原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

棄権して改めて悟る素人対象ランニング大会の“是と非”

2014年05月19日 | 時事論評
 (写真は、昨日東京都千代田区皇居周辺歩道にて実施されたランニング大会のスタート地点で原左都子が撮影した写真に不鮮明処理を加えたもの。)


 昨日(2014年5月18日)、上記皇居ランニング大会を「棄権」した私だ。

 何故、棄権したのか?  「原左都子エッセイ集」読者の皆様はご存知の通り、4月中旬に自宅ベランダで転び、現在全治2ヶ月の骨折を体内2箇所に抱えている故である。

 当該ランニング大会の「スタートリスト」がネット上で公開された時点では、私の骨折具合も相当回復に向かっていた。 「これは出場できそうだ!」」と一時出場に向けて動き出した私だが、結局処々の事由により出場を断念するに至った事はバックナンバーにて既述している。


 さてランニング大会当日が迫る中、私は当日の天候を日々調査していた。
 何故ならば、もしも当日「強風・雨天」等が予想される場合、棄権する事の“無念の度合い”が軽減されるからだ。 素人ランナーである私の場合、悪天候下でのランニング大会出場など体力的にも(美容観点からも)叶う訳がない。  身勝手にも、もしも当日悪天候だったならば…などと大顰蹙の我が身息災志向に陥っていた。

 ところが我が天候調査も虚しく、当日は輝かんばかりの青空が広がっているではないか!


 そしてランニング大会当日、私は当該大会に出場する我が娘の応援をする目的で皇居桜田門へ向かった。

 受付にて、「今回は怪我のため棄権する」旨を告げつつも、私は「ゼッケンを下さい!」と申し出た。 そんな事を申し出る私に意表を突かれたらしき若き女性係員氏から「なるほど!」なる不躾な回答が返って来た事態に、こちらこそが意表を突かれる。 (まさか、STAP小保方会見の真似をしたのではなかろうが??) この現象を考察してみるに、私の推測では棄権するランナーがわざわざ現地に出向く事など皆無なのであろう。
 そのお隣にいた係員氏より「お大事にして下さい」との言葉を頂き、多少は現地に出向いてよかったとの感覚を得たものである。

 
 冒頭表題にて示した通り、今回のランニング大会はあくまでも「素人」を対象として実施される大会である。
 それでも出場しているランナーの体格や動きを見れば、素人の私でも出場者個々に対してある程度の“ランニング歴”あるいは“スポーツ歴”が見てとれるのが興味深い。
 
 片や、そのような履歴が一切無いに等しい(要するに原左都子同様の)“ド素人ランナー”達の間に、イッパシのランニングウェアが流行している事を、情報源に詳しい私が認識していない訳がない。
 今回の大会に於いては、その種(ブランド物のランニングウェアに身を包んだ)“まず外見から入ろう”なる素人ランナーが急増殖している現実を見てとった。 商魂たくましい我が国繊維業界やスポーツウエア産業に踊らされている庶民行動の片鱗をみる思いだ。 
 (参考のため、私自身も“外見から入る”タイプだが、“右にならえ”現象に嫌悪感を抱く天邪鬼の私は、皆が着用しているランニングウェアは故意に避け、独自にスタイリングした格好でランニングを楽しんでいる。)

 
 
 そもそも、この大会にかかわらず素人対象ランニング大会に出場エントリーしているランナー達とは、そのほとんどが職場等団体による小集団か、家族同志か、あるいは個人である。
 いつもは私自身が大会に出場している身のため、それら「集団」を観察する時間が取れないのだが、今回は娘の応援側に回ったため「集団」の動きの程を詳細に観察出来た。
 我が観察力によれば、応援側も自分のグループ“以外”の出場者には全く興味がないようだ。  (確かに原左都子自身の感想を語っても、ヘボく走っているド素人ランナーには興味が向かないのは事実ではあるが…。)

 反面、将来五輪にも出場出来そうな体格面、素質面で将来性が見て取れるアスリートは、私は大いに興味を持って観戦した。  参考のため、今回のランニング大会女子5キロの部で優勝した未だ小学生と思しき少女には、未来に向けるランナーとしての可能性に大いなる興味を抱いた。
 ところが周囲の皆さんはそんな事にも一切関心がないようで、ただただ自身グループ身内の応援のみに特化していた事実が気にかかる…   自分の仲間や家族にしか目が向かない狭い視野範疇で、一体全体何を目的にランニング大会に出場し、また応援しているのだろう?? 

 しかも「ド素人対象ランニング大会」とは、今時そのほとんどが一般市民の皆さんと場を共有しての大会運営である。
 さすがに、これに関して開催側が熟知し大会運営している現状に“一応”安堵する。
 ところが原左都子に言わせてもらえば、この対応も特にランナーに対して生ぬるい。
 「お母さん、子供さんが走路に出ていますよ。 ランナーとぶつかるのでご注意下さい!」 と叫んだとて、所詮ここは皇居周辺との公的場所だ。 大会観覧者である子供とその母親を叱責する以前の問題として、大会主催者が取るべき対応とは、ランナー側こそが観覧者や一般市民にぶつかるのを塞き止めるのが先決問題だろうが!?! 
 もしや一般市民との間で何らかの事故やトラブルが発生した場合、必ずやランナー側あるいは大会主催者側が法的責任を負うはめになるのは歴然だ。


 最後に原左都子の私論で締めくくろう。

 世に「ド素人ランナー」が増殖していいだろう。 私とてその“端くれ”だ。

 いつもランナーの立場でランニング大会に出場してばかりいないで、たまには今回の私のように、今一度初心に戻って大会の様子を観客として眺めてみてはどうか?
 特に公道等公的場所を占拠して実施される「ド素人ランニング大会」とは、一般市民の皆さんにとって“大迷惑”であるどころか、大いに“危険な場と化す”ことも認識出来るであろう。

 まさか、走る趣味を持った自分こそがこの世で一番偉いなどと、たかが“ド素人ランナー範疇”で「そこどけ、そこどけ!」気分に陥り、大いなる勘違いに浸っていない事に期待したいものだ。

“みんな主義派” V.S “人間関係こだわり派”

2014年05月16日 | 人間関係
 2本前に公開した我がエッセイ 「全治2ヶ月の骨折はどうなっているの!?ですって?」 宛に、Facebook上で相互に“友達登録”している男性某氏よりコメントを頂いた。

 それがきっかけとなり、某氏との間でFacebookチャット機能を通して「人間関係」に関する議論が展開されることと相成った。
 これが「人間関係」も主たる我がエッセイカテゴリーテーマとしている原左都子にとっては、ネット上では久しぶりに何とも面白い議論展開となったのだ。


 仮にFacebook上の友達名を「mitoさん」と呼ばせていただく事として、mitoさんと原左都子とのチャットのやり取りを、(一部個人情報を削除しつつ)以下にほぼ全文を紹介しよう。
 (参考のため、mitoさんは東大ご出身で首都圏に位置する大学の現役教授でいらっしゃる。)

原左都子
mitoさん、コメントありがとうございます。 私の場合人の世話になるのが苦手なところがあります。 後で恩を売られるのが嫌と言いますか、「倍返ししろ」と言われたらもっと嫌と言いますか…  とにかく、我がままなのですよ。 だからこそ若い頃から一人で生きて行くことを志向しているのだと思います。 (例え今後また骨折したとて)、何とか人の世話にならずに人生を終えたいものです。

mitoさん
サムライですね。ももクロじゃないほうの。(笑)
あっ、でも、バッシングされる人の特徴かも。
みんな主義の人たちから。

原 左都子
ところでmitoさんは、「みんな主義」ですか? 「バッシングされ派」ですか?  mitoさんと知り合った当初、私はてっきりmitoさんは「みんな主義」かと思っていたのですよ、実は。(笑) Facebook上で反応を頂けるようになってから、意外とそうではなくて、両刀遣いかあるいはもっと違う個性の持ち主かと考察しています。

mitoさん
ぼくを好まない人が一人でもいると、学生に対してでも、なんでなんで、そんなわけないでしょ、と追求する、
つまり、みんなから愛されたい派です。
しかし、自分自身は、みんなにあわせるなんて、くそくらえ、自分は自由に生きるんだ、というタイプです。
かなりエネルギー使いますよ。
バッシングする人は、みんな主義の、つまんないやつだ、と思ってけっこう、
ストレス感じずにやっていけます。
何度も言うけど、エネルギーは使うんですよ。

原 左都子
mitoさんがエネルギーを使っていらっしゃることは十分承知ですので、ご安心下さい。 ずっと前に東京某所に行った時に、Eさんと「mitoさんて、いい人」談義をしたことを思い出しました。 人柄を知る程に「いい人」評価が上がるmitoさんですね!

mitoさん
ありがとうございます。
ただし、みんながいい人だと思ってくれるわけではありません。
そこが残念です。というより、そこのところは、執念深いです。

原 左都子
私にとってはmitoさんのような「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」はむしろ面白い、と言うか興味深いですよ。 私などその対極で、「嫌われてこその我が存在感」だと自負していますから。 ただ、「お前が嫌いだ!」とストーカーっぽくしつこく言われるのは、やはり勘弁願いたいですね。 私が嫌いならば、静かに私の前から去って欲しいものです。 私は勝手に好きな人同士でまみえて人生を送りたいのですから。 そういう意味では、結局mitoさんの思考と共通点があるのかもしれません。 ところでこの議論面白いですね。 近々、我がエッセイのテーマに取り上げたいものです。

mitoさん
ぜひ、実名付きでもいいから、取り上げてください。
やはり、原さんとぼくとは、二律背反タイプだと思います。
好きと嫌いは同義語です。
反意語は、無関心です。
ぼくが嫌いだという人を追い求めるのは、ぼくの職業柄かもしれません。
教員としても、ろんぶんでも、ぼくを承認しない人の存在を認められないのです。
これに対して、好きな人同士で目立たずに交流していれば満足というのは、好きな人以外には無関心という男前な心です。

原 左都子
mitoさん、ガッテン致しました! たとえネット上とはいえ議論がピンポンで続く現象とは、私はその議論が生命を宿している証拠と捉えます。 必ずや後日、我がエッセイ集でmitoさんから発信頂いたこの議論をエッセイとして綴り公開します! 
あっと、この場で私の見解も書いておきますが、たとえ私が「嫌いな奴は切り捨てて好きな人同士で交流したい」と言えども、決してそれは“目立たず”ではあり得ません! 私がそもそも“目立ちたがり屋”であることは、70年代ディスコ趣味でも共通項のあるmitoさんは、既にご存知の事と心得ます。 今後も、嫌いな奴を切り捨てつつ、「目立って」我が人生を貫きますよ~♪♪

mitoさん
確かにそうでした。(笑)


 さて、私論に入ろう。

 まずは原左都子なりに、上記チャット上で出没した用語の解説から始めよう。

 mitoさんがおっしゃるところの 「みんな主義」 とは?
 (あくまで原左都子の解釈範疇を超えていない事をお許し頂きたいが)、この場合の「みんな主義」とは、自分とかかわる相手に関して「好き」とか「嫌い」とかの概念判断を下さず(あるいは度外視)して、とりあえず周囲に迎合し集団内では「無関心」を貫き、自らが事なきを得たいとの思想に基づき行動する主義と解釈する。

 それに対し、原左都子が表題に提示した 「人間関係こだわり派」 とは?
 私自身、自分側がとことん好む人間関係を厳選しつつ生きている事は歴然と言える。 上記に紹介した通り、相手方が私を本気で嫌いならば静かに去ってくれたら幸せなる「嫌われてこその我が存在感」、これこそが我が人生の信条でもある。
 要するに私自身の「人間関係こだわり」とは、あくまでも自分が好きな人と交流して生きて行きたいとの方針である。

 ところが、これに関してmitoさんとのチャット交流により 「人間関係こだわり派」 にも多様性があるものと私は学習した。
 私から観察して、一見「みんな主義」かと考察する人物の中には、mitoさんのように「みんなに好かれる事にとことん執念深いタイプ」が存在する事を改めて認識させてもらえた気がする。 みんなに好かれるために日々“執念深く”努力を重ねている人物が存在する事を、私はmitoさんを通じて初めて知った思いだ。
 もしかしてmitoさんのように、みんなに好かれることをエネルギッシュに全うできたならば、これぞ「世の平和」が叶うのかもしれない。

 この発想は明らかに、単純に周囲と迎合せんとする「みんな主義」とは異質のものと私も承知する。
 それでも、mitoさんのお気持ちとは「嫌われてこその我が存在感主義」の私の信条と確かに一致する部分があるのだ。

 両者の共通項とは、「人間関係」に於ける“こだわり”と私は結論付けたい。

 恐らく私は、年齢を重ねる程に私なりの“人間関係こだわり感”が強くなりそうな予感がある。 (mitoさんも、そうであられるかもしれない??)


 (最後に参考ですが、「原左都子エッセイ集」に関するコメントは現在本ブログ上では受け付けておりません。 もしよろしければFacebookに登録頂き、原左都子との友達申請手続きをして頂けますと、Facebook上でのコメント受付が叶います事を付け加えさせて頂きます。)

子にカネせびる“ダメ親”との決別の仕方

2014年05月14日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」長きに渡る読者の皆様は既にご存知と心得るが、私は世の「ダメ親」や「アホ親」を見かけると、強烈にバッシングしたい心境に陥る人種である。

 それ故に、これら「失格親」に関連するエッセイを現在までに数多く綴り公開してきている。
 例えば、「家を出て、親を捨てよう」 「子が親を捨てる決断をする時」 「子供の学費は親が負担するべき」等々、今思い出せるだけでも「失格親」どもをバッシングしたバックナンバーは少なくない。

 そんな私は、「ダメ親」「アホ親」の犠牲下にある子供の苦悩に直面すると、すぐにでもその現場から子供達を救い出したい思いに駆られるのだ。


 今朝も、ネット上でその現状に直面した。

 それは我がエッセイ集の編集画面上“共通検索ワード”を通してなのだが、早速以下にその一部を紹介しよう。
 嫁と我が子を事故で亡くして呆然としてる俺に、義母から「これから”私の”生活どうすればいいの!?」と叫ばれたのが修羅場
  後から義妹に聞いたら、平日昼間にしょっちゅう(ご本人の亡くなった妻を)呼び出して家事代行させたり食費とかたかってたらしい  嫁のパートの給料を全額嫁の経費(小遣い)にさせてたんだが、それを片っ端から(義母が)使い込んでた模様
 (投書者ご本人は)いい年したオッサンだがマジ泣きしながら義母を罵倒した
 この件で「娘と孫を亡くした母親を罵倒するクズ」と嫁親戚数人から言われたので(義母の根回し)、そいつらとも縁切り、結婚前の身寄りのない天涯孤独に逆戻りした
 (以上、一男性が書き込んだネット情報より一部を引用したもの。)

 ネット情報によれば、妻子を亡くしたこの男性は未だ独身を貫き、毎年亡くなった我が子を偲んでクリスマス等には現在生きている年齢に相応しい贈り物を捧げているとの後書きもある。

 この男性のネット上書き込みには、数多くの反応コメントが届いているようだ。
 そのすべてが妻子を亡くした男性の判断に同意し、激励する内容と私は解釈した。

 ここで私論に入ろう。

 何ともやるせない話である。
 それでも、よくぞこの男性は早期に義母を筆頭とする嫁親族すべてを切り捨てる決断を下せたものだ! と、私も多くの反応コメント同様の結論を導きたい。
 おそらく私が同じ境遇に対面した場合も、必ずや同様の決定を下すであろう。

 一部不可解な点は、生前の妻のパート収入の使い道や行動を男性が周知していなかったらしき点である。
 文面によると、生前の妻のパート収入使途(義母にたかられていた事実)を男性としては妻亡き後に初めて知ったと解釈可能だ。 もしもそれで事が済んでいたならば、実は妻と義母の間で家事代行や食費負担を“妻の好意”とする合意が成り立っていたのかもしれない。
 そうだとすれば、事はやや複雑であろう。 自分の娘からの心よりの「好意」に日々甘えていた義母が、親族も交えて娘の夫である男性に反旗を翻す事態も想像可能な気もする。


 ただ原左都子の私論としては、そもそも可愛いはずの我が子に自分の生活費を頼ろうとする親など、この世に存在して許されないと結論付けたいのだ。

 幸いな事に私の場合、実親も義理親もこと「お金」に関しては、子供達に生活費を依存せねばならない状況とはかけ離れた生活を全うしている。 今時十分な年金や自己資産の下、実母・義母共に老後の身を営んでくれている。 そのため、私はおそらく今後共に「金」を巡るこの種の親族トラブルには巻き込まれない人生を送れるであろう事に安堵している現在だ。


 ところが今時は、可愛いはずの我が子に自分の生活費を依存せんとする年老いた親が多い事実に驚かされる。

 5月10日朝日新聞“悩みのるつぼ”相談内容も、同様の話題だったのだ。
 何でも相談者である40代女性は、自営業を営んでいる実家から「お金を貸してくれ」と言われ、250万円も貸した時期があったそうだ。 その後も実家から、孫の金にまで目を付けて「貸せ!」と迫って来る。 18歳になった長男が「返してくれるんだね?」と実家に言っても、「返せる訳ない!」と孫にまで言う始末らしい。 直ぐ目と鼻の先にある実家にどうしても足が向かないが、この先どうすればよいのだろうか?? との相談内容だった。

 ここで再び原左都子の私論に入るが、親が我が子はおろか孫の金にまで手出しするとは「世も末」感を抱かされるというものだ…。
 相談者女性も、「この先どうすればよいのか」なる軟弱な態度をいつまでも貫いていては、子を持つ親として済まされる訳がないでろう。
 相談文面によると、相談者自身は幼少の頃に親に可愛がられた時期があるとの事だが、その親が「金欠」に至った時点で「孫」用に貯めた金にまで手出ししてきた暁には、我が子のために自分の命をかけてでも「ダメ親」と闘うべきだった。

 今後の対処方法に関して、今回の朝日新聞“悩みのるつぼ”回答者であられる経済学者 金子勝氏は以下のように回答している。 
 相談者が両親の自営業を引き継ぐつもりなら、あなたが経営者になって代わりに「親」の役割を果たすのも一つの方法。 そのつもりがないなら、思い切って親とは離れた場所へ引っ越すのも一つの方法です。

 私論に入ろう。

 上記“悩みのるつぼ”の場合、悲しいかな金子氏回答内容の手段を相談者女性は既に失っていると私は結論付ける。
 相談者である娘さんは、自分の親の「ダメ」「アホ」レベルにもっと早期から気付くべきだった。
 少なくとも、(上に記した通り、原左都子の場合は決して親に“カネ”に関して迷惑をかけられた訳ではないが)、私の場合は20代初頭の就職時点で我が親が持つその他の瑕疵に気付き、単身上京を決行する事により「親を捨て去る」事を実行した。
 ところがこの相談者の場合、親にとって孫が成長する現在まで親の近くで暮らしているとのことだ。 残念ながら今更引っ越しは無理であろう。  しかも親に言われるままに自分の息子である孫の金まで提供する軟弱ぶりで、この厳しい時代に自営業経営など成り立つ訳がないだろうが!
 可愛そうではあるが、この娘さんは今後も親にカネをせびられつつ我が子までをも犠牲にして、泣いて生きるしか方策が見い出せないのではなかろうか?

 
 それに引き換え、上記の妻子を事故で突然亡くした男性の「義理親族」切り捨て決断は早かったと、私は評価申し上げたい。
 
 この世に於ける人間関係において、“血縁”も含め「親族」関係程鬱陶しいものはない。
 捨て去るならば早い決断がものを言う、というのが私の持論である。

 「捨て去って」以降、お互いに“依存関係なき状態で”距離を置き長い年月が経過すれば、意外と良き関係が取り戻せるものとも、私自身の経験からアドバイスしておきたい。

全治2か月の骨折はどうなってるの?!ですって?

2014年05月12日 | 自己実現
 2014年4月15日に、「自宅で転び骨折し、全治2ヶ月です。」 なる表題の「お知らせ」エッセイを公開した。 
 以下に、その内容を振り返らせていただこう。

 元医学関係者 原左都子にして、不覚にも去る4月12日に自宅ベランダにて洗濯物を取り入れ中に激しく転び左肩と右手首を強打しました。
 2,3日経過すれば回復するだろうとの我が自己診断に反し、両腕共に日毎痛みが増し悪化の一途を辿っていると判断しました。
 本日やっと整形外科医を受診したところ、左鎖骨骨折(全治2か月)、右手首骨ヒビ割れ(全治1か月)の診断が下りました。
 右手にはギブス、背中には鎖骨骨折保護コルセットを背負い、現在パソコンに向かっております。
 誠に不覚の事態であり恥ずかしさの極みですが、担当医より2か月安静との指示が下りましたので、今後の「原左都子エッセイ集」執筆を2か月間程自粛したく考えております。
 公開したいオピニオンは山々なれど、両腕の治癒具合を自己診断しつつの今後のエッセイ公開となりますことを、何卒ご了承頂けますように。
 (「原左都子エッセイ集」お知らせカテゴリー バックナンバーより引用。)


 ところがご覧の通り、私は「2ヶ月間自粛」など一切せずして、相変わらず言いたい放題の辛口エッセイをネット上で公開し続けている。
 上記の通り、一応2箇所の骨折治癒具合を自己診断する日々である事には間違いない。
 それにしても我が負傷状態を気にしている以前の問題として、世にバッシング対象とするべく時事問題が次々と溢れ出る現状を捨て置く訳になどいかないではないか!  骨折に付随する痛みよりも、これらの諸現象に“一素人辛口エッセイスト”として末端部分で世に関われない事の方が、よほどの心痛である。
 それが証拠に右腕のギブスをもぎ取ってパソコンキーボードに向かっている時間は、一切痛みを感じないのだ。(参考のため、全治2ヶ月の左鎖骨骨折保護コルセットは依然背負ったままですのでご安心下さい。)

 そうこうしているうちに転倒による骨折から本日5月12日でちょうど1か月が過ぎ去り、全治1か月の右手首が完治の日を迎えた。
 ところが、「骨折」とは怪我の中でも実に鬱陶しい負傷である事を実感させられる。
 通常の怪我や病気の場合、次の朝目覚めたら“急激に回復”していて、自分の体が奇跡的に蘇っている事実に感激する体験をする事が多いであろう。  私自身がいつもそうだった。 過去に患ったインフルエンザとてノロウィルス感染とて、怪我による打撲傷とて、3日経てば元気な我が体が復活している事に感謝出来たものだ。

 ところが、今回の我が右手首の骨折……
 この右手、一体どうなっているんだ! もっと、しっかりしろ!!!  と、右手相手に叱り飛ばしたい程に、すべての動作が自由にこなせる程までには回復していないのが実態だ。


 ここで、先月29日に公開した「今後の外科医受診、どうしよう!?」 なるバックナンバーの一部を振り返らせていただこう。
 正直言って、(左鎖骨重傷状態はともかく)右手首骨折に関しては、私自身の判断でギブスを外して作業した方が回復が早そうな実感と、その医学的根拠の程を既に考察し実行している。
 とにもかくにも、今後ご高齢者達と一緒に(我が判断では何らの医学的意味のない)「リハビリ」などを外科医の指示の下受ける気が一切ない私の、今後の身の振り方に現在困惑しているのが事実だ。
 (「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)

 その後上記バックナンバーにて結論部分で述べた通り、私は4月下旬以降は整形外科医を受診しない方針を貫いている。 元医学関係者である原左都子自身の治癒状態判断の下に、全治2ヶ月骨折の回復までの日々を試行錯誤している現状だ。


 そんな私は、実は来る5月18日に開催される「皇居ランニング大会」に3月下旬頃出場エントリーしている。
 昨夜そのネットページを確認すると、私の実名がきちんと「スターティングリスト」に名を連ねていた。

 これを見て骨折負傷により大会出場を棄権せざるを得ない我が苦渋の心境の程を、ランニング愛好者の方々にはご理解いただける事であろう。
 不覚にも骨折などしてしまった我が身が、実に、実に悔しくて、 昨夜は「明日からランニング練習を再開して、18日は絶対大会に出る!」なる宣言を同じ大会にエントリーしている娘相手に発表してしまった。

 ところが「骨折」とは自分の決断以上に難儀な怪我であることを、翌朝になって改めて思い知らされる事となる。
 今朝になり、やはり私は一週間後に迫っている「ランニング大会」への出場をきっぱりと辞退するべき決断を下し、その旨を我が娘に再び伝えた。  
 と言うのもそもそもランニング大会出場に当たって、私はランニングに相応しい格好をせねばならない。
 それこそが叶わない事に気付かされたのだ。  世のご婦人達とはブラジャーを身に付けてランニングに励まれている事であろう。
 現在全治2ヶ月の左鎖骨骨折負傷を背負っている私にとって、この「ブラジャー」装着があと1ヶ月は無理と推し量った。


 右手首骨折「全治1ヶ月」を本日迎えた私は、自宅にてある“儀式”を自分一人で実施した。
 
 それは私が寝ている和室にての「床上げ」である。
 両手骨折の被害にあった私は、本日まで我が寝室である和室の布団を敷いたままにして暮らしていた。 (いえいえ綺麗好きの私は、必ずや週に一度のシーツ交換・洗濯は骨折両手で実施していた。 それに加えて、布団干しも最近出来得る限り実行していたのだ。)
 ただ、布団を押し入れ上段に上げる作業を「全治1ヶ月」の本日、初めて執り行ったとの事だ。

 その事実を娘に伝えたところ「床上げ」って何? なる回答が返ってきた。
 えっ? 我が亭主は私が骨折している期間何をしていたのですって?

 元々、死ぬまで単身でこの世を渡っていくことを志向していた原左都子である。  自己責任範疇の負傷を、身内に助けてもらおうなどとの認識及び希望など毛頭ないね!
 骨折の身を抱える現在尚、大いなる生命力に溢れている事実が素晴らしいと私本人が実感出来るのだから、それこそが素敵な我が人生でしょ!

5/8 理研調査委「STAP論文取下げ」記者会見を論評する

2014年05月10日 | 時事論評
 小保ちゃんて、「テラトーマ」すら英語で書けないの??

 これは、先だっての5月8日(木)午後3時半よりテレビにて放映された、理研調査委員会による小保方氏STAP疑惑に関する「再調査不要・論文取り下げ」発表の記者会見を視聴した原左都子の感想の一つである。


 上記記者会見以降、小保方晴子氏が理研調査委に提出した「実験ノート」の「テラトーマ解析について」と題する一ページが世間を賑わしている様子である。
 マウス2匹がそのページに描かれて、その周辺に言葉少なに実験の解説が施されているようだ。 その解説用語が一部を除きほとんど日本語でなされている事に違和感を抱かされる。
 通常、医学を含め理化学分野の専門用語とは英語や諸外国語由来のものが多い。 その実験を実施する場合も自ずと海外文献に依存する機会が多く、実験ノートもそれに付随して英語や諸外国語を多用する事となるものだ。
 ところが小保方実験ノートの場合、表題の「テラトーマ」からして日本語表記である。 これには元医学関係者としては意表を突かれる思いである。 

 何と申しましょうか。
 描かれているマウスがいかにも可愛らしければ、ノート1ページ全体の雰囲気が“女の子”らしくて、これがもしも絵本か何かだったならば、小さい子供にも受けそうな(よく言えば)暖かさや微笑ましさが感じられる。
 なるほど、小保ちゃんて一部の国民に人気があるように、そもそも可愛らしいキャラなのかな~~。 
 などと元医学関係者の原左都子にして、的外れに小保方ノートを楽しんでいる場合ではない。


 とりあえず5月8日の理研調査委による記者会見の内容の一部を、原左都子の記憶範囲内で私論も交えつつ以下に振り返ってみよう。

 テレビ記者会見では渡部惇委員長の冒頭の挨拶及び簡単な説明しか放映されなかった。
 4月9日の小保方氏不服申し立て会見が2時間40分に及び長々とテレビ放映された事と比較して、メディアの扱いの歴然とした偏りの程はどうした理由によるものか?
 それは視聴率が稼げる小保方会見を優先したに決まっている事など承知の上だが、それにしても、理研調査委側の言い分ももう少し「生」で聞かせて欲しかったものだ。

 渡部委員長は、冒頭で今回の論文疑惑に関する「悪意」の意味合いに関して解説した。
 ここで私事だが、医学、法学両者の学問経験がある原左都子としては、一番最初に渡部氏がこの話題に触れた事を評価したい。
 渡部氏がメディアを通して言いたかったこととは、「悪意」とは理化学分野に於いては法律上の「故意」に該当するが、及ぼす「害」に関してはその解釈を法律上のものとは異にすると説明したかったものと思われる。 今回のSTAP疑惑に於ける「害」とは、“結果が真正ではないものになっている”、との若き小保方氏に対する配慮範疇だと私は理解した。
 要するに、小保方氏に「悪意」があったと結論付けた場合、医学も法律もわきまえない庶民に対するマイナスのインパクトが強すぎると判断しての理研側からの“弁護の意味合い”があったのではなかろうか?

 次に、小保方論文電気泳動写真内の“切り貼り”を理研委が「改ざん」と結論付けた場面を取り上げよう。
 これに関しても、渡部氏はこの“切り貼り”に関して小保方氏に(上記の意味合いでの)「悪意」があったか否かに関して取り上げていた。
 その説明内容とは、「電気泳動写真のレーン3の挿入」「その画像」「挿入位置」に関して調査結果を提示した上で、最終的には小保方氏の「目視による確認だった」事実に関して科学的根拠を有していない故に「改ざん」に当たるとの結論に至ったようだ。
 これに関し調査委は、小保方氏が2012年「ネイチャー」への論文提出後、「サイエンス」誌へも論文を投稿し、ネイチャー誌とは異なった内容を提出している事実にも触れた。 これに関し小保方氏からは「サイエンス誌への論文は未公開であり、ネイチャー誌とは関係ない」との理由で、理研委よりのファイル提出要求にもかかわらず、小保方氏側からの提出がない事実も「改ざん」決定の一因としているようだ。

 小保方氏ネイチャー論文「捏造」疑惑に関しては、誰しも分かり易いだろう。
 世に名立たる科学誌「ネイチャー」への論文提出に当たって、自分の過去の博士論文へ掲載した写真のコピーを誤って載せた、なる言い訳を誰が信じると小保ちゃんは思っているのか。
 おそらく理化学を心得ない庶民とて、これは怪しいと勘ぐることであろう。
 そうしたところ、やはり写真捏造に関する理研調査委の説明も短かった。
 これに関する小保方氏の「悪意」の程とは、「一枚一枚写真を確認するべきなのに、それをしていない」データ管理のずさんさこそが「悪意」に該当するとの調査委の説明である。


 最後に、原左都子の私論を述べよう。
 
 今回の理研調査委の記者会見内容に概ね賛同するのが私見である。
 ただ世には小保方氏弁護見解や、理研体質こそ改善するべきとの意見が蔓延している事実も重々承知している。  前者に関してはともかく、後者に関しては全くその通り!との私論を抱いているのが事実だ。

 そこで今回は表題の通り、あくまでも去る5月8日の理研調査委記者会見に関する私論を述べるにとどめ、また日を改めて、STAP細胞騒動に関する理研体質関連エッセイを綴り公開したいと心得る。