原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

認知症不明者、人生終盤に自由徘徊が叶い幸せだったのでは?

2014年05月29日 | 時事論評
 認知症のある高齢者の約1万人が、毎年行方不明になっているそうだ。

 その中には徘徊中に保護され、身元不明のまま介護施設で暮らしているお年寄りも少なからず存在するようだ。


 私はつい最近、NHKのニュース報道にてその事例を2件ほど視聴した。

 その一例を紹介しよう。
 徘徊中に保護されたとある男性は、生年月日や住所はもちろんの事、自分の名前すら認知していない。 そのため男性は介護施設で新たな氏名を付けてもらい、その名前で呼ばれつつ日々を過ごしている様子だ。
 私がテレビを通して見た印象としては、男性は血色もよく元気そうだ。 (一人で徘徊出来る程の)足腰の丈夫さを現在も兼ね備えている様子でもある。  しかも、介護スタッフの皆さんに他の入居者同様に大事にされつつ、施設で余生を送っている風に私の目には映った。 
 その映像を一見した私の脳裏に一瞬過ったのは、不謹慎は承知の上だが(この男性、認知症で徘徊して家を出た結果、幸せな余生が送れているのではなかろうか??) なる感覚である…。
 
 と言うのも、もしもこの男性が徘徊前には一般家庭で家族と共に暮らしていたとして、認知症高齢者を抱える側の家族の日々の壮絶さを想像して余りあるのだ。

 
 例えば、少し前に90代認知症高齢者が徘徊中にJR東海線路内に立ち入り、列車にはねられ死亡するとの事故が発生した。
 その際の列車遅延等に対する損害賠償責任を家族に課すとの判決を裁判所一審が下した事実に、私は驚かされると同時に心を痛めた。  判決理由としては、家族には認知症高齢者の監督責任があるのにそれを怠った、との内容だったとの記憶がある。  その後二審にて家族が負担する損害賠償額は半額に減額されたものの、それでもJR東海への賠償額は何百万円単位だったとも記憶している…。
 この裁判事例を通し、認知症高齢者を抱える家庭が置かれている“壮絶な現状”をどこまで法廷が理解したした上で、家族に多額の損害賠償を課したのかを私は問いたい思いだ。
 まさか認知症高齢者を鎖で家につないでおく訳にはいかないであろう。 そして、家族達にも人権は基より日々の生活がある事も当然だ。  列車にはねられ死亡した認知症お年寄りには気の毒だが、このような事例の場合、突発的・偶発的事故として家族の賠償責任を問わずに済ませる手段を裁判所は採用できなかったものなのか!?と、今尚私の憤りの置き場がない。


 話題をNHKニュース報道に戻そう。

 上記で紹介した徘徊中に保護され高齢者介護施設で暮らしている男性お年寄りの場合も、ご家族が捜索願を提出していた事も考えられる。 そして、NHKテレビ映像を通して自分の家族である男性高齢者を発見し、すぐさま引取りを実行して、今は既に当該男性は家族に暖かく迎え入れられているのかもしれない。

 ただこれは原左都子の勝手な悲観的思想に基づく論評に過ぎないが、この男性は自分の家庭には戻らずこのまま保護された高齢者施設で余生を全うした方が、ご本人は元より、ご家族皆が幸せな人生を送れるのではないかとの結論が導き出せそうに思えるのだ。
 その根拠について述べよう。
 あくまでも我が発想範囲を逸脱していないが、痴呆症徘徊行方不明高齢者を抱えている家庭から捜索願が提出される事例とは、当該高齢者が自宅に戻ってきてくれる事に何らかの“プラス要因”がある家庭に限定されるのではなかろうか。
 例えばたとえ痴呆症状があろうと、その高齢者が家庭内で素晴らしいばかりの人格的存在者であり家族皆が尊敬していたとか??  
 それより確率的に多いのは、おそらくその人物に「親族内相続」に関して早めに“遺産相続手続”を実行して欲しい故に、どうしても所在確認したいとか???
 私の推測では恐らく「痴呆徘徊者」の捜索願を提出している家族とは、後者が大多数と結論付けるのだが…


 社会的観点からも考察してみよう。
 
 たとえ認知症徘徊高齢者であろうが、一旦自治体に保護され高齢者施設に入居させた場合、その介護費用とは莫大なものがある事実に関しては私も認識可能だ。  その費用負担をすべて国家(地方)財源で賄って済ませてはなるまい!と焦り騒いでいるのが、国及び地方自治体側の発想であろう。
 だからこそ、この期に及んでNHK報道番組にて「痴呆高齢者徘徊ニュース」を殊更にクローズアップしていると推測する。
 国や自治体としては、早期に痴呆徘徊者を家庭に戻したい意向であろう。  「家庭の経済負担で痴呆高齢者を家庭内に囲み込め! お前らが放置した痴呆老人の面倒など一切見る気はないよ!」とのアンサーと受け取れる。

 これに対し、決して経済的に困窮していない家庭であれ、痴呆高齢者を“死ぬまで監禁状態で看とどける事態”に関して、大いなる負担が伴う事は誰しも理解可能であろう。

 結局、「痴呆高齢者徘徊」対策を担当するべき事務局とは、国や地方自治体でしかあり得ないのではなかろうか。
 既に国家や自治体は「介護保険制度」を開始して久しい。 その保険制度を(従来の国民・厚生年金制度同様に)どんぶり勘定の上、我が身息災に癒着利用するなどもちろんご法度として、運営を誤らず有効活用出来たならば、今後の痴呆症徘徊高齢者にも有意義に機能するのではなかろうか。


 人生の終盤には、私も独りで自由気ままに好きな地や(人間関係を)我が足(と心)で徘徊しつつ、(国家・自治体とは無縁の立場で)自分の命を閉じたいものである…