原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

メルヘン世界への誘(いざな)い

2013年09月19日 | 時事論評
(写真は、昨日9月18日に娘と訪れた サンリオピューロランド アトラクション施設内にて自動撮影したものの私製複写版。  写真の縮小を何度も試みたのだが何故かいつもの手法では不可能なため、ドデカい写真を公開し恐縮である…  後日、時間がある時に縮小に再チャレンジしますので何卒ご了承下さいますように。


 最近の「原左都子エッセイ集」に於いて、福島原発事故汚染水後処理失敗及びそれに関連する2020東京五輪反対、その後は高齢者関連のエッセイが各3本ずつ続いた。

 今回は大幅にエッセイの指向を変え、読者の皆様をメルヘンの世界にでも誘おう。

 と言ったところで、我がエッセイ集の読者の皆様とは“そんなものどうでもいい”嗜好派の方々が大多数と私は認識しているのだが如何であろうか??
 実は私も現在はそうであるかもしれない。

 ところが昔は違った。  現在は辛口硬派のこの私にも、「少女趣味」嗜好の時代があったのだ。 (「原左都子エッセイ集」2010年12月 芸術カテゴリーバックナンバーにおいて「“少女趣味”文化を築いた巨匠達」と題するエッセイを綴り、その中で内藤ルネ氏と水森亜土氏のご活躍ぶりを紹介しておりますので、よろしければご覧下さい。)


 さて昨日娘を誘って訪れたのは、東京都下多摩センターに位置する「サンリオピューロランド」である。
 また何でこの時期に、大の大人(というよりも老齢に近い)私が当地を訪れる必然性があったのか?? なる疑問と命題に応えよう。
 その理由及びきっかけは至って安直だ。 現在義母の保証人代行事務処理を任されている私の元に、「青色申告会」よりピューロランドの激安割引入場券が送付されて来たのだ!  たとえそうだったとしても普通の人なら無視するのが通常かもしれないが、何分元“少女趣味派”の私である。  そもそも我が娘も幼き頃はキティちゃんの大ファンだったことだし、それに便乗して人生3度目のピューロランドをエンジョイして来よっと。

 9月下旬に差し掛かろうとしている時候にしてはまだまだ真夏の残暑が厳しいものの、湿度が低く比較的爽やかな天候である。 道中小田急線電車内から見る外の景色に雲の一つもない秋空が広がっている。 こんな秋晴れの日に室内遊技場で娯楽するのはもったいないかも…なる思いは、多摩センター駅に到着してすぐに打ち消された。 駅前の広大なパルテノン通りのレンガ歩道には真夏の太陽が容赦なく照り返していた。 

 日傘で直射日光を遮りつつ到着したサンリオピューロランド内は、平日にもかかわらずそこそこの集客力のようだ。
 前回訪れたのはおそらく娘が中学生頃の平日だったと記憶しているが、その時には「幼稚園」年齢程の団体客が押し寄せていて、騒がしく鬱陶しかった記憶がある。
 今回は団体客との接触は回避できラッキーだったが、顧客層を一見したところ我が娘と同年代の学生風女子が圧倒的多数のようだ。 その他は、孫を伴った高齢者も含めた一族小団体か、あるいは母親が未だ就学年齢ではない子を引き連れて当地を訪れている光景だ。 (参考のため、私のように還暦近いおばさんと大学生の娘とのカップルは見かけない… そんなの私に言わせりゃどうでも何でもいい範疇の話だけど、とにかく集団客に遭遇しなかったのはラッキーだった。


 娘の話によると、キティちゃんを手始めにサンリオの各種キャラクターとは幼児をはじめとする低年齢層のみならず、今では大学生や社会人の若き世代の女性にも愛好されているのだと事だ。 メディア報道で少しはそれを承知していた私だが、それにしても結構“いい年”をしてそうな若き世代の女性陣が頭にキャラクターのカチューシャを装着し、着包みのキャラクター相手にキャーキャー騒いでいる姿を、如何に解釈するべきか困惑する私だ。


 同様の現象を東京ディズニーリゾートでも少し前に実地見聞した私だが、その行動を「原左都子エッセイ集」バックナンバーで「似非同調性」と結論付けている。 (2011年2月バックナンバー 「ディズニーリゾートに見る若者の“似非”同調性志向」をご参照下されば幸いです。)
 そのエッセイ内でも記述しているが、今の時代の若者達がせっかく得た友を失わず周囲環境から孤立しないためには、付けたくもないカチューシャを頭に付け、着包み相手に友と一緒に「ミッキーちゃん!」あるいは「キティーちゃん!」と叫ばねば、現在の若者とは“村八分”仕打ちを受けるのか!?! 

 それは単なる私の老婆心故の取り越し苦労であり、若者達が娯楽施設で楽しむ姿が真実なのか??
 それにしても、我が娘は私の“お抱え家庭教師”力の影響か、周囲環境に対する冷静かつ客観的な観察力が備わっているようだ。 決して、自分と同年程度の女性軍団の諸行動を責めたりせせら笑ったりもしなければ、自分は自分でせっかく訪れたピューロランドを楽しもうとしている様子だ。


 何と言っても、現在に於けるピューロランドの一番の魅力とは、「ショー」にあるのではないかとの感想を述べる私に娘も同意する。

 入場券のみで楽しめる「パレード」など、ダンスと大道芸のオンパレードだ。 観覧椅子がなく冷たい床や階段に座らされるのは高齢者には足腰が痛くて辛いが、繰り広げられるショーの中身は決して“子ども騙し”ではなく十分に洗練されている。
 そしてピューロランドの特徴として、シアターホールに於けるショーの数々が充実していることも賞賛するべきではなかろうか。 ディズニーランド・シーに比較して西洋系ダンサーが登場しないのが少し物足りない気もするが、これも考えようによっては東洋系ダンサーで統一しているピューロランドの方こそが“統一美”があるようにも考察可能だ。
 例えば、昨日実施されたメルヘンシアターに於ける「不思議の国のハローキティ」にお於ける最終場面で“足が太い”女性コールドダンサー達がラビットに扮してラインダンスを披露した。 これには意表をつかれた私だが、善意に解釈すれば幼児が多く訪れるショーには「太足」の可愛い系女性ダンサーを登場させるのがベストの演出かとも唸ったのものだ。

 最後にもう一つの感想として、サンリオピューロランドは“動く”アトラクション系に自動写真撮影を多用し、その写真を顧客に購買させる経営マーケティング手法を多用しているようだ。
 これ、ホントに儲かるの?? と疑問視の上で購入したのが冒頭の写真であるが、帰宅後インターネット上で購入できる販売写真物が貧弱過ぎる事を、原左都子から最後に指摘しておこう。


人生終盤を迎えた年寄りとの“健全な”付き合い方

2013年09月16日 | 時事論評
 大型台風が日本列島を襲い、本日は大荒れの敬老の日の一日だった。
 洪水や崖崩れ等の被害を受け、今現在も避難所で過ごされているお年寄りの方々も多いことであろう。 
 心よりお見舞い申し上げます。


 さて、「原左都子エッセイ集」2012年6月のバックナンバーに於いて、「老後とは自ずと孤独になるものだけど…」 と題するエッセイを綴り公開している。

 上記エッセイ冒頭部分で以下のような記述をしているのだが、少し振り返らせていただこう。
 以前、新聞紙面で「老後を如何に充実させるか?」なるテーマの記事を読んだ事がある。  その記事の結論とは、「人間関係の充実」 だったと記憶している。
 原左都子に言わせてもらうと、これは“現実性に乏し”く“嘘臭い”。 (もちろん老後の年齢も幅広いのだが、もしかしたら老人が置かれている実態を心得ない記者が書いた記事かな?)
 80歳を過ぎた近親の老人達と日頃接する機会がある原左都子は、高齢老人に「人間関係の充実」を望むことの多難さを思い知らされる日々だ。
 体がよぼよぼになり、棺桶に片足を突っ込みかけている老人相手に「人間関係を充実させよ」との要望とは、過酷かつ無責任ではあるまいか??  人間関係の充実とは“人として”心身共に健全であってこそ叶う課題ではなかろうか?
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用)

 上記エッセイ公開より1年3か月程が経過した私の日常は、まさに近親年寄り達の支援係を一手に担う役回りと成り果てている。

 
 その一人目、義母に関しては現在介護付き有料高齢者施設に入居中だ。

 突然の義理姉末期癌罹患そして死去に伴い、我が身内が義母の「保証人」となった事をきっかけに、嫁である私が実質上の保証人代行を任されている立場にある。 特に義理姉死去後の義母所有財産管理移行手続きは実に煩雑だった。 猛暑の中、公証役場や銀行・保険会社等の金融機関、そして義母運用不動産の仲介業者及び青色申告会への変更手続き連絡等々…  それはそれはハードな事務処理の日々を過ごした。
 やっと一通りの財産管理移行業務は一段落したが、今後迫り来るのは来年早々の税務申告手続きである。 少し気が重いが(一応税理士試験3科目免除者の立場として)義母のために前向きに善処しよう。

 それでも義母の場合、“人間が出来ている”事に救われる思いだ。
 義理姉死去前後の時期はさすがに不安定感が露出していた義母だが、そんな不幸に直面して尚、保証人代行である私への礼節を欠かさない人なのだ。「○子さん(私のこと)がいて下さるお陰で私はケアマンションで安心して暮らせます」「今後も○子さんこそが私の一番の心の拠り所です」…  さすが元事業家、元々営業スピーチはお得意なのではあるが、そう言ってもらって私が張り切らない訳がない。
 義母は共同生活の場であるケアマンション内でも、周囲の人間関係への配慮を欠かさない人物である。 あまりにも義母が気配りをし過ぎることを、現場のケアマネジャー氏が気遣って下さる程だ。  「それじゃあ自分の身が持たないですから、お義母さんも少しは周囲に甘えてもいいんじゃないですか?」と私からアドバイスしても、「○子さん、ありがとう。 でも、私は全然気配りなどしてないから気にしないで」との返答である。
 こんな健気な義母を私が大事にしない訳がないという結論である。

 片や、我が郷里に一人暮らしをする“性格の悪い”実母の実態に話を移そう。

 こいつ、何で滅多に会わない娘が可愛い孫を連れて帰省しているのに、何でいつもいつも開口一番悪態吐いて喧嘩を売ってくるの!?!
 それを“元気な証拠”と捉えるべきなのかもしれないが、一体全体どうしたことか。 我が実母の勝手気ままな言動とは「老化現象」の範疇を既に超過し「ボケ」症状に達しているかもしれないと、本気で頭を悩ませる私である。

 何分、義母との格差が大き過ぎる。 
 体力は衰えた義母ではあるが、いつまでも上品で自分の周囲の人間関係を大事にしようと精一杯努力している人物である。 そんな義母はたとえ実子である自分の息子(我が亭主)に対しても一切暴言は吐かない。
 それに引き換え、我が実母の自分が産んだ娘である私への“甘えよう”が度を過ぎていると、いつ帰省しても悲しくなるのだ。
 例えば朝起きて母に「おはよう」と言うと、「何時だと思っているんだ、これが嫁なら失格だ!」と私を非難する。 前夜には「ゆっくり寝ていい」と言う母だが、いつ帰省しても同じ言動を繰り返す事を経験しているが故に、「私が起きてから朝飯を準備するからゆっくり寝ていて」と言っても、どういう訳か自分が先に起きて、後から起きてくる私に罵声を浴びせたい様子だ。
 あるいは、「朝ごはんが出来たから食べよう」と母を誘っても「私は、要らん!」とくる。 (実は自分だけ先につまみ食いしているのだが)これもいつもの事なので無視していると、「○子は親の家のご飯をバクバクよく食べるねえ」との嫌がらせじみた発言をし始める。 「だったら遠慮しておくよ」と言い返すと、「冗談なのが分からんのかねえ。人間直ぐに怒るもんじゃないよ。アンタ性格が悪いよ」と実の娘相手に言いたい放題ホザき返してくる始末だ。

 もちろん、年老いた実母を郷里に一人暮らし状態で放置している現状に関して、こちらにも落ち度はあろう。 それにしても半年に一度しか会わない実の娘相手に、この悪態はどうしたことかといつ帰省しても落胆するしかない。 
  
 ただ少し分析し直すと、我が実母が置かれている立場が理解できないでもない。 やはり、周囲の環境が“ド田舎”過ぎるのではないかとの懸念もある。
 人間関係云々を議論する以前の課題として、日本の過疎地に於ける人間関係とは実に狭い範囲の親戚筋を心の拠り所として頼るしかない切羽詰った現状かもしれない。  それが証拠に、我が母は地方公務員の立場で定年までの任務を全うした人間だが、定年後10数年程はそれら職業関係の知人・友人に恵まれ、有意義に暮らしていた事実は私も記憶している。 その後更に年齢を重ねた暁には、母に限らず職業関係の仲間達も高齢者と成り果てている実態であろう。

 そんな中、身近に自分の実の娘や息子が存在する高齢者は恵まれているとの話ではなかろうか。 近くに実の子どもが存在するだけでも年寄りにとっては至って心強いと想像する。
 我が義母もその例外ではなく、実の息子が近くに住んでいて、その嫁である私が保証人代行を引き受けている事実を心強く捉えているのだと考察する。
 それに比較して、確かに我が実母と娘である私との実質的な距離的関係は大きなネックなのであろう。
 
 今回郷里から帰京した後に上記の事実を少し分析して、我が実母の私に対する悪態の理由が少し理解できた気もする。
 ただ、本当に実の娘や孫と80歳過ぎた老後を有意義なものにしたいのならば、少し素直になってはどうなのかと提言したい思いだ。 もしも、今後の娘と孫との帰省を本気で喜んでくれるのならば、孫もいる目前で娘に対していきなり悪態をつく事は孫への悪影響もあるため勘弁して欲しい思いだ。

 それとも実母であるあなたがずっと前から私に訴える通り、ほんとに現在の家で「孤独死」が理想なの?
 言っちゃ悪いが、あなたの悪態をいつも見せ付けられ辟易としている私には、そうとは思えないんだなあ。  あなたの私に対する悪態の数々とは、結局自分が生きているうちに子孫である私の手をとことん煩わせた挙句、立派な葬儀をして欲しいとの事だよね???
 だったら、何で素直にそう言えないの!?!
 世の中には一生において「反省」がない奴らがこの国の上層部にごまんと存在する事実をとことん鬱陶しく思う上での、あんたの娘の発言なのだけど……
 あんたがお国のトップ程偉くもないならば、自分が産んだ娘に対して、死ぬ間際くらい少しは素直に振舞ってはどうなのよ!?

紙の手提げ袋も“一流”のお出かけバックです!

2013年09月14日 | 時事論評
 (写真は、朝日新聞9月12日夕刊記事 「おじさん自然体」より転載したもの)


 冒頭から今回のエッセイ趣旨より大幅に外れるが、一昨日の9月12日、早くも警視庁が東京五輪施設建設が予定される晴海地区で、初のテロ対策演習を行ったとのニュース報道だ。 演習はテロリストらが2万人働く高層オフィスビルの入り口に爆発物を仕掛けることを想定したシナリオを使って行われたようだ。

 2020東京五輪開催に向けて政府が第一に実施するべき「安全対策」とは、阿倍首相が世界に向けてブエノスアイレスIOC総会会場で公言した、福島原発汚染水の後処理ないしは東日本大震災復興支援であろうと、五輪招致反対派の私は信じていたのだが…
 阿倍政権の思惑はそうではなかったようだ。 何よりも優先して実施したのは、テロ対策。 
 五輪に於ける「安全保証」の意味合いも多様ではあろうが、我が国において最優先するべく安全対策課題とは、“原発事故放射線漏れ対応”に他ならないとの我が思惑とは大幅に異なる事を再認識させられた。
 (えっ? 阿倍政権の最たる安全保障とは「テロ対策」だったの? そんな対策を施さなきゃいけない程島国であるこの国は国際的に緊迫状態だとは決して思えないのだけど……)

 確かに、2016夏季五輪開催地であるブラジル リオデジャネイロでは、サッカーワールドカップ開催及びリオ夏季五輪開催のため、市民生活をも犠牲にして政府が関連施設建設に巨額の税金を投入している事実への国民の強い不満が高まった。 一時は市民暴動すら発生し、ブラジル政府はリオデジャネイロや首都ブラジリアなど主要5都市に治安部隊を派遣する事態と相成った。 
 
 私論としては、日本の民衆とはお上に“素直過ぎ”るが故に、決してリオやイスタンブールのように反政府デモを起こすべく民衆のエネルギーが高まらない軟弱な実態と捉えている。 
 そこでやむを得ず、こんな年寄りの原左都子が精一杯の反論を力なき「原左都子エッセイ集」で訴え続けている次第だ。  それでも阿倍政権としては、一部底辺市民の反五輪活動の動向こそを第一義に潰し去りたいのではあるまいか? 私は早々の警視庁によるテロ対策の趣旨を 「国内五輪反発派によるテロ対策」 と読んだ。
 いやはや、2020東京五輪反対派としては政府の唐突なやり方に恐怖心すら抱かされる始末だ。   底辺市民の一人として、この国の次世代及びその後の遠い未来まで見据え財政危機の我が国の今後のあり方に関して提案した上で、五輪反対を提唱しているのだ。  にもかかわらず、こんな早期にテロ対策…???
 極端な話、国家が五輪反対派市民をブラックリストに挙げ連ねるのか??  そんないわれなき制圧を施す事態から逃れるべきか? などとも推し量って一時恐怖に怯えた原左都子である。


 ずい分と余談が過ぎたようだ。

 今回のエッセイテーマは表題のごとく、単に、おじさんが持つ「紙の手提げ袋」を論評するのが趣旨である。
 にもかかわらず、冒頭から五輪開催に伴うテロ対策を我が脅威として取り上げたのには理由がある。 本気で政府のブラックリストに原左都子が列挙されてしまうのかと怯えたためだ。
 決してそんなはずはないではあろう事に薄々気付きつつも、敬老の日も迫っているし、この辺で少し「原左都子エッセイ集」のテーマをあえて軟弱化し、その脅威から逃れようとしているのが我が魂胆である。


 気を取り直して、冒頭で紹介した朝日新聞コラム写真「おじさん自然体」を原左都子の目線で紹介しよう。
 この夕刊のコラム、なんてことはないのだが、毎週私にゆったりとした癒しの時間をもたらしてくれるのだ。
 
 「おじさん自然体」の表題のごとく、朝日新聞記事のターゲットは今時の“おじさん”である。 (というよりも私の推測では既に定年退職した後、ケア施設にお世話になる程でもなく自力で世間を渡れるレベルの能力を未だ備えている熟年男性と捉えている。)
 私自身が家庭内に“この手”の身内を一人抱えているし、還暦に近い私が様々な場所でここのところかかわる事が多い男性陣も、この年代層が多いのを自覚している。

 誤解を怖れずに言うと、結局この年齢層の男性陣とは、同年代の女性にとっては“可愛い”存在ではなかろうか?

 今回の朝日新聞記事の題目である 「侮るなかれ これが俺の一流バック」 に関して、記者である古田真梨子氏が記事に綴っておられる。 以下に、その一部を紹介しよう。
 JR上野駅。 改札を出ると写真のごとく手提げ紙袋を持ったおじさんがいた。 中には文庫本、タオル、ペットボトル。 まさにカバン代わり。(以下略)

 いやはや、驚いた。

 まさに我が亭主が婚姻以来(と言うよりもそのずっと前から)、この“紙の手提げ袋”愛好派なのだ! 
 いくらお互い40前後の晩婚とは言え、今思えば、そりゃもうまだまだお互いに若い時代の結婚当初は亭主の奇行にびっくりさせられたものだ。
 婚姻後仮住まいとして亭主の親が経営する集合住宅の一室に、住居費を支払うでもなく元々ちゃっかり住んでいた亭主自宅に居候した私だ。 その押入れの中が“紙の手提げ袋”の数々だ! 紙袋の中に何が入っているのか確認した私は更に仰天し、泣きたくなった。  会社の出張で各所に泊り込みで訪れる都度紙の手提げ袋に下着類を入れて持参し、帰宅後洗濯もせずそのまま押入れに放置していた有様だ。
 もちろんすぐさま紙袋のすべてを廃棄処分とした私だが、その後の亭主の会社出張の際にも、何処に出向くにも手には“紙の手提げ袋”の有様だ。 
  
 決して我が亭主が“貧乏人”ということではない。 (いえいえ、私と結婚した後は貧乏を強いる毎日かもしれないが)、そもそも亭主は実家の親が稼ぎの良い家庭に恵まれて育っている。 ならば何故、我が亭主が若い頃から外出時に“紙の手提げ袋”にこだわり愛用し続けているのかと言えば、その理由とは実にシンプルである。 本人曰く 「軽いから」 だそうだ… 
 それが証拠に、自分の資金で私のカバンより数段高価そうなビジネスバックを幾つが買い求めて持っている。「ちょっと、なんでアンタだけブランド物のカバン買ってるのよ!」と時折責めると、「○子(私のこと)が使っていいよ」と言うのだが、男用鞄は重過ぎて私とて使う気にはなれない…   

 “紙の手提げ袋”に頼る事のセキュリティ対応にもこだわれよ! と亭主にアドバイスした私だが、確かに“紙袋”を提げているいい年こいた男性は世間の俗人には「貧乏人」に映るであろうこと間違いない。 これでセキュリティ問題もクリアできていたんだね……?? 


 今尚、我が亭主は“紙の手提げ袋”愛用家である。
 そんな亭主のために、私は自分が洋服等の商品を買い求めた時に提供してもらった“紙の手提げ袋”のコレクションをしている。 その数たるや現在では300枚近いであろうか。 古くなったのを捨て去り新しいのをキープしつつ、小中大そして巨大袋も合わせ常にその数を絶やさぬようにクローゼットに保管している。
 時に亭主は、ショッキングピンクの紙の手提げを持って出ようとする。 それは「いくら何でも派手過ぎ!」と諭しても「これが気に入った」と言う亭主の意向を尊重する私だが、何だか似た者同士の派手好き夫婦を実感させられる思いでもあるなあ。

 もはや、亭主が“紙の手提げ袋”を好んで持ち歩く行動は私には十分許容範囲だし、これぞ“一流”のこだわりお出かけバックであるかもしれないね。

人生終盤を迎えた高齢者は何に感激するのか?

2013年09月11日 | 時事論評
 (写真は、昨日9月10日に訪れた、東京都豊島区巣鴨に位置する巣鴨とげぬき地蔵より撮影したもの) 


 「原左都子エッセイ集」に於いてここのところ、阿倍政権の福島原発事故汚染水漏れ対応の遅れ、及びその醜態にもかかわらず、阿倍首相が2020年東京五輪招致に邁進し開催が決定してしまうとの予期せぬ事態に関する批判論評に邁進してきた私だ。
 
 お陰様で危惧していた「非国民」とのバッシングも炎上も無く、この通り「原左都子エッセイ集」は健在である。
 むしろ「賛同」に近い反応を頂戴し、感動している。
 我が国の民衆の中には 阿倍政権が欲する2020年までとの短期展望のみならず“この国を遠い未来までも真に守り抜き発展させたいと長い視野で志す仲間” が少数ながら存在する事実に、天邪鬼、一匹狼の私とて心強い思いである。


 話題を大幅に変えよう。

 昨日私は大学休暇中の娘を引き連れて、東京巣鴨のとげぬき地蔵及びその周辺の商店街を訪れた。
 何故「お年寄りの原宿」とも称されている現地を若き我々が訪問したのかというと、来年成人式を迎える娘の“お祝会”を、とげぬき地蔵に程近い土地に住んでいた(現在も住民登録地である)義母のためにこの地で実行するべきと心得たからに他ならない。
 と言うのも実際問題、現在生存している娘の父方・母方の両祖母達である高齢女性2人が、来年の孫の成人式まで生き延びているのか否かに関して不確実性が高い。  いやいやそれは顰蹙な話であり、おそらく祖母2人共に未だ比較的元気に生存している事と想像する。
 ただ、既に我が郷里の実母からは「東京まで遠出して孫の成人祝会に列席する体力が無いため欠席」と宣言されている。


 話題を上記写真の「巣鴨とげぬき地蔵」周辺に移そう。

 昨日原左都子親子がこの地を訪れようと欲したもう一つのきっかけとは、少し前にメディアを通じて見聞した報道につられてである。 メディア情報によれば、上述のごとく現在の巣鴨とげぬき地蔵周辺商店街は「お年寄りの原宿」と化していて、活性化しているとの報道だった!

 それを信じこの地を訪問した我々母娘だが、実に落胆させられる始末だ…
 確かに巣鴨とげぬき商店街を闊歩しているお年寄り連中を少なからず見かける。 しかも東京都心部の他の商店街には見られない光景として、店舗の経営者達自身が高齢化している。 その高齢経営者達が今時珍しく店頭で“客寄せ”行動に出ているのが、私の視線では多少物悲しい風景でもあり嬉しくもあるのだが……  (同じような商店街として東京浅草が挙げられるかもしれないが、巣鴨はかの地に比して格段に小規模である。)

 どうなのだろう?  今時のお年寄り達にとってはむしろ巣鴨とげぬき商店街のごとく、“客寄せ”を実行していた方が店内に入り購買行動に走り易いのであろうか?  少し若き世代の原左都子としては時と場合にもよるが、もしも我が欲する商品が置いてありそうな店舗では客寄せをしてくれた方が入店し易いイメージもある。 一方で、この店にはまったく期待できないと判断する店が“客引き”行動をしていたものなら、一瞬にして見なかったふりをして逃げ去るのみだ。

 おそらく原左都子とはさほど年代が違わないお年寄り連中とは、ショッピングに於いても我が行動とある程度類似するのではあるまいか?  そうだと仮定すると、「巣鴨とげぬき地蔵商店街」が一時メディアに取り上げられてしまったが故の功罪の程が見て取れるというものだ。
 参考のため、巣鴨とげぬき商店街とは上手く表現するならば昔からの商売伝統を守り抜く「老舗」の集合体であろう。 あるいは、巣鴨との高齢者嗜好の地で旧態依然としつつも、メディアが取り上げた事を有効利用して新たな購買層を狙った商法を展開しようと目論んでいるのであろうか。
 原左都子自身は、こんな商売地が東京の山手線沿いの目抜き通りに存在している事実を肯定したい思いだ。 ところが、現在の東京都心各所のショッピングプレイスに出向く機会が多い私だが、顧客それぞれに描くコストパフォーマンスに対応できるべく存立している店舗とは数少ないのが現実でもあろう。

 そんな感想を抱きつつ、当初の目的場所である我が娘の来年の成人お祝い会場ターゲットである「お寿司屋さん」に出向いた。
 夕方の早い時間帯でもあり、そのお寿司処は空いていた。 どうやら、来年の予約はずっと後でよいとのことで、ゆったりと一家でお酒とお寿司を堪能して帰宅した。
 一時の昔には、寿司屋で酒盛りをするとかなりの高額代金を請求されたものだが、これが今時の居酒屋並みであるのも、現在の寿司屋の宿命なのか?  それとも場所が「高齢者の原宿」である巣鴨故か??


 今回は我が郷里の実母に関する話題は、字数の関係もあり次回以降に回す事にしよう。

 JR山手線巣鴨駅近くに義母の自宅があるものの、現在ケアマンションに移り住む義母にとって今に至っては巣鴨とは時折り訪れる地との事だ。
 あえてこの地を我が娘の“はたちのお祝い”の場として提案した事が、義母にとって“粋な計らい”であるとよいのだが。  来年早々地元寿司屋におけるお祝い会合に義母に元気に出向いてもらい、感激しつつ孫の節目を祝福してくれる事に期待したい。

2020五輪後日本が堕落・荒廃しないための提案

2013年09月09日 | 時事論評
 たとえ「非国民」と後ろ指を指され、我がエッセイ集がバッシングにより炎上しようが、私は本日この記事を綴り公開したい。
 (いえいえ、それは大丈夫だ。 そもそも「原左都子エッセイ集」は“有名人ブログとやら”とは異なりアクセス数が少ないため、その心配は無用だろう。)

 昨日早朝にブエノスアイレスより届いた2020年五輪開催国決定の一報には、衝撃が隠せず意気消沈してしまった私だ…
 ある意味では6月末に義理姉が末期癌で壮絶死した直後よりも、我が心理が揺さぶられる程にショッキングな発表だった。


 なんで、東京???

 そんなはずは絶対ないと信じていた。 何故ならば、東日本大震災発生より2年半が経過した現在に及んで尚“福島原発事故後処理失敗による汚染水垂れ流し”との、五輪招致候補3地の中で一番致命的な危険を抱えている日本だからだ。
 それがどうしたことか、東京に決定した理由が「3候補地の中で一番安全」との発表ではないか??
 我が耳を疑うしかない。

 確かにトルコ イスタンブールはそもそもイスラム教圏、そして中東地域に接している国ではある。 ただ、国内の反政府デモの目的とは民衆がエルドアン政権より民主化を勝ち取る闘いだったと私は理解しているし、現在は消沈しているようだ。 しかも、トルコは現在戦闘が激化しているシリアからの難民を積極的に受け入れていると聞く。 更には、トルコは今回が5度目の五輪招致挑戦との報道でもある。 何故、この国の五輪開催がいつまでも認められないのか!? 
 親日国でもあるトルコから、日本へ数多くの五輪開催祝福メッセージが届いているという。 そんな報道に触れるにつけ、何故原発事故の後処理が後手後手に回るとの醜態を世界に晒している我が国が恥ずかしげも無く五輪開催などを勝ち取ったのかと、無念感が募られる思いだ。

 片やスペインのマドリードに話を移すと、五輪開催地決定直前まで当地こそが開催候補1位に位置しているとの裏情報もあった。
 原左都子の一押しはあくまで上記イスタンブールなのたが、マドリードの誘致合戦の風景を国際影像で垣間見て、この国で開催しても問題はないであろうとの感想を抱いていた。 ところがマドリード開催が敬遠されたのは、どうやら国家の財政危機が一番の理由らしい…


 話を続けるが、それを言うならば我が国 日本とて同様である。

 安倍政権は政権奪取以降、一貫してアベノミクス経済政策により国民皆に“心理操作”を施し自分が政権を奪取した事であたかも経済復興が叶い、今後我が国が財政面でも活気付くとの報道ばかりをメディアを通じて吹聴し続けている。
 こんな“目くらませ”を信じるな!と、我が「原左都子エッセイ集」にて訴え続けている。
 にもかかわらず、大方の国民は実際に自分の生活が少しも豊かになっていない事を承知の上で、明日には少しは楽な生活が叶うと騙され、またもや夏の参院選で自民党に大量の票を投入してしまった…
 またまた気をよくした安倍首相のターゲットは、2020東京五輪招致に傾いた。

 参院選後の安倍首相の行動は国民の皆さんもご存知の通りである。

 安倍首相の参院選圧勝後の次なるアベノミクスのターゲットは、2ヶ月先に迫っている東京五輪招致だったことは日の目を見るより明らかだ。
 国民の血税による貴重な国家財源をすり減らしつつ、この一国の首相はチャーター機を飛ばして幾度となくアジア・アフリカ地域へ旅立った。 その名目は経済支援及び国際親善目的であろうが、その実は東京五輪開催を支援するべく懇願し、金(かね)をばら撒いて来たのが実態ではなかろうか。 しかも、東京五輪開催のために安倍首相は東京招致に向けて国際IOC委員達にも金(かね)の力ではたらきかけた事が疑われるのは私が説明するでもないであろう。

 要するに、今回の安倍政権による東京五輪誘致とは、自らが政権脱却のために打ち立てたアベノミクス経済政策の主たる財源確保“国民心理操作”の一環でしかないのだ。

 それでもそれを知ってか知らずか、日本国内の子どもや若者は2020年五輪開催地に東京が選出された事に無邪気に喜んでいる様子だ。 世間知らずの若年層が自国五輪開催を無邪気に喜ぶ実態に関して、原左都子も許容したい気はする。 
 あるいは本日の報道によると、レスリングが五輪競技として再指定されたらしい。 レスリング競技に於いて日本代表 吉田沙保里氏との素晴らしいまでに国際大会で連勝を重ねている五輪選手の今後の連勝を見守りたい思いもある。


 原左都子とてもちろん東京及び日本の一住民である限り、2020年東京五輪が成功を遂げるに越した事はないとの希望はある。 

 ただ、今回の五輪開催に関しては阿倍政権が政権スタート後にそれを焦り過ぎたきらいがあるのは確かな事実だ。 
 アベノミクスは国家レベルで考察するならば、未だ何らの業績を挙げていないのが実情であろう。 それを信じ過ぎる国内の子どもや若者連中、及び底辺庶民の反応に頼り過ぎるのがアベノミクス“心理操作”の弱点ではなかろうか?


 最後に私論でまとめよう。

 2020年東京五輪開催がIOC総会で決定してしまった以上、「失敗」が許されるはずがない。

 五輪において何が「成功」と位置づけられるかに関しては未知数ではあろうが、とにかく世界各国から参加して下さる選手、役員、そして観光客の皆さんの安全を保障できてこそ大会が成り立つと私は心得る。

 原左都子の現在の思いを正直に語るならば、阿倍政権自体が2020年まで持ちこたえているのかすら想像が付かない現状だ。
 しかも、まさか50年前に東京五輪を招致した我が国の歴史とはまったくその趣旨を異にする現在の五輪開催である事を、阿倍政権が認識していないこともなかろう。

 表題に掲げた通り、どうかどうか、2020年五輪開催後に日本が急激に堕落・荒廃して若き世代に暴動を起こさせぬ東京五輪準備を、政府と東京都は後7年間で施して欲しいものだ。
 しかも、五輪開催後も我々年寄りが安全に生き延びられる程度の国家財源を残しておいて欲しいのだが、これに関しては財政危機に瀕して尚五輪招致に及んだ我が国に於いては叶わぬ願いかもしれないね……