原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

妊婦達はいつから“弱者扱い”を志向し始めたのか?

2014年05月07日 | 時事論評
 「妊婦」と一言で言っても、もちろんその個性の程は多様であろう。

 私自身が高齢にての妊娠にもかかわらず仕事を持つ“元気な”妊婦時代を送ったため、もしかしたら、現世の親切に期待し過ぎる妊婦氏達に対して、冷めた見方をする人種であるかもしれない。
 それをあらかじめお断りした上で、今回のエッセイを公開させていただこう。

 
 まずは、私事から入ろう。

 私が妊娠したのは、37歳後半、高校教諭として遠距離通勤をしていた時代である。
 20年程前の当時は、未だ「丸高」なる言葉が生命を宿していた頃だ。 35歳以上初産妊婦がこの“俗語”に該当するようで、当該妊婦に関して妊娠・出産に伴う危険性の確率が高まるとの事で、産院や保健所等が“要注意人物”として陰でチェックを入れていた様子だ。

 ところが、私が最初にお世話になった産院先生は、働く妊婦に大いに理解がある医師だった。  
 「いつも通りに生活して大丈夫ですよ!」 妊娠中ずっとこの言葉に励まされつつ、私は妊娠9か月直前期まで教師としての職務をいつも通り全うした後に、出産退職に至った。

 妊娠後も片道2時間半の遠距離通勤を貫いた。 そのうち最初に乗るJR山手線のみはいつも混雑していたが、その他の乗継JR線が都心との逆方向路線であり、JR線及びバスが比較的混雑度が低かったことに助けられたのは事実だ。
 それにしても、私の場合出産直前期までお腹の小さいスリム妊婦だった事は認める。 妊娠8か月頃までは、そもそも周囲が私が妊娠していることに気付かないようだ。 そのためか、混雑しているJR山手線内で座席を譲られた事は、たった一度だけである。

 この時の様子を今尚鮮明に記憶しているため、以下に紹介しよう。
 妊娠8か月手前頃だっただろうか。 真夏の時期でワンピース姿の私はさすがに見る人が見れば「妊婦」と認識可能だっただろう。
 その日、私は何らかの理由で急いでいた。 JR山手線に乗り込む事を焦り、階段を上る途中ホームへ入ってきた電車に、危機一髪のタイミングで果敢にも駆け込み乗車した。
 間に合ってよかった~、とドア付近で汗を拭きつつ息絶え絶えの私に、私よりも年上の女性が「どうぞ」と言って席を譲って下さろうとするではないか! 突然のサプライズに(駆け込み乗車が出来る程元気な私は)とっさにお断りしようと思ったのだが、その女性の優しそうな眼差しに触れ、「ありがとうございます。」と頭を下げ丁寧にお礼を申し上げて座らせて頂く事とした。 その女性が電車を下りる時にも今一度お礼を繰り返した。
 その後は退職まで電車内で席を譲られる経験もなければ、むしろお年寄り等“真なる社会的弱者の皆さん”に席を譲ろうとの感覚を保ったまま、私は出産を迎えた。


 さて、表題に掲げた本題に入ろう。

 今時は、鞄に「妊婦ステッカー」までちらつかせて、電車内で善意の相手から席を譲ってくれる事を暗に期待している妊婦が増殖しているとの噂を原左都子も認識しているし、事実その種の妊婦に実際電車内で出会った経験もある。

 それに関連するネット情報を今朝ほど、我がエッセイ集の編集画面経由で発見した。
 「電車で妊婦夫婦を叱り飛ばした女子大生について、意見をお願いします。」との投稿をした nextoshicooさん  と名乗る人物のネット投稿内容を、以下に原左都子が多少アレンジしつつ要約して紹介しよう。

 金曜の終電で満員電車に乗っていたら、「すみません」と2,3回言うのが聞こえました。 言っていたのは30代?くらいの夫婦で、端の席に座っていた女の子に小声で声をかけていました。 女の子はイヤホンをしていて最初は気づかなかった様子でしたが、はっとしたようにイヤホンをはずし…。 夫側が「妻が立っているのが辛いようで・・・(と言って奥さんのカバンの妊婦ステッカーを示したように見えた)」 女の子が何度か声をかけても気づかなかったことにイライラした様子だ。 「すみません、気づきませんで…」と女子大生風女性が席を立ちました。 すると旦那さんが、「妊娠8か月なんですよ、気づかなかったんですか」と若干非難するような調子で言いました。問題はそのあとです。
 女子大生は席から立った状態で、以下のようなことを言いました。 「私は優先席でもない席に座るとき、この車両に席を譲るべき人がいるかどうか神経をとがらせているわけでもないし、いちいち席に座る前に妊婦さんはいますか?と声をかけて挙手させるようなこともしてません。 お腹の中の子供が大事なら、妊婦に気づかない乗客に文句を言う前にやることがあるんじゃないですか? 金曜の終電がどんなものか、わからなかったわけではないでしょう? 満員電車を避けてタクシーで帰るなり、方法はいくらでもあるでしょう。 それとも、具合が悪くなるリスクを冒して終電の満員電車に乗ったということですよね。 どうぞ、お体をお大事に」。
 静かな声で淡々と言っていました。 駅につき、女子大生は降りていきました。 席は空きましたが、奥さんは決して座らず・・・。声を出さずに泣いていました。  周りも誰も座れず・・・。 結局、私が降りるまで30分くらいは誰も座りませんでした(夫婦は立っていた)。 女子大生の言い分は正論だと思うし、一点の曇りもありません。 でも満員電車だったせいか、空気が重たかった・・・。どうすればよかったんでしょう、私は立っていたので、自分の席を譲ることはできませんし。慰めるのも的外れな気がするし。
 (以上、ネット情報より一部を原左都子がアレンジしつつ引用したもの。)


 一旦、私論に入ろう。

 上記ネット情報の事例の場合、亭主に「席を譲れ!」と言わせるよりも、妊婦本人である女性が「妊婦ステッカー」を見知らぬ乗客にちらつかせる以前の問題として、本当に具合が悪いのであれば、自ら「すみませんが席を譲って頂けますか?」と直訴すれば事が穏便に収まったのではあるまいか。
 切羽詰まった体調の悪さとは誰しも判断可能であろうし、その方が即座に席を譲る体制が見知らぬ顧客同士の連携プレーとして叶ったであろうに。

 それ以前の問題として、何故これ程体調が悪い妊婦が混雑している電車に乗るのかに関しても議論対象となろう。
 一旦混雑した電車に乗り込んだ場合、人間関係が希薄化した今の時代背景に於いて、誰かが助けてくれるだろうとの根拠不明の楽観思想に傾いたとて、その結果は自己責任範疇で済まされてやむを得ないと私論は結論付ける。 要するに妊婦氏のご亭主氏の判断も誤りだったと結論付けざるを得ないであろう。
 混雑した電車乗車を避ける事が一番の対策であり、この場面で女子大生が最後に言い切った言葉は正論であろう。

 
 それにしてもこの電車内では、誰一人として妊婦氏に席を譲る他の客がいなかったのか?
 あるいは、皆投稿者や女子大生風女性と同意見だったのか??
 いずれにせよ、この電車内現場とは“凶悪犯に我が命をも犠牲にされそうな切羽詰まった場面”との風景ではない事は歴然であろう。
 その車両に居合わせた誰かが最良の決断をしてもよさそうなのに、それこそが躊躇される程人間関係の希薄化が進んでいる事実を叩き付けられた思いだ。


 そうだとして。

 こんなにも人間関係が歪み切った時代に、果敢にも妊婦の身になった女性達に提言したい事がある。
 「妊婦ステッカー」を電車内でチラつかせて我が身を保護してもらおうとの“他力本願思想”に走る以前の問題として、自分の胎児は自分で守ろうよ。  具合が悪いなら“自分の意思”でその旨を周囲に訴えて助力をお願いしようよ。

 妊娠中は“弱者志向”で済まされたとて、子供出産後はまさに母親としての“強者”の立場で、産んだ子供を守り抜く長年に渡る厳しい試練の年月が待ち構えているのだから。

「あなた、電話で見知らぬ私に喧嘩を売りたいの!?!」

2014年05月05日 | 時事論評
 私の場合、息子がいないせいか「オレオレ詐欺」らしき電話というのを受けた経験がない。

 一方、あわや「振り込め詐欺」か?!? と一瞬恐怖心を抱かされた電話には一度出たことがある。
 「原左都子エッセイ集」2012.2.11公開の「年配者の心の隙間に忍び込む“電話詐欺”」と題するバックナンバーにその詳細を紹介しているため、以下にその一部を紹介しよう。

 つい先だってこの原左都子が、「振り込め詐欺」か? と勘ぐる電話を自宅で受けた。
 電話の受話器を取る前に“ナンバーディスプレイ”画面に表示された電話番号を確認すると、土地勘がまったくない地方の市外局番が表示されていた。 若干の不信感を抱きつつも電話に出ると、「○○さんのお宅ですか?」との第一声だ。 その名は我が家の苗字と似ているのだが少し異なるため「違います」と返答すると、「すみません」との事で一旦電話が切れた。 この段階で私は、間違い電話とは言えども相手が呈示した名前が“我が家の苗字と似ている”点が大いに気になっていた。
 電話の相手の声が若い世代の男性かと想像できた事も気に掛かる。 想像力豊かな私の脳内には様々な思惑が巡る。 もしも今回の電話が娘のストーカー相手だったとして、電話に出た相手は“おばさん声”だ、これは母親に間違いない、ここはテキトーな名前を言って切った方が無難だと考えたやもしれない。
 などと原左都子が持ち前の想像力を働かせていた時、また電話が鳴るではないか! そして受信音が一回鳴った後、電話の画面まで行く前に直ぐに電話は切れてしまった。  これは更に怪しいと私が恐怖感すら抱き初めたところ、執拗に三度目の電話が鳴るではないか!
 こうなれば、娘を持つ母としては覚悟を決めるしかない。 相手が如何なる悪党であれ精神異常者であれこの原左都子こそが対峙しよう!との強い覚悟で電話に向かうと、やはり上記の未知の地からの電話番号が表記されている。  受話器を上げると、今度は「○○さんですね」と我が家の苗字を尋ねる。  「そうですが、先程から幾度となく我が家にお電話を下さっていますね?!」と半ば喧嘩腰に電話の返答を切り出す私だ!
 話を中略してこの電話の真相結果を語ると、実は、原左都子本人への大学(大学院)の同窓ゼミ会への誘いの電話だったのだ。  その元教授である恩師の文化勲章受章祝賀会も兼ねて、今回名立たるホテルの名立たる宴会場でゼミ総会を開催するのだと電話の主は言う。
 このような電話に於いても、庶民の立場としてはまず “振り込め詐欺” を疑うべきと原左都子は心得るのだ!   そんな私は、電話相手の話を聞く振りをしつつも「振込み先」を唱え始めたなら即座に電話を切ろうと考えていた。   幸い電話の相手はゼミ会総会に出席するに当たっての「振込み先」は伝えなかった。 ただ、それでも私の方は念を押した。 「今時、間違い電話や迷惑電話が数多い日常に於いて、このような連絡をいきなり電話で頂く事が如何なものか?」
 これに対しては電話の相手から一応の謝罪があった。  その後正式な「ゼミ総会」の案内書も到着して一件落着ではある。 
 それにしても、一般に流通している個人情報満載の「同窓会名簿」を濫用・悪用した“振り込め詐欺”がこの世に横行している現状下に於いて、安易に同窓会の連絡を電話に依存する事は避けるべきであろう。
 (以上、「原左都子エッセイ集」迷惑電話に関するバックナンバーの一部を引用したもの。)


 さて、話題を表題のテーマに戻そう。

 何処の家庭に於いても「セールス電話」が後を絶たない現実であろう。
 これ程迷惑なものはないのが実情の中、現在ではセールス電話を“0120フリーダイヤル”にて掛けてくる相手企業が数多い。 これぞ救いであり、我が家など私の判断で“0120”着信には一切出ない事に決めている。 それでも執拗に同じ0120番号で発信してくる企業に関しては、「着信拒否」対応でシャットアウトしている。
 
 ところが一番困惑するのは、「取引企業」からのセールス電話である。
 つい最近もこれを経験した。 我が家は一家で癌保険に加入しているのだが、その保険会社から電話が再三入る。 ただこれに関しても、ほとんどが追加サービスのセールスであることを承知の上で電話口に出ると、いつも私の思惑通りの内容だ。 
 恐らく派遣社員と思しき電話担当女性より、主たる保険契約者である亭主に電話を代わって欲しいとの一声である。 すぐさま、「その必要はありません。どうせセールスでしょうから私がそれにお答えします。」と返すなり、電話対応女性から返された反応とは!
 「ハックショ~~~~~~~ン!!!!」 との大音量だ。
 唖然としつつも、ひるまず私は更に「セールスであることは承知していますので、早く要件をお伝え下さい!」
 そうしたところ、今一度 「ハックショ~~~~~~~ン!!!!」 との大音量が電話担当女性より返されてきた。
 よほど私の対応が癪に障ったのであろう。 鼓膜が破れそうになりつつ、(この勝負、私の勝ちだな)と内心うっすら勝利感に満たされつつ、最後に電話担当女性にご意見したのが表題の文面である。
 
 「あなた、見知らぬ相手である私に喧嘩を売りたいがために電話を掛けてきたのですか!?」 
 さすがに契約相手である顧客側から保険契約全面破棄を申し出られたものなら、自分の首が切られると判断したのだろうか??  最後は「申し訳ございませんでした。花粉症ですので…。」との弱気の回答だ。
 すかさず私も、「その場合は、受話器を遠ざけてくしゃみをした方が無難ですよ。」


 今現在、大企業のセールス電話対応を任されているのは、“経済界弱者立場”の末端「派遣社員」である事など百も承知の上だ。

 顧客側である庶民の立場でそれを実感させられたとて、大企業側こそが“上下世界の実態の程”を再認識しない事には事が始まらない。 大企業とは、派遣社員のレベルの程を自ら常にチェックする体制を整えるべきだ。
 もしかしたら安易に安給料で雇い日々の電話対応を任せてある派遣社員に、顧客との取引を“潰される”事態に発展し兼ねない事実を、大企業側は今一度把握する必要があろう。

 実際問題、今時保険会社も保険商品もより取り見取りの時代だ。 
 たとえ派遣社員とはいえ、電話口で「ハックショ~~~~~~~ン!」なる大声を何度も私に浴びせ果敢にも喧嘩を売りつける企業との契約など、原左都子が庶民のレベルでとっとと切り捨てますけど、大企業さん、それでいいですか!?

職責よりも我が子の入学式を優先する教員のプロ意識の程

2014年05月02日 | 時事論評
 冒頭より私事を語らせていただこう。 

 我が子の小学校入学式の日を、私は一生忘れる事はないであろう。

 14年前のあの日、入学式等すべての式典日程が終了した後我が一家は教室に残り、娘の担任先生と最初の個人面談を持つことが叶ったお陰で、我が娘は現在の目覚ましいまでの成長を遂げていると言って過言ではないのだ。


 我が子が出生時のトラブルにより多少の事情を抱えてこの世に生を受けている事に関しては、当該エッセイ集にて幾度か述べている。

 そんな娘の真なる成長を願った私は、その方策の一環として小学校段階から娘が抱えている事情に理解があるとの私学への入学を志し実行しようと試みた。 ところがその当時の私立学校現場とは、“弱者排除思想”がまかり通っていたものと思われる。 残念ながら我が娘の持つ“事情”を公開したがばかりに、受験した全ての私学から「不合格」との通知が届く羽目と相成った。

 この世の無常に落胆しつつ、それでも義務教育である小学校へは親の義務として我が子を入学させねばならないため、今度は地元教育委員会が主催する「就学前相談」を訪れた。
 その場で教育委員会担当者より言い放たれたのが以下の言葉だ。 「今時の障がい児を持つ親とは、権利ばかり主張して困る。 障がい児を産んだ親とは学校現場や保護者皆に“迷惑をお掛けして申し訳ありません。”と頭を下げお詫び行脚をするべきだ。 そもそも障がい児とはその存在自体が迷惑である事を親としてもっと認識してはどうなのか。」  その教育委員会担当者は我々父母が“(自分よりも)高学歴”である情報を得た後は、決して「あなたがその親に該当する」とは告げなかった。 だからこそ尚更、私は当該担当者のこの言葉で当時の公教育のお粗末さレベルを痛い程認識させられたものだ。
 そんな教育委員会が操る公立小学校へ我が子を入学させる事とは、“谷底へ突き落す”よりも残酷な現状と心得つつ、私は悲痛な思いで我が子の入学式の日を迎えた。

 当日は小学校の入学式受付で親子が引き離され、私は入学式会場へ、そして娘は上級生に手を引かれて教室へと向かった。
 その後入学式が終了し、私は娘のクラス教室で再び娘と再開できた。 担任先生の児童達への話しかけに多くの児童が「は~い!」などと元気に応えるのに対し、我が子のみがうつむいて押し黙ってた姿をいつもの事として記憶している。
 そして教室での保護者への伝達事項が終わりに近づいた時、担任先生が以下のように話して下さった。 「もしも個人的にお子様の件で何か担任に話したい事がありましたら、この後教室に残ってご遠慮なくお伝え下さい。」
 それに反応したのは保護者の中でも2,3家族だっただろうか。 その他の皆さんは速やかに元気な子供と共に帰宅した様子だ。  恐らく我が家が持っている事情が一番深刻だと推し量った私は、一番最後に担任先生に個人面談を申し出た。

 そうしたところ、担任先生が既に我が家が教育委員会にて「就学前相談」を受けている事を承知していたことを告げ、「〇さん(我が家のこと)が本日入学式後に個人面談を申し出て下さることを担任としてもお待ちしておりました。」とまで言って下さるではないか!  こうなれば、こちらとしても話は簡単だ。
  ただ我が娘も在席している場で、まさか娘が抱えている深刻な事情に関して話し合いが出来る訳がない。 その事態も把握し「今後、密に連絡を取り合いましょう。」との担任先生の大いなるご配慮でその場を去った我が一家である。

 その後、小学2年生までこの担任先生に我が子はお世話になった。 小学生の娘にとっての小社会である学校現場のスタートラインで、このようなご理解ある担任先生に巡り会えたお陰で、娘はその後大躍進を遂げることが叶ったと私は分析している。


 表題に戻るが、もしもこの日娘の学級担任である教員が小学校の入学式を欠席していたならば、我が家の娘はどう転んだのだろう?

 いや、まさか義務教育のスタートラインである小学校1年生の新担任が、その職責を無視して自分の子の入学式に参列する事は考えられない??
 そうとは言い切れないかもしれない。 小学校の担任とて幼い子供を持つ父母が多いのが現実であろう。 もしもクラス担任として入学式を迎える親にたまたま小学1年生になる子どもがいるとして、その子が障がい児だった場合、子供の入学式を優先しても許されるのかもしれないのか?? (元教員経験者でもある我が私論だが、おそらくその事例の場合、学校現場で1年生のクラス担任を持たせない配慮がなされる事に期待したい。)


 今一度、表題に戻ろう。
 
 埼玉県立高校で、新入生の担任教諭4人が入学式を欠席したとのことだ。 そのいずれもが自分の子の入学式に出席するためであり、それが認められたとのニュース報道だ。

 原左都子自身が高校教員経験者なのだが、このニュースを一見して私が(歪んだ視線で)気付いた事がある。
 それはもしかしたら入学式欠席教員達とは、単に保護者対応が苦手なのではあるまいか?との懸念である。
 というのも、高校現場に於いては保護者とは「入学式」と「卒業式」、はたまた「個人面談」しか来ないのが現状であろう。 後はPTA活動に熱心な保護者が学校を訪れることはあれど、その他の要件で学校に来る保護者は皆無とも表現出来よう。
 要するに、高校教員として(特に若い世代の教員は)保護者の扱いに慣れていないのではなかろうか? 
 もしかして、自分が今後抱えるべく高校生に関して、ずっと年長の保護者から“無理難題”を押し付けられる事態を回避したい故に、スタートラインである入学式をボイコットしたのではなかろうか?


 それが極論であるとしても、教員たる者、その職責を果たすためには普段生徒とかかわる能力に加えて、保護者と渡り合える能力も欠かせないはずだ。

 そんなつもりは一切なくて教員を志したとするならば、元々その職業選択を誤ったと理解するべきだろう。
 子どもを育てる最終責任者である保護者との対等な会話の機会を教員が持てずして、子供とは育ちえないのだから。 
 如何なる理由であれ、入学式をボイコットする教員など学校現場に於いて存在してはならないと結論付けたい。