原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

ママ友嗜好派 v.s ママ友敬遠派

2013年05月06日 | 人間関係
 今年の5月の連休は本日(5月6日)最終日を迎えたようだが、連休後半中「原左都子エッセイ集」の執筆をしばらくお休みさせて頂いた。

 その間、レジャーに励んでいた訳ではなく、現在介護付有料老人施設に入居中の義母の元を訪れご機嫌伺いをしたり、我が郷里で一人暮らしの実母に贈り物をしたりと、主に年老いた親達の孝行に勤しみつつ過ごした今年の連休と言える。

 私自身の息抜きと言えば、日頃より励行しているランニング練習やジムでの筋トレ等以外は、昨日5月5日に松山バレエ団主宰「コッペリア全幕」を鑑賞するため娘と共に渋谷文化村まで出かけたのみである。

 本日久々に公開する「原左都子エッセイ集」に於いて、当初は連休最終日に相応しく上記バレエ公演に関するエッセイを綴る予定でいた。
 ところが昨日公演会場座席で偶然隣り合った「ママ友グループ」の会話内容の方が、バレエ舞台の素晴らしさよりも(マイナスの意味合いで)強烈に我が印象に残ってしまったのだ。
 そのため予定を変更して、後者に関する私論を展開させていただく事とする。

 「ママ友」に関する議題については、つい最近4月11日に綴り公開した我がエッセイ集バックナンバー 「庶民ママ達は“ママ友序列化”がお好き?」 に於いても論評している。
 このバックナンバーが4月公開以来、「原左都子エッセイ集」内で読まれている記事のトップを独走中なのだ。  その理由や何処よりのアクセスか等々に関しては私自身がまったく把握できておらず、摩訶不思議な感覚であるが…。
 
 上記表題に掲げた通り、「ママ友」に関しては「ママ友嗜好派」と「ママ友敬遠派」に大きく分類出来よう。
 原左都子などバリバリの後者、すなわち「ママ友敬遠派」に分類される母親である。 と言うよりも私の場合、下手をすると「ママ友毛嫌い派」に分類されそうな程の“アウトサイダー的母親人生”を主体的に志向して母なる道程を歩んで来た人種と表現できそうだ。

 その辺の事情を上記4月のバックナンバーにおいても綴っているため、以下に少し反復させていただこう。
 原左都子の場合、数十年前に上京し職業人として独り立ちして以降の長き独身時代は自己実現意欲に駆られるままに突き進み、「結婚」や「子育て」にはさほどの興味を抱かずに過ごした後、晩婚・高齢出産に至っている。
 私自身が現在大学生の娘を持つ“現役ママ”である事には間違いないが、子どもが既に大学生にまで成長すると、もはや“ママ友”との付き合いは皆無となるのが自然の成り行きであろう。 それ以前の問題として私の場合、高齢出産したその直後より“ママ友”なる女性達との付き合いをなるべく回避するべく意図して行動してきた母親である。 それでも、「ママ友付き合い」を回避できない場面が子を持つ私にも多々あったものだ。
 私にとって思い出深い「ママ友」どもとの確執の場は、我が娘を「クラシックバレエ教室」に入れた時の事である。 どうやら「クラシックバレエ教室」へ娘を通わせる事とは、「ママカースト」の頂点にありたい庶民ママ達がそれを実践する場だったようだ。 “夫の職業や収入”“実家の資産”…… 世間知らずの若きママ達が身の程知らずに恥ずかしげもなくこれらを平気で暴露し合う姿に、私はただただ驚かされるばかりだった。 これに辟易としつつ我が娘が私立中学校へ合格を決めた後は、プロのバレエ団が併設する“母親出入無用”の教室へすぐさまレッスンの場を移したものだ。 
 子を持つママ達は、狭い意識でせせこましくも「ママ友カースト制度」などにこだわる事無くもっと自由に子育てをしつつ、亭主や実家の力ではなくママ自身の努力と能力で“腕一本の実力”を育みながら、子どもと共に大きな心でいろんな人との付き合いを育もうではありませんか!
 (以上、本エッセイ集4月バックナンバー「庶民ママ達は“ママ友序列化がお好き?」より一部を要約引用。)


 昨日のバレエ公演「コッペリア全幕」会場で、偶然お隣座席に居合わせた「ママ友グループ」の話に移行しよう。
 4名程のママ達の集団だっただろうか。 我々親子が座席に到着したのは開演10分前程だったのだが、とにかく賑やかにお喋りをされているグループだった。
 聞きたくもないのだが我が耳に入って来る会話とは、まさに上記「ママ友序列化」の範疇を抜け出ていない内容である。  どうやら母親であられる女性皆さんの子どもさん達が過去にバレエ教室に通っていた関係で今尚「ママ友」付き合いが続行して、年に数回プロのバレエ公演を“ママ友集団”で鑑賞する事を楽しんでおられるらしい。
 この「ママ友」グループの皆さんは、既に高校卒業段階の大きな子どもさんをお持ちの様子だ。(我が家の娘も既に大学2年故におそらく子どもの年齢は近いのであろう。)  一人のママ氏曰く「子どもが高校を卒業すると通常“ママ友”付き合いがなくなって寂しいけど、我々は子どもがバレエを習っていたお陰でこのようなバレエ鑑賞が出来るから恵まれてるよね~」 それに応じて別のママ曰く「私の場合専業主婦だから人と出会える機会が少ないのに、子どものバレエを通じて皆さんと知り合えてホントによかった……」


 昨日5月5日の松山バレエ団公演「コッペリア全幕」の場合、「子どもの日」特番である。 
 中学2年終盤に既にクラシックバレエから遠ざかっている我が娘であるが、このような本格的バレエ公演を安価!で楽しめる機会を庶民に提供している松山バレエ団の粋な計らいに感謝しつつ、娘がバレエから離れて以降も素晴らしいバレエ鑑賞の機会を利用させて頂いている。
 
 我が家もそうであるため、「ママ友グループ」が同様の思いでバレエ鑑賞を遂行しておられても何ら問題はない…。
 それでも何故、昨日バレエ公演会場で出合った「ママ友グループ」の開演前や休憩時間中の会話がマイナスイメージで我が脳裏に刻まれてしまうのかに関して考察すると、その会話内容に(低レベルな)「ママ序列化」意識が漂っていたからに他ならない故であろう。
 
 バレエ鑑賞の座席とは大いなる“公共の場”である。
 芸術鑑賞の場の僅かな待ち時間内でも、一小集団である「ママ友グループ」内での会話内容を吟味した方がよりスマートではなかろうか? と私はアドバイスしたいのだ。  確かに女性が4人集まると誰かが失言しても不思議はないが、グループの誰かが公共の場である事を鑑みて軌道修正できないものかとも感じるのだ。 
 それに思いが及ばず自分達のみで思いのまま喋り散らしている「ママ友連中」とは、いい年をして客観的視野が育めていないにもかかわらず、“周囲の皆は我々よりも下階級意識”が強靭な羞恥心無き世間知らずの集団としか評価し得ないのだ。

 「ママ友」に関する大いなる意識や立場の違いがあれども、昨日バレエ公演会場で出遭った「ママ友集団」とは子どもにバレエを習わせた歴史において原左都子と共通項があろう。  通常のバレエ公演とはその種の観客が多いものだ。
 今後は如何なるバレエ公演に際しても、仲間内レベルの域を出ていない“知ったかぶり会話”で開幕直前まで好き放題盛り上がって周囲の観客を白けさせ迷惑をかける事を避け、客観的視野を持って静かに厳かに舞台の開演を待ちませんか?

美しい涙を流したい…

2013年05月01日 | 自己実現
 昨日深夜、「原左都子エッセイ集」を以前よりお読み下さっている “とある方”(以下、H氏と記述しよう)から1本のメールを頂戴した。 (参考のため、H氏は原左都子が元医学関係者であることをご存知であられる。)
  
 私が個人的にメール返答申し上げれば済むのかもしれないが、H氏よりのメール内容が文学的かつ社会性を帯びていて、これは公開に値する!と判断させていただいたため、身勝手ながら今回我がエッセイ集の題材として取り上げさせて頂く事にした。

 早速、以下にH氏よりのメールの一部を要約しつつ紹介しよう。

 4月29日の記事 (我がエッセイ集「世にテレビがなかったら人はもっと進化できたか?」) を読み、最近の脳内不良を相談させていただきます。 
 NHKの大河ドラマは、新撰組以来ちょっとどうかと思う時代考証やキャスティングについて行けなかったり、女性を主人公にしたなよなよジメジメの作品が多くて、ずっと遠ざかっていました。 ところが「八重の桜」を観て、草食系侍に何だいつもと同じか、と思っていたら、段々彼らの役者の目に虜に成り、何でもないシーンに涙をこぼすことが多くなってきたのです。 そのシーンは決まって“義”とか“信”に尽くす真っ直ぐな心の射影のシーンです。 己の半生を顧みてそれが最も欠けていることは気が付いていても、その番組の出だしのテーマ音楽を聴いただけで、もはやこみ上げて来てしまいます。 まるで、ワンちゃんがおやつを見せなくてもその仕草をしただけでよだれを出すのと同じ様です。
 この二年間というもの、我が親類の為にボランティアでの仙台との往復で疲れ切ってしまい、テレビで震災のことがちょっとでも出て来るとすぐチャンネルを切り替えたりSWを切ったり、逃げ回っていました。 その場面が出ると涙が溢れてしまうからです。
 歳をとると涙もろくなると言われてますが、サッカー中継で打ち振られる日の丸を見たり君が代を聴いたりすると、身震いこそすれ涙を流すことなど全くなかったのが、最近の私は香川が蹴り込んだシーンに歓声を上げずに涙をこぼすのです。 何やら感動が全て涙に化けている様です。
 家族と一緒にテレビの映画やドラマを観ていた時は、家父長たる威厳の誇示よろしく絶対に涙を流さなかったのが、後期高齢者となって独りでテレビを観ていると、見栄も恥もなく平気でボロボロ泣いてしまいます。
 これって、ごく普通の加齢癖なんでしょうか、それとも鬱の前兆なんでしょうか?
 (以上、「原左都子エッセイ集」をお読みになられたH氏からのメールより一部を引用させて頂きました。)


 上記H氏よりのメールを読ませていただき、真っ先に我が脳裏にカムバックしたのは「原左都子エッセイ集」2007年9月開設当初にネット上に公開した 「涙もろさと感性の相関関係」 なるエッセイである。

 ここでその一部を振り返らせていただく事としよう。

 私は涙もろい。 新聞を読んでは目頭を熱くし、テレビのドラマを見るときにはティッシュ箱を抱えることなく見られない。 外を歩けばこの間まで赤ちゃんだったような小学生が自分と同じくらいの大きさのランドセルを背負っている姿がいたいけで涙を誘われ、電車の中では思い出し泣きで目を充血させる。 劇場や映画館や、はたまた子どもの卒業式ではいつも先陣を切って泣き始め、周囲のもらい泣きを誘っている私だ。
 ところでこの我が涙もろさはプレ更年期の頃から激しさを増しているようだ。 恐らくホルモンバランスの悪さが精神的不安定感を増長しているためであろう。 いい年をして人前でボロボロ泣くのはみっともないし、化粧も剥げて悲惨な顔となってしまう事は重々承知しているのに、どうしても感情のコントロールが若い頃よりもうまくいかず醜態をさらすこととなる。
 数年前の話であるが、この涙もろさのために大失敗をしでかした事がある。 ある教育関係の学会ワークショップの閉会時のスピーチにおいて、参加者全員の前で感情が高揚して涙が止められなくなったのだ。 科学分野の会合でのスピーチで涙などとはまったく無縁の場であるのに、とんだ場違い醜態を晒し穴があったら入りたい心境であった。 私の頭の中に無意識のうちにこの研究発表の内容に関する強い思い入れがあったのだが、今思い起こしても何ともみっともない限りである。
 ここで、“涙もろさ”と感性の相関関係について考察してみることにしよう。 通常、涙もろい人は感受性が強く感性が豊かであることには間違いない事と思われる。 ところが私の場合プレ更年期以降は、例えば過去の経験が機械的に頭にフラッシュバックして、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ているのではないかと涙を流しながら感じることが時々ある。  例えば先日映画を観に行った時にもボロボロ泣いたのではあるが、泣いている自分とは別にさめた自分がいて「ストーリーもありきたりだし、傑作とはいえないな。」などと落ち着いて冷ややかに批評しているのである。 どうも“涙もろさ”も過去の経験に支配されている部分がありそうで、その時の自分の感情とは無関係に涙が出ることもあるのではなかろうか。  別の観点から考察すると、諸現象が人の感性に訴え反射的に涙を誘うのであろうが、特に年配者は年の功で多面的に物事を把握する習慣が身についているため、とりあえず反射的に涙を流した後で、冷静な判断が行われているとも言えるのではなかろうか。
 (以上、「原左都子エッセイ集」2007年バックナンバーよりその一部を要約引用。)

 
 本エッセイの最後に、昨日我がエッセイ集をご覧になられメールを頂いたH氏宛にご返答を申し上げよう。

 一家の長としてご家族と一緒にテレビの映画やドラマを観ていた時は絶対に涙を流さなかったとのH氏のご記述が、原左都子が年少の頃郷里で家族と歩んだ道筋と交錯するのだ。
 私も同じ思いだった。 幼き頃、親がいる場で私が涙をこらえるべきと判断した理由とは、私が涙を流せば親が心配するだろうと幼心に慮った故である。

 その後成人した後上京し独身生活が長かった私は、元々生まれ持った「泣き上戸」気質故に自宅で思う存分一人で泣き崩れる事を堪能してきている。 
 後に晩婚の後子どもを設けた後も、私は自分の内面からの欲求と共に「涙もろさ」を現在の家族の前でもみっともなくも披露し続けている…  そんな私を許容してくれている現在の我が家族に感謝の思いであるのは当然だが。

 それにしても「涙もろさ」とは人の感情表現の貴重な一場面であり、素晴らしい自己表出であると私は捉えている。
 人間いくつになろうと、怒りを爆発しようが、笑い転げようが、涙にむせようが、それこそが人生の醍醐味ではなかろうか!! 

 そんな素晴らしい諸感情を人間が先天的に持って生まれ出た事実自体を、出来うる限り許容できる社会でありたいものだ。