,000-で映画が楽しめる特典日である。

 この特典を利用して、昨日(8月4日)自宅近くの映画館へ 「借りぐらしのアリエッティ」 を観に出かけた。

 実は私はスタジオジブリ作品を映画館の大スクリーンで鑑賞するのは今回が初めてであった。 「千と千尋…」、「もののけ姫」、「ハウルの動く城」、そしてつい最近では「となりのトトロ」も観てはいるのだが、そのすべてが“せこくも”テレビ観賞である。(しかも我が家の場合、今時19インチのアナログテレビでの観賞である。 こんな時代物の電化製品がまだ現役で活躍している家庭も珍しいことだろうなあ。

 上記のごとく私は特にジブリ作品に対するこだわりはない人種であるのだが、やはり映画館の大スクリーンで観るアニメは、当然ながら19インチのアナログテレビとはそのスケールや迫力がまったく違う。 作品全体に及ぶ表現の繊細さや、動植物等の描写が正確、精巧なのはジブリ作品の特徴なのであろうか。


 さてここで原左都子なりに「借りぐらしのアリエッティ」を論評してみるに、この映画には大きく2つのテーマが内在していたのかと分析する。

 そのテーマの一つは「出会いと別れ」であろう。

 まずこの映画は、小人(こびと)族一家の一人娘である14歳、身長10cmの少女アリエッティと、人間の少年翔との出会いと別れが綴られた物語と集約してよいであろう。
 2人が出会い、短い期間ながらも2人の心が徐々に触れ合っていく過程、そしてその後宿命とも言える別れが展開する物語である。
 いやいやいつの時代も、相手が人であれ物であれそしてこの映画のごとく“小人”であれ、「出会い」や「心が触れ合っていく過程」とは刺激的で感動を呼び起こすものである。 その感動が大きい程に「別れ」とは辛く切ないものであるのを実感させられる思いで、涙もろい原左都子は終盤では泣けてしょうがなかったものである。
 (それにしても、今時映画館で泣いている人を見かけないけど、皆さん“変人”と思われることを回避するために涙をこらえているのだろうか??)


 そして、この映画のもう一つのテーマとは映画の公式サイトにおいて公開されているキャッチコピーが表現しているがごとく、「人間に見られてはいけない」との小人族の「掟」である。

 この「掟」が物語る背景をここで少しだけ紹介しよう。
 この映画の小人族は人間が住む家の床下に住居を構え、人間の日常の食料品や生活品を“借りながら”暮らしているのである。
 “借りる”と表現すると体裁がよいが、原左都子がその実態を厳しくも正確に表現するとその実は“盗み”である。 この物語の小人族の間では“借り”を“狩り”と表現しているごとく、人間の目を盗んで床下から人間の住居空間へ命がけで忍び込み、“狩り”と称した“盗み”により収穫した食料や生活品を自分達の生活の糧として生計を立て暮らしているのだ。
 
 人間の少年翔がアリエッティと初めて心が通じた時に、翔がアリエッティを一目見て「きれいだ…」と表現してアリエッティを受け入れた後に、語った言葉には真実味があった。
 (原左都子が憶えている範囲で記述するため、不正確であることをご容赦下さいますように。) 「人間の世界人口は今や68億人。それに対して、君たち小人族は絶滅寸前なのだろうね…。(以下略)」
 当然ながら反発するアリエッティ。「私たちは絶滅なんかしない! 私は人間に見つかってしまったからここを出るけど、仲間もいるし、新しい住みかで生き延びる!」
 翔は自分の発言をアリエッティに詫び、アリエッティの生命力に勇気付けられることになる、という後々のストーリー展開である。

 この映画のキャッチコピーが何故に「人間に見られてはいけない」であるのかに関して、そのキーパーソンとなっているのが翔が滞在している叔母宅のお手伝いのハルである。 ハルの声優を演じているのが俳優の樹木希林氏であられるのだが、そのインパクトは強烈である。 この樹木希林氏によるハルこそがこの映画の真の存在証明でもあり、良かれ悪しかれストーリー展開上最重要の“立役者”であると原左都子は位置付ける。

 人間の食料品や生活品を“狩り”して自身の生活を正当化している小人族を「泥棒」であるとハルは表現する。 そして「泥棒」は駆除して排除するべきと判断するハルは“ねずみ駆除業者”に床下の“小人族一家”の駆除を依頼するのである。
 冷静に判断した場合、ハルの一見残虐とも捉えられる行動には“整合性がある”と原左都子は考察するのだ。 これこそが、多くの善良な一般市民が普段選択している“単細胞にして明快”な行動パターンの集約であると結論付けることも可能なのではあるまいか?

 別の視点から考察すると、一般的な人間同士において対等な関係を築こうとする場合、そこには様々な意味合いで「等価交換」が成り立っているべきはずである。 アリエッティと翔との関係においては、短期間とは言えども2人の“心の触れ合い”が築き上げた関係においてこの「等価交換」が既に成り立ったと判断できる。
 一方で、アリエッティの両親にとっては今尚人間とは「見られてはいけない」強弱関係から脱却できてはいないのだ。 その視野とは、人間であるお手伝いのハルの思考と実は同レベルなのである。 悲しいかな、アリエッティ一家はやはり引っ越すしか手立てはなかったのである。

 
 スタジオジブリの関係筋によると、この映画は「ものを買うのではなく、借りてくるという発想により今の不景気な時代を表現しようとしたものである」等の表明があるのだが、そこに一理はあろう。
 ただ原左都子の理想としては、強者弱者が入り乱れる現在の現実社会においてもその人間関係において必ずや種々の「等価交換」が成り立っていて欲しいのだ。 「等価交換」と言うと表現が機械的であろうから最後に言い直そう。

 この映画が切なくも表現したアリエッティと翔との心の触れあいこそが、人間関係における真の「等価交換」ではないのだろうか。 
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-続報- 新型インフルワクチン過剰供給問題

2010年08月03日 | 時事論評
 昨年流行した新型インフルエンザのワクチンが、厚労省の過剰発注の失策により医療機関において大量の在庫を積み上げる結果となっている実情に関しては、「原左都子エッセイ集」のバックナンバー「インフルワクチン過剰発注が招いた巨額損失」において既述している。

 昨日(8月2日)の衆院予算委員会において厚労省大臣の長妻氏は、上記ワクチン大量在庫に関する質問に対し「製造販売業者、販売会社、卸売業者のご負担によって買い戻していただくことになった」と述べ、メーカーの買戻しによって医療機関在庫の解消を進めることを明らかにした。

 上記の長妻厚労相の表明を受けたものと拝察するのだが、昨日、拙ブログの上記バックナンバー「インフルワクチン過剰発注が招いた巨額損失」の記事宛に、2名の見知らぬ方々より時を同じくして、貴重なトラックバックとコメントによるご意見を有難くも頂戴した。


 その一つは“あじさい文庫だより”様より頂いたトラックバックである。(“あじさい文庫だより”様のサイトへは左欄の“最新トラックバック”よりご訪問いただけますので読者の皆様、是非ご訪問下さい。)

 “あじさい文庫だより”様はご自身のサイトで以下のようにご指摘されている。
 「(厚労省発表によると新型ワクチンの過剰は208万人分、約30億円とのことで)、この損失をメーカー120社が費用負担し、9月末までに買取りそのすべてを廃棄処分するとのことであるが、今回の厚労省の発表の数字には違和感を覚えた。…」(詳細はサイトを直接訪問下さればと思います。)

 このご指摘には、原左都子もまったく同感である。
 我がバックナンバーにおいても、朝日新聞記事を引用してその巨額の損失額を既に公表している。 新型インフルワクチンの余剰はなんと1億3千万人分! 実際にワクチン接種した国民がわずか約2283万人とのことであるのだから、このワクチン余剰数は妥当な数字であろう。 そして、厚労省は既に輸入ワクチンに対する解約違約金支払いについては853億円の損失を計上しているのだ。(この損失に関しては未だ国民には未公開のままである。)
 昨日の衆院予算委員会において長妻厚労相が公表した数値はあくまでも国内の製薬会社等のメーカーに買い取らせた数値であるとしても、208万人分、約30億円はあまりにも少額であり、信じがたい数字であると私も捉える。

 加えて、国政の失策の“尻拭い”をメーカー等民間業者になすりつけ民間企業に損失のすべてを背負わせて一件落着させる新政権政治のあり方とは一体どうしたことなのか??


 さて次に、昨日我がバックナンバー「インフルワクチン過剰発注が招いた巨額損失」に頂いた“研究者”様よりの「お粗末すぎます政治家主導」と題するコメントの全文を以下に紹介させていただくことにしよう。

 1か月も前のことに関してコメントが遅すぎて申し訳ありません。インフルエンザワクチンに関しては毎年の生産量が医師会によって示唆され、それに基づき厚労省がメーカーに発注していました。政権が代わってから、政治主導というのが勘違いされて現場の意見が伝わりません。日本は世界で最も優秀なインフルエンザウイルス研究者が多数いる国なのをご存知でしょうか。今回のワクチンの輸入に関しても研究者からは必ず余ると指摘されていたのですが、大臣は聞きません。日本の国民は何人いるか知らないのでしょう。ウイルス学会の学会誌にもこのことを予測した論文が出ています。さらにひどいのはそれに関して責任の話が全く出ないことです。数百億円の無駄を出してほうかむりです。さらにご存知でしょうか、この輸入ワクチンの国辱的な経緯を。このワクチンには日本で認められていない添加物(アジュバント)が使用されています。メーカーからは万が一副作用があっても一切メーカーに責任を求めないこと、さらに言い値(欧米の10倍)で購入させられたこと等、枚挙にいとまがない問題が含まれています。ワクチンに関しては欧米は無料接種のところが多いのですが、日本は違います。この差はワクチンの開発は税金で行われているからです。そのために開発後は無償で接種できるわけです。現政権はおかしなところは左翼的ですが、この様な民間で健常人に接種試験を行うなどということができないために、諸外国では国主導でやっていることは、官から民というばかげた発想です。素人政権が医療を担当するのは非常に危険であると日々恐ろしくなっています。
 (以上は、“研究者”様より頂戴したコメントを全文引用させていただきました。)

 “研究者”様、「原左都子エッセイ集」に研究現場からの貴重なご意見を誠にありがとうございます。 私が推測するところでは“研究者”様は、おそらく現役の民間製薬会社の研究者として現在バリバリにご活躍のことなのでしょう。
 ワクチンの生産量が医師会によって決定されそれに基づき厚労省がメーカーに発注すること、せっかく政権交代したにもかかわらず研究現場にはその効力が一切ないこと、国内に優秀なワクチン研究者が存在するのにそれを有効利用できる大臣初め国政担当者が存在しないのに加えて結果責任も放棄したままであること、そして輸入ワクチンの国内不認可アジュバントの大手を振っての認可、あちらの言い値での購入等々、医薬品の輸入に関する国政の“お寒い実情”にも十分に触れさせていただけまして誠にありがとうございました。


 原左都子がバックナンバー記事「インフルワクチン過剰発注が招いた巨額損失」の最後の部分に指摘させていただいた通りの現状を実感させていただける思いである。
 厚労相をはじめ現政権の閣僚等の“狭い利害関係”のみに頼って指名した医学諮問機関に医療に関する国政の判断を全面依存するがごとくの旧態依然とした体質を繰り返す過ちよりも、もっと高度な専門的アドバイスが可能な機関や人材がこの国にはいくらでも存在するはずなのである。

 まさにこの国にはすばらしい人材が数多く育っていることを、原左都子は我が拙いブログに頂戴する世間からの反応で実感させていただける思いである。 
          

 いつまでも“有名無実”の人材に選挙の行く末を頼るのではなく、上記のごとくの真に実力のある貴重な人材を有効活用するべく体制を根本から創り直すのも、国政を担おうとする政党の役割と心得て欲しいものであるよな~~。
                   
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