原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「東大脳」?? そんなものこの世に存在し得ないよ

2013年01月19日 | 教育・学校
 例年1月中旬のこの時期に実施されるセンター試験が、今年も本日(1月19日)より全国707会場で始まった。
 13時過ぎ時点での報道では、57万人の受験生が試験に臨んでいるとのことだ。
 昨年は、新たな方式を取った「地歴、公民」問題用紙配布に関して全国各地の試験場で大規模なミスが勃発し、大勢の受験生が再試験等の大迷惑を被った。
 今年は現在のところ大きなミスの報告はないという。

 昨年は、我が娘もこのセンター試験に挑んだ。
 娘の場合、大学に於いて秋に実施される公募制推薦入試の合格を既にゲットしていたため、センター入試はあくまでも高校生としての学力が維持できているかの確認目的受験だったものの、それでも当日大雪等の悪天候とならないか等々、親として気をもんだものだ。

 ところが、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」のが人の性(さが)である事を実感する。 現在及び今後の受験生の皆様には大変申し訳ないが、我が子が無事大学生となり真面目に学業に励んでいる今となっては、この手のニュースを耳にしても正直なところ“他人事”感が否めないことをお詫びしたい。

 それにしてもセンター試験ニュース報道に於いては、どういう訳かいつもいつも東京本郷に位置する某国立大学(東大のことだが)からの影像が真っ先に流れるのには辟易とさせられる。 全国津々浦々に受験会場は707箇所もあるのだがら、少しは国民の多様性に配慮して報道姿勢を改めては如何なものか!?


 さて、今回のエッセイ本題に入ろう。

 先だって1月13日付朝日新聞オピニオンページ「ザ・コラム」と題する欄において、「東大脳」なる妙な造語を発見した。
 この記事の筆者は(東京・社会部長)山中季広氏と記されているが、おそらく朝日新聞東京支部社会部長であられる山中氏とやらが東大出身であり、自らの“東大経験”に基づき今回の記事をオピニオンとして記されたのであろう。

 早速、「ああドラゴン桜 東大脳の限界を知りました」 と題する山中氏による記事の一部を以下に要約して紹介しよう。
 「ドラゴン桜」の作者である三田紀房氏は、私立高校における一人や二人の東大合格は学校再建の決め手にはならないと話す。 氏曰く、「新設高校の評判を上げる即効薬として東大合格と甲子園があるが、東大は甲子園よりもはるかに達成し易い目標である。ところがある年にポッと受かったくらいでは経営は好転しない。」
 (「東大脳」なる造語は、三田氏による漫画内で使われたようだが)、東大文Ⅱと理Ⅲを卒業した「東大脳」の持ち主である現在57歳の福井氏によると、東大合格に求められる東大脳とは、当時も今も  ①効率のよい暗記能力 ②高速処理能力 に尽きる。 すなわち、東大入試には発想力は問われない。記憶力と解法をすばやく脳から引き出す力と超難問を見切る力、それのみである。
 「時間のかかる超難問」と聞いて尖閣等領土問題や巨額の政府債務が頭に浮かぶが、東大卒の官僚や政治家達の脳裏でも一向に解決しないのは何故か。 福井氏によると、それは脳科学的に言えば使う部位が違うから。 交渉事には政治的鋭敏さや人間的魅力が欠かせないが、それらは脳内の別の部位が関与する。 東大入試で鍛えた側頭葉や海馬だけでは国家的難題はとても解けないわけである。
 東大出身である自分(山中氏)自身のアタマの限界を母校のせいにするつもりはないが、東大はグローバルな競争で他国に伍していけるような東大生をもっと外向きに刺激して欲しい。 日本が殻を破るにはあるべき「東大脳」の定義を東大自身が思い切って変える他ない。
 (以上、朝日新聞「ザ・コラム」1月13日記事よりその一部を要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 「原左都子エッセイ集」において、私は幾度か「東大」に関する種々のエッセイを綴り公開している。 いずれの記事も我がエッセイ集公開趣旨に逸脱することなく、辛口論評を展開した内容である。

 ただし私が東大(及びその出身者)に対し手厳しいオピニオンを展開する背景として、決して“東大コンプレックス”を抱えている訳ではないと自己分析している。
 と言うのも私自身、過去に東大大学院修士課程入学を志して東大に願書を提出した経歴がある。 それは法学研究科だったのだが、入試3科目のうち民事訴訟法の勉強が間に合わず直前に受験断念したものの、その後別大学で自分が望んだ分野の学問に精力的に励み「経営法学修士」を取得し目標達成が叶っている。 
 もう一点述べさせていただくと、上記「ザ・コラム」内に取り上げられている、東大を2度卒業された福井氏との人物は、偶然原左都子と同年齢のようだ。 私も大学は異なるが氏と同じく理系と文系両方の学業に励んだことにより、現在の思考回路を作り上げていると自負している。 全国に位置する大学の教官には東大出身者あるいは東大教授(助教授)が数多く非常勤で勤務しているが、私も大学在学中にはそれら尊敬するべく東大大学教官のお陰もあって、十分に我が欲する学業をまっとうしてきている。
 

 そのような我が経歴も含めて考察するには、そもそも朝日新聞の山中氏が書かれているところの「東大脳」の定義が、あくまでも“東大受験段階”を超えていないことにどうしても“未熟”感を抱いてしまう私だ。 人間18、9歳とはまだまだ成長途上の子どもでしかない。 そんな段階で培った能力をいつまでも測りにかけられて議論されたのでは、東大卒業生こそがたまったものではないだろう。
 少なくとも「東大脳」と言うからには、東大現場に於いて培える学問力、すなわち学生が卒業後にどれだけの学問力を身につけているかをもって議論するべきだ。
 そして、もっと重要なことは社会進出後の東大卒業者の社会貢献度も踏まえて「東大脳」を解明しないことには、世界中に数多く存在し各方面で活躍を続ける東大卒業生に対して失礼この上ない話でもあろう。

 さらに原左都子の趣味で付け加えさせていただくと、東大を2度卒業され医学博士として現在東京都内の高齢者施設で働いておられるという福井氏の脳科学分野の発言を、山中氏が殊更取り上げている事に関してだが、特段目新しい情報ではなく昔から論じられている陳腐な内容であることにも少し寂しい思いがする…
 (高齢者施設が置かれている現実も厳しいものがあろうが、東大を2度卒業され朝日新聞紙面で取り上げられる程“顕著な「東大脳」の持ち主”の福井氏には、私個人的な希望としては一生に渡り医学最先端分野で闘い続けて欲しい思いもするが…)


 最後に冒頭のセンター試験に話を戻そう。

 受験生の皆さん、とにかく大学に合格しないことには自分が目指す学問に触れることすら叶わないのは明白な事実だ。 だからこそ、現在まで受験のために培って来た力をフルに受験の場で発揮しよう!
 貴方が入学する大学が「東大」でなくとも何らの支障はないと私は思う。 もし貴方が東大出身の優れた学者先生から学問教授を賜りたいのだとしても、東大の門をくぐらずとて全国各地の大学においてその実現がいくらでも可能だ。

 「東大脳」??
 わずか18,9歳にして、そんなものを自負している奴らの人生こそが危ぶまれる今の厳しい時代背景を認識しよう。 
 今後様々な経験を積みつつ歩む個々の人生にこそ、自らの脳を活性化できる様々なチャンスが待ち構えている!

医療依存脱却のため国民健康教育の構築を急ごう

2013年01月16日 | 時事論評
 昨日1月15日、自民党安倍政権は70歳~74歳の高齢者にかかる医療費窓口負担について、現法律で定められている通り本来支払うべき2割負担に戻さず、1割に据え置く措置を継続することを閣議決定した。

 当該年齢層高齢者の医療費窓口負担をめぐっては、現在特例的に定められている1割負担から、本来の2割負担に戻すかどうかの検討が行われていた。 しかし、低所得者に対する負担が多くなることなどから、政府は1割負担の特例措置を継続することを正式に決める事となったようだ。


 このニュースに関して、朝日新聞は早くも1月12日の社説において、「高齢者医療 国民はなめられている」と題して安倍政権の今回の決定に対し手厳しい批判を展開している。 

 早速当該朝日新聞社説の一部を以下に要約して紹介しよう。
 どうやら有権者はなめられているようだ。 安倍政権は今回の1割負担特例措置継続に関していつ法律通りの2割にするか、その決定を今夏の参院選後まで棚上げする見通しだ。 ねじれ国会解消のため、自公で参院の過半数を獲得するのが安倍政権の最優先課題であり、「負担増」のようなマイナス材料は極力少なくして、参院選を乗り切った後にすぐに2割引き上げ議論を開始する魂胆だ。
 1割を維持するのにかかる費用は年約2千億円。 これを安倍政権は13年度も「緊急経済対策」の予算案として計上する。 既に支出は1兆円に迫る。 その多くは後世代へのツケ回しである。 さすがに自民党内からも、いつまでも貴重な税財源を投じ続ける訳にはいかない、2千億円は次世代のために使った方がよいとの異論が出ている。  (中略)
 民主党政権を経て、有権者は社会保障に魔法の杖がないことを学んだ。 厳しい財政事情の下、高齢者にも相応の負担を求めざるを得ないことへの理解は広がっているはずだ。 そこを信頼しないでは、あるべき社会保障の姿は描けない。


 さてここから原左都子の私論に入るが、上記朝日新聞社説の内容を私なりの観点から3つに分類した上で、それぞれに対する私論を展開させていただくこととしよう。


 まず一つ目は、安倍政権が“参院選の「票取り」目的”で今回高齢者医療の一端である70台前半高齢者の医療費窓口負担を1割に据え置いたと論評している点。
 これに関しては、朝日新聞の批判通りである。
 
 国家が財政危機に陥り経済が低迷し国際競争力を失おうが、政権が短期間でコロコロ移り変わろうが、何処の政権もその行動原理とは常に“「票取り」目的”でしかない点に関して、実に辟易とさせられる。
 国民から「票」をもらって与党とならねば、党が理想とする政治の実現がままならないことは理解できる。 それにしても、あまりにもあからさまに「票取り」を前面に出されたのでは、朝日新聞の論評通り、政権は(国民はどうせ皆馬鹿ばかりだから)なめてかかろうと考えている魂胆が見え見えというものだ。
 上記社説の最後に記されている通り、前民主党政権の失策により国民は既に社会保障には“魔法の杖”がないことを学んでいる。 現政権はもうそろそろ「票取り」決議を取り止めて、税財源の投じ先を真剣に議論するべきである。


 2つ目の論点であるが、「高齢者医療負担軽減策 イコール 次世代へのツケ回し」 と明瞭に結論付けている上記朝日新聞社説論評に関して、少し原左都子なりに考察してみたい。

 現在の高齢者は過去の政治の“過ち”や“いい加減さ”により、年金制度を含む社会保障制度全般において、本人の現役時代の実力や社会貢献度以上に老後厚遇される結果となっている事実は否めないであろう。 それらが今の時代背景や世代間の公平さの観点から見直されるべきであることには私も異論はない。
 ところが、これが一端「医療費」となると如何であろうか。
 人間を含めた生命体とは年齢を重ねる毎に身体の老化現象と共に様々な不具合が生じるのが常であり、若い世代に比し疾病罹患や不意の怪我等が多発するのは避けられない運命にあろう。 だからこそ法律では70年代前半国民は2割負担として、3割負担の現役世代層とは区別しているではないか! との政府よりの反論も届きそうだ。
 そこで原左都子の私論としては、高齢者と若い世代との医療費負担に於ける整合性を保つための正確な試算を、今一度し直す作業から取り掛かることを安倍政権に提案したいのだが… 


 3つ目の論点として、いよいよ今回の「原左都子エッセイ集」のエッセイ表題に掲げたテーマに入ろう。

 そもそも「医療」というものを今一度政府も医療機関も国民も、皆が捉え直す事から再スタートするべきと私は常々考えている。
 この国に限らず、先進国においては医療という一科学分野が進化発展したが故に、国民は心身の不都合が生じると、安易に「医療」機関に依存するとの行動に出る事が常識化している現状だ。
 国民のその安易な行動こそが、医療行政とそれに迎合する民間製薬企業や医療組織との癒着を増強する後ろ盾となり、ひいては医療保険制度を圧迫し破綻に招いている。
 その結果、現在政権が今回閣議決定したがごとく高齢者医療費負担を1割2割いずれにするかとの(私に言わせてもらうと体たらく)議論に政権が翻弄される顛末となるのだ。

 高齢者は心身の老化現象により不具合が生じ易いと上記に記したが、これに関しても、少しばかりの専門力と日々の自己心身管理力により、個々人が自分にとってよりよい身体環境を維持することが可能である。 それを自ら実践可能な高齢者の皆さんは、おそらく老化現象にもめげず比較的元気にこの世を生き抜いておられることであろう。
  
 原左都子の日々の感覚によれば、「国民健康維持教育」が大いに遅れている我が国を実感させられてばかりである。
 何故この国でその種の教育が遅れているかと言えば、過去の政権が私利私欲に走り続け医療分野との癒着を増強し国民に医療現場受診を煽り続けて来た故であろう。
 
 今後は病気になったら医療に頼る教育よりも、自らの身体を健康に保つべく栄養・体力精神力増進に関する国民教育こそを子どもの頃から充実させるべきである。
 それが叶ったならば国家の医療費負担が大幅に軽減し、今回の閣僚決議もせずに済んだはずだ。

 (最後に参考であるが、原左都子が培った専門科学力を基に我が家に於いて日々指導する「健康維持教育」の賜物か、私と娘の昨年度の医療費は0(ゼロ)であり、母娘共比較的健康体でこの世を生き延びている。)

大雪に見舞われた今年のハタチの旅立ち

2013年01月14日 | 自己実現
 (写真は、本日1月14日 14時頃自宅ベランダより撮影した東京の雪景色。 参考のため、我が家は東京都23区内閑静な住宅地に位置する。 写真中央にしな垂れているのは竹林。いつもは凛とそびえている竹林だが、突然の大雪の重さでこの姿に変貌した。)


 我が娘は来年成人式を迎えるが、この正月に早々と娘を伴い呉服店を訪れて1年後の成人式の日に着る振袖の仕立てを注文した私だ。 
 小物類は1月中に到着、そして振袖と袋帯及び長襦袢は2月上旬の納品到着予定となっている。

 成人式対象者のお嬢様をお持ちでない方々にとっては、これまたずい分と早い時期から振袖の準備を始めたものだとの印象を持たれたことであろう。 そこで参考のため、現在の世の振袖商戦は成人式の約2年程前から始まっていることを付け加えよう。

 我が家にも、既に2年程前から呉服業者より娘宛に振袖のカタログが届いている。
 当初は私もてっきり業者が娘の年齢を1歳間違えているものと捉えていた。 もしそうであるとしても、娘がこの世に生まれ出た当時から我が子ハタチのお祝いには“親の責任範疇”として振袖を仕立て成人を祝ってやるつもりでいた私である。 それ故に、業者から届くそれらカタログ写真を大いなる参考として眺めていた。

 何と言っても振袖を始め和服とは芸術品である事には間違いない。 特に振袖は若い女性が一番美しい時期に着用する衣装であり、実に煌びやかで華麗なのだ。 それを眺めるだけでも、雅(みやび)の世界へ誘(いざな)われる思いだ。

 昨年末頃よりそろそろ娘の振袖仕立てを現実化しようと志していた私は、大学が冬休みに入ったことを契機に、娘を振袖の世界へいざ導入することと相成った。
 何と言っても、日頃大学の課題をこなす事に日々精一杯の時間を費やしている我が娘である。 その合間に少しずつ振袖情報を娘に提供することにより勧誘しつつ、冬休みにこそ振袖仕立てを実行しようと目論んでいた私だ。

 年が明け、娘と共にプラネタリウムを観賞するため外出した私は、ついでに目ぼしい呉服店へと足を向けた。
 実は我が娘は当該呉服店がカタログで公開していた振袖写真の中で、自らの“お気に入り”を既に発見していたのだ!  店員氏の説明によると、カタログ掲載商品は人気があるため既に販売済のことが多いとの事である。  (そうだろうなあ…)と同意していたところ、我が娘が当該カタログ掲載振袖生地の存在を店内で発見したではないか!
 その後定員氏の勧めにより数枚の振袖生地を身にまとわせて頂いた結果、やはり娘と私が最終決断したのは、当初より娘お気に入りのカタログ掲載商品だった。


 我が娘の振袖生地購入過程の説明が長引いてしまい恐縮である。 
 上記の段取りで、とりあえず娘が来年迎えるハタチのお祝いの外観的要素は既に整った我が家である。
 さてそうした場合、来年娘が所属する現在居住地である自治体主宰の成人式へ当人が出席したいか否かが次なる問題点だ。
 (そんなもん、出たくもないよな~~)と思うのが原左都子自身の正直な心情だ。 (どうせ、来賓とやらの爺さんどもがろくでもない祝辞を述べた後、出席者の皆がキャピキャピとうるさく騒ぐばかりで、我が娘の居場所など何処にもないのは目に見えている) 
 予想通り「成人式には出たくない」と訴える我が娘に、私はあえて是非共出席することを促した。 何故ならば、せっかく素晴らしい振袖一式を仕立てたのだから! というのがまずはその経済負担をした親としての正直な思いである。  これが親馬鹿ながら我が娘に実によく似合っているのだ。
 そして、もう二言私は娘に付け加えた。 「貴方は自分の同窓生を(過去における“いじめ”等の理由で)受け入れ難いのかもしれないが、相手の誰かが貴方を受け入れている場合が必ずある。 その証拠として未だに貴方に年賀状を寄こす同窓生もいるじゃないの。 あるいは、貴方のピアノやバレエの発表会の場で偶然出くわした過去の同級生が貴方の成長に驚いたりもしてるでしょ。 もしも来年成人式に出席したら、その後もっともっと成長を遂げている貴方にとって更なるプラス評価が投げ掛けられるかもしれないよ。」  「そもそも成人式なる祭典は、万人にとって一つの通過点に過ぎない性質のものだよ。 出たくなきゃ出ないでもいいけど、そんなくだらない式典に参加した事実こそが以外や以外、後々の人生にとってひょんな想い出になる事もありかもしれないよ。 特に感受性がまだ強靭なハタチの時期に嫌々ながらも成人式に出たところでさしてメリットもないならば、さほどのデメリットもないと私は思うけどね」
 そして今一度、私は娘に付け加えた。 「今回(現金一括払い!で)仕立てた貴方の振袖は実によく似合っていて親の目線でも美しいよ!」と。

 それでもまだ少し来年の成人式出席に不安の陰を残している娘に対し、昨日私は再度提案した。
 「じゃあ、明日はとりあえず今年の成人式会場を偵察に行こう!」と。


 ところが本日、この大雪である。
 我が娘のための偵察どころが、一体全体今年の成人式参加者はこの悪天候の下如何なる行動を取ったのであろうか?
 昼のニュース報道によると、東京都内でも不意の大雪悪天候にもかかわらず晴れ着の下に「ブーツ」を履いて成人式場へと向かう果敢なハタチ女性達の勇姿が放映された。
 これには、我が娘も大いなる勇気を与えてもらった様子だ。
 「来年の成人式には私も事前に雪用ブーツを用意しておく」との娘の談話である。

 私が現在住む自治体の成人式出席率は、ほぼ60%とのことのようだ。
 原左都子自身は数十年前の成人式に、我が親の歪んだ思想により出席していない立場にある。 (参考のため、我が親の考え方とは「成人式に着飾ることになど何らの価値もない。そんなことでチャラチャラするより確かな専門力を身に付けて自立せよ」である。 ただし娘達の成人式に振袖を作らなかったことを反省して、後々和ダンス一杯の和服を仕立て私と姉に送りつけてきたのだが。)
 それが苦い思い出であるからこそ、親とは我が子に人生最大の祭り事である「ハタチの祝い」をしてやりたいと思う事こそが世の常であって欲しいと希望しつつ、来年成人を迎える娘を心より祝福できそうなハートを抱き続けていることを幸せと思う私だ。

学校給食における 「おかわり」 考

2013年01月12日 | 教育・学校
 昨年12月に東京都内某公立小学校において、食物アレルギーのある女子児童が、担任が誤って渡した給食の食材によりアナフィラキシーショックを起こし死亡するとの痛ましい事故があった。


 このニュースを先だってNHKニュースで見聞した原左都子だが、その報道のし方に大いなる違和感及び疑義を抱かされた。
 当該NHKニュース報道では、「女児が給食で『おかわり』をした際に担任が手渡した食材によりアレルギー反応が起こった」との表現を用いていたのだが、ニュース表題にも「おかわり」の文字を使用する等、女児自身が「おかわり」をした事を殊更強調しているかのように私の耳に入ってきたのだ。
 これでは、まるで「おかわり」をした女児側の自己責任範疇の事故と視聴者に受け取られかねないのではあるまいか?!?
 とんでもない話だ。 
 女子児童は未だ11歳の小学5年生。 もしも周囲の児童達が元気よく「おかわり」をするのが日常であったとするならば、女児とて担任が自らのアレルギー体質を理解してくれているものと信じ「おかわり」を要求することは重々想定内の出来事であろう。

 今回の我がエッセイは、当該事故を時事問題あるいは医療問題として取り上げる趣旨ではないため、ここでは専門的な発言を差し控えることとする。
 ただ、元医学関係者として一言のみ私論を付け加えさせていただくならば、義務教育現場は一部の児童が抱えている食物アレルギーを絶対に軽く捉えてはならない事を再認識するべきである。
 現在公立小中学校に通う児童達は、全員学校で給食を取る事を強制されている。 そうであるなら尚更、現場の教職員は一部の医療的弱者児童の存在を肝に銘じるべきである。 一見元気そうだからと、児童が抱えている体質を安易に見過ごしてはならない。 
 
 学校給食が元でアナフィラキシーショックにより命を落とす児童は、今回に限らず後を絶たない現実である。
 もしも学校現場の教職員がそれら児童の徹底管理にまで手が回らないのであれば、全員一斉食材を基本とする給食システムこそを、今一度その細部に至るまで再考し直すべきだ。
 食物アレルギー児童を抱える家庭によっては、自宅から弁当を持たせる事例も存在する事は私も承知している。  それが時間的制約等様々な事情で叶わない家庭が多い実情をも踏まえ、時代の要請に応じてもうそろそろ義務教育行政は何らかのきめ細かい対策を練る事に着手するべきではないのか。

 参考のため、1月8日付朝日新聞の当該事故に関する報道のタイトルは 「担任、誤り料理渡す」と記されている。
 記事を読み進めたところ、最後の目立たない場所に一言のみ「おかわり」の文字があるものの、この記事においてはあくまでも担任教諭の落ち度を前面に出す体裁となっている。
 原左都子としては、当然ながら朝日新聞の報道観点・姿勢こそに賛同したい思いだ。


 さてさて今回の記事は、学校給食における 「おかわり」 を考察することを趣旨としているのは表題に掲げた通りである。
 上記女子児童の学校給食による痛ましい食物アレルギー死亡事故に際して、NHKニュースが給食を 「おかわり」 したことを執拗にまで繰り返していた事実に、とことん反発したい思いが我が脳裏に渦巻き続けている故である。

 実は我が子が小学2年生の時、公立小学校担任先生との保護者個人面談において、「○○ちゃん(我が子のこと)は給食の『おかわり』ができるまで成長していますよ!」と告げられた経験がある。
 これには仰天した。 (「原左都子エッセイ集」長期読者の方はご存知であろうが)我が子は出産時のトラブルにより若干の事情を持って産まれ出ている。 特に幼少の頃は衣食住全てに関してケアが必要な身であった。 「食」に関しても例外ではなく、必要最低限の栄養源を摂取させることに日々精進した私である。 
 公立小学校入学後は、案の定給食を時間内に食することが出来ず、担任先生のご好意による配慮で我が娘のためにクラスの給食時間を最大限長くして頂いた経験もある。
 その後上記担任先生がおっしゃるには、娘が小学2年生に進級した時、級友達の勢いに煽られて給食の「おかわり」をしたと言うのだ!(それを娘が食べ切れたか否かは不明であるものの…。)  

 このようにまだまだ未熟な児童にとっては、公立学校に於ける給食時の「おかわり」とはその成長を物語る一場面の意味合いもあるのかもしれない。  集団生活内での「給食」という場を有効活用して、我が子を成長に導いて下さった当時の担任先生に感謝申し上げたい思いである。


 原左都子自身の昭和30年代後半頃の郷里過疎県での小学校給食を振り返ると、それはそれは実に“まずかった”の一言に尽きる…
 既に4時間目あたりから給食時間が嫌で嫌で、(今思えば)そのストレスで胃液が我が体内を襲い、とても給食が食べられる身体環境ではなかったものだ。(後々考察するに“集団嫌い”だったことも理由として大きいのだが…)
 そんな厳しい学校給食現場を経験した私は、当時級友が「おかわり」をしていたかどうかの記憶すらない。
 今思うに、当時から学校給食とは給食当番児童生徒が「アルマイト」の食器にテキトーに配るシステムだったため、当然ながら“残り”が存在していた事であろう。それを元気な児童が「おかわり」していたのであろうと考察するものの…。

 中学生になってからは、多少事情が変化した。
 身体が大きく育っているこの私とて昼食時にはお腹が空き始めたのである。 ところがこれまた当時の時代背景であろうと考察するが、女子生徒が学校給食の「おかわり」など出来る訳もないのだ。 まだまだ控え目な女子が好まれた時代背景である。
 周囲の女子生徒皆が「もう食べられない~ ウッフ~~ン」などと(言ったかどうかの記憶はないが)、給食のパンを残すことが美徳とされていたのだ。 「ゲゲ!私は完食できるのに…!」とは思いつつそれに同調しないことには、その中学を女子として渡っていけない気がしていた私だ…
 そうこう思い起こしてみるに、人間最低限の食の場であるにもかかわらず集団行動を強制される学校給食とは実に辛いなあ…… 


 最後にやはり冒頭の事件に戻りたい私だ。
 義務教育学校現場における給食が国民に果たしている役割は、その恩恵に与った時代がある私も確かに大きいものであることは自覚できている。
 そうであるからこそ、「食」に関するあらゆる多様性を学校現場は認識し直すべきであろう。

 今一度言うが、公立小学校に通っていたアレルギー女児は、決して給食の「おかわり」をしたから死に至ったのではない。
 人間の多様性を心得ない、あるいはその対策を怠っている義務教育学校現場が招いた悲惨な事故に他ならない。

「追い出し部屋」で働いてみたいぞ。

2013年01月10日 | 時事論評
 職場に於ける「追い出し部屋」なる部署の存在を原左都子が初めて知ったのは、昨年放映されたNHK連続テレビ小説 「純と愛」 においてであった。

 上記「純と愛」で私が視聴したその場面を、我が記憶のみに頼って以下に少し再現してみよう。
 主人公純が働く大阪のホテルオーサキは経営難に陥り、外資系大手ホテルへ吸収合併される運命と相成った。 それと平行して無能な社員のリストラが実行されることとなる。
 幹部よりの再三に渡るリストラ勧告にもかかわらず自主退職を希望しない社員達が、大きなテーブル一つと椅子以外何も置かれていない薄暗い部屋へ召集され、日々そこで与えられる何らの生産性にも繋がらない小論文等の課題を虚しくこなしつつ、退社時間を待つ措置となる。

 これぞ「追い出し部屋」である。
 要するに「追い出し部屋」とは、企業の経営難等によりリストラ勧告をしたにもかかわらず自主退職を望まない社員達を、無常にも強引に辞職へと追い込むべく試練を与えるために用意された部署を指す。


 新年が明け幾日かが過ぎ去った頃、年末のアルゼンチン旅行出発以降たまりに溜まっている新聞の山を片っ端から爆読する作業に取り掛かった私だ。
 そこで発見したのが、朝日新聞12月31日付一面トップの 「配属先は『追い出し部屋』」 と題する記事である。
 1年を締めくくる大晦日の一面トップ記事として、この種の話題を提供する朝日新聞の一種偏向しているとも捉えられそうな趣味を私は好意的に捉える人種である。
 
 それでは早速、上記朝日新聞トップ記事を要約して以下に紹介しよう。

 赤字にあえぐパナソニックグループに、従業員達が「追い出し部屋」と呼ぶ部署がある。 本社より遠く離れた子会社内のその室内には100台程の古い机とパソコンが並ぶ。 その部署の主な仕事は他部署の「応援」である。要請があれば駆けつけて製品を梱包する等の単純作業に励む。 応援要請がないと就業時間を待つしかない。
 この部屋の正式名称は「事業・人材強化センター」。 ある女性社員は上司より「今の部署には君の仕事はない」と告げられ、子どもの事を考えて上記センターへの異動を受け入れた。 「そこへ行っても1年後はどうなるか分からない事は承知していますね」と上司に付け加えられつつ…。 
 このセンターの存在に関して会社側は「退職強要ではない」と説明しているようだが、社員側は「実質余剰人員を集めて辞職するよう仕向ける狙い」と受け止めている。 当該パナソニックの事例の場合、就職氷河期を勝ち抜いて正社員の座をつかんだ30代の世代においても上記センター配属、すなわち「社内失業」が増える現実のようだ。

 話題を上記朝日新聞2面に移そう。
 我が国日本では、経営難の企業が従業員を解雇することは過去の裁判例で厳しく制限されている。 そこで企業は仕事を与えられない社員に自主退職を促す手段に出て“人減らし”計画達成を目指すとの図式である。
 その一方、全国に広がる「追い出し部屋」を商機と見て活発に動くのが人材紹介・派遣を手がける人材サービス業界だ。 「社内失業者」の出向を受け入れるビジネスも出てきているとのことだ。
 最後に朝日新聞記者のまとめとして、「社内失業」や人減らしの増加は、経済の低迷と雇用政策の欠如がもたらす構造的な問題だ。 現時点において失業した人への支援は失業手当が軸で手薄なままだ。 政府の無策が続く……
 (以上、朝日新聞昨年大晦日のトップ記事より要約引用)


 朝日新聞よりの引用が長引いたが、ここで私事に入らせていただこう。

 原左都子が民間企業(現在東証一部上場企業であるが)に正社員として勤務していた1970年代から80年代半ばにかけても、当該医学関連企業に於いてリストラ対象職員を幹部が自主退職に導く手段は存在していたと認識している。
 それは 「左遷」 との個別的方策であるのだが、当時よりこの「左遷」に耐え抜いて生き残り、新たな実力を発揮する社員は少なくなかった事実を私は記憶している。
 
 いえいえ、過去に於ける「左遷」と現在の「追い出し部屋」とは、その時代背景及び企業側が置かれている経営難との切羽詰った事情等々、その趣旨が大いに異なることは私とて重々理解できているつもりだ。

 ここからは、原左都子の私論に入ろう。

 そうだとしても私が考察するに、「左遷」「追い出し部屋」… リストラ先の如何にかかわらずリストラ対象となる社員とは、もしかしたら単に直属の上司に嫌われただの、組織の経営理念に合わないだのとの、私に言わせてもらうと上層部の“狭い見識”がもたらした結果とも受け止められそうだ。 要するに、上に立つ人間の能力不足により有能な社員を使いこなせないだけの話かもしれないのだ。

 冒頭のNHK連続テレビ小説「純と愛」も同様ではなかろうか!?
 主人公純にはホテルの「社長」になりたいとの大いなる野望がある。 そんな純の純粋な野望を周囲がとことん潰し続けているドラマと解釈している私は、純には是非共何処かのホテルの「社長」になって欲しいと期待している。

 既に還暦に近づいている私は、まさか今後何処かの「社長」になろうとは一切欲していない。
 だが過去に於ける民間企業経験者加えて元公立高校平教員の立場として、当時実力なき経営者や上司に対しては何が何でも逆らい続けたい思いが我が体内から沸々と湧き出ていた事を、NHKドラマ主人公 純 から回想させてもらえるのだ。

 そんな原左都子から、「追い出し部屋」を設けている企業幹部に言いたいことがある。
 自分は会社経営者や顧問の身分だから、あるいは部署の上司の身分だから、狭い世界での弱者である部下をいたぶって「お前は『追い出し部屋』へ行け!」などと安直に指示していたのでは、後々真に実力ある部下から“しっぺ返し”を食らうことを認識しておくべきであるとの事実だ。


 表題に掲げた通り、年齢を重ねた今こそ私は「追い出し部屋」で働きたい思いがする。
 そこで弱者の立場として労働力を提供することにより、組織の上位に君臨する自ら力があると自負する人物達の真の実力の程に決戦を挑みたい故だ。

 現在世界競争力を失っている日本、そしてこれ程までの経済難の時代であるから故に、下に位置する弱者を排除する以前の課題として、上に立つ人材こそが自らの実力の程を鑑みて今後の進退を問い直すべきではないのか?!?