原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

女性優遇より男女問わず有能な人材こそ登用せよ!

2014年07月21日 | 時事論評
 国家や経済界上層部の人事面での発想とは、何故これ程までに単細胞なのだろう。

 過去から現在に至って、国家及び民間企業の上層部が結論付けている “女性の数だけ増加させればそれが女性の活躍を示す指標になる” との短絡的思考には、いつもいつもウンザリさせられ続けてばかりだ…。

 もちろん原左都子自身も、有能な女性が国家や企業の上層部で活躍する事を決して否定する訳ではない。
 むしろ我が現在に至るまでの医学分野民間企業や教育業界等での職業経験を通じて、有能な女性上司に出会った経験があり、その種の人物とは必ずやこの世に存在する実態にも触れてきている。


 冒頭より「有能」に関する私論を述べよう。

 人は何を持って、人を「有能」と判断するのか?  あるいはするべきか??

 これに関しては、私が過去に「経営法学修士」を取得した大学及び大学院にて学んだ知識を少しだけ紹介しよう。
 それを記述するに当たり、「原左都子エッセイ集」開設直後の2007年11月9日公開 「組織論におけるパワー概念」 なるエッセイの一部を以下に要約させていただこう。

 組織論に「パワー」という概念がある。
 この場合の「パワー」とは、個人ないし集団が相互に行使するあらゆる種類の影響を意味する。 Max Weber は、「パワーとは行為者が社会関係の中で抵抗を排除してでも、それが依拠する基盤が何であれ自己の意思を貫徹する立場にある可能性である。」と定義している。 Blau は、このWeber の定義を拡張して「パワーとは、定期的に与える報酬を差し止める形態をとろうと、罰の形態をとうろと、脅かすことで抵抗を排除してでも人々あるいは集団がその意思を他者に強いる能力である。」としている。
 「パワー」を一種の心理的力として、個人間の相互作用におけるその潜在性の側面を強調する立場もある。 French=Raven は「パワーとは与えられたシステム内で集団ないし他人に影響を与える潜在的な能力である。」と定義する。  「パワー」の定義は多様であるがこれらの定義に一致していることは、パワー現象は二人あるいはそれ以上の人々の相互作用という複数の状況のみに生起することであり、社会的行為者間の関係においてのみ意味のある概念であるとしていることである。
 上記のFrench=Raven は、潜在力としての「パワー」を“報償的パワー”、“強制的パワー”、“正当的パワー”、“同一的パワー”、“専門的パワー”の5類型に細分化した。この「パワーの5類型」は経営組織論上の学説としては認められていないようだが、興味深い考え方であるのでここで紹介しよう。
   (以下、中略)
 さて、皆さんはいかなる「パワー」をお持ちでしょうか?  あなたがお持ちのその「パワー」が周囲に影響を及ぼし、世界をも動かしているのかもしれませんね。
 (以上、「原左都子エッセイ集」開設初期のバックナンバーより一部を引用)


 私論に戻ろう。

 各種組織に於いて一体誰を「有能」と認識判断し、その人物を職場の上位に位置付けるのか?
 その判断に際して、上記の組織論こそが一つの基礎となり得るのではなかろうか?

 「あの人は素晴らしい」 「あの人の下でなら私は安心して働ける」 等々と僕(しもべ)から訴えたところで、その見解自体が多様性に満ち満ち千差万別である事だろう。

 片や「有能」と位置付けられ組織上部に君臨した人物側が、それが負担になる事も重々あり得る。
 事例が悪いかもしれないが、一時公立小中学校で民間校長を募った時代がある。 この制度により校長に任命された人物が長年に渡り公立学校長を全うされたとの話を私は聞いた事が無い。
 一時あれ程まで世間を騒がせた“杉並区立和田中学”の校長であられた(東大卒元リクルート㈱出身の)藤原氏とて、公立学校長として世を騒がせた後にすぐさま現場を去り、その後のご活躍の程を今や見聞する事はない……


 経団連が7月14日、(国内巨大企業である)役員企業47社に女性登用計画をまとめたところ、約6割の27社が「女性管理職を2020年までに3倍にする」等の回答を得たとのことだ。
 ただ女性の役員を増やすにあたって男性も含めた働き方や意識を変えないと、経団連の目標達成に向けた企業の本質度は問えないであろう。(以上、朝日新聞記事より一部を引用。)


 最後に、原左都子の私論で締めくくろう。

 国家や経済界に於いて、過去から現在に至る過程で幾度となくその上部に「女性登用」が持ち上げられて来たと認識している。
 現在に至って尚、その根拠なき貧弱な「女性登用」手法に依存するのは何故なのか?

 国政が諸外国事例を参照するとの手段は、過去に於いても実施されてきた“陳腐な政策”に過ぎないであろう。
 ここは国政や経団連も今一度経営学に於ける初歩の「リーダーシップ論」でも学び直して、単なる一時の女性優遇でない、真の女性活性化政策に期待したいものだ。

学校のお勉強だけして脳が活性化するはずもない

2014年07月18日 | 教育・学校
 少し前の話になるが、NHK昼の番組「スタジオパークからこんにちは」のゲストとして、医師でありタレントでもあられる 西川史子氏 が出演しておられた。

 その西川氏が出演された生番組の冒頭で、「私は離婚したばかりで大打撃を受けている」云々のお話をされた事に関しては、「原左都子エッセイ集」4本前のバックナンバー 「離婚って、そんなに辛い事象かなあ??」 に於いても記述した。


 さて今回の我がエッセイは、西川史子氏が番組内でもう一つのテーマとされた「自分が過去に母親から受けた教育」談義から引用させていただく事とする。

 その前に、原左都子が抱く“西川史子氏”なる女性に関する印象を述べさせて頂こう。
 (民放番組をほとんど見ない私にとって西川氏を拝見するのは今回が3度目程度の認識で、身勝手にもその人物評価を記載させていただく失礼を、まずはお断りしておかねばならないであろう。 その上での印象に過ぎないが…)

 この女性、自己顕示欲が強いのに加えて、(得体の知れない)自信に天然質で満ち溢れておられる人物なのではなかろうか。
 ただ原左都子の私論としては、それこそが彼女が持って生まれ、かつ自らが更に育成して来た「武器」とも考察するのだ。


 それでは西川氏による母親氏より受けた幼少時よりの教育を、我が記憶に頼り以下に紹介しよう。

 父は元々整形外科医だが、嫁いだ母は単なる主婦だった。 そんな母はどうしても子どもを医師にしたかったようだ。 ところが長男は素直で軟弱気質。 次に生まれた女である私の反発力に期待したようだ。
 そんな気丈な私を「医師にしよう!」と志した母の日々の教育は徹底していた。
 学校では「学科勉強のみ頑張るように。」 「あなたの能力ですべての科目を頑張っていては、将来医師にはなれない。」「体育の時間は全力疾走しないで余力を残す努力をせよ。」「家庭科の裁縫などは我が家のお抱え家庭教師に任せるから、その分学科勉強に励め。」 「音楽とて同様だ。決して大声で歌など歌わず口パクでごまかし、次の算数の時間に全力を発揮せよ。」
 そんな母親氏の指示に素直に従った結果、西川氏は聖マリアンナ医科大学を経て、医師免許を取得し現在に至っているとの談話だった。

 ここで再び私論を少し述べよう。
 原左都子も元々医学部出身(私の場合はパラメディカル分野だが)であるから、「医師免許」を取得するまでの苦労の程は傍目で見て十分図り知っている。 確かに(例え大学間の格差があろうと)、医師免許を取得するに至る過程は医学部入学後6年間にも及び、厳しい専門学問や数々の実習等を経過し得ないとクリアできない資格である事を承知している。
 西川史子氏はその厳しい過程を通過したとの歴史があるが故に、タレント活動が下火になった今現在に及んで尚、自己顕示欲が強靭であり、また得体の知れない自信に満ち溢れる事が可能なのであろう。


 それでは西川史子氏の母親氏が実施したとの、「学校のお勉強(学科学習)にのみ特化した学習指導」に関する記述、及びそれに対する私論に入ろう。

 実は私が小中高生だった時代は、庶民にとってこれぞ“正規”の学習形態だった。
 「もはや戦後ではない」なる戦後まもない時代にこの世に生を受けた私の小学生時代とは、とにかく「学科勉強」が出来る子供がもてはやされるとの、歪んだ時代背景だったものだ。 
 その影響で「図工」「音楽」などに於いても“お勉強ができる子”が真っ先に取り上げられ、その子達が作成したものが賞に輝いていたのが事実だ。 その恩恵を受けて私が描いた絵が「市長賞」に輝いたり、音楽分野に於いてはいつも学芸会の主役級に取り上げられた事を記憶している。(音楽に関しては好きでやっていたから嬉しかったものの、図工など大嫌いで、嫌々描いた絵が何で「市長賞」なの?と私自身納得いかなかったものだ。)

 その現象を一番喜んでいたのが我が母であった。 「我が家の娘たちが学校のお勉強が出来るお陰で、親として鼻が高い!」 その種の歪んだ優越感を持ち続ける人生を歩むしか方策が取れなかったのが、我が母としての一番の失敗だったと私は結論付けている。 
 そんな母が高齢者となった今尚、長年の歴史を経て私にいつまでも言い続ける事がある。
 「私は自分が産んだ娘二人が学校で優秀だったし、二人共有名大学(あくまでも地元ではね…)に進学しその後素晴らしく社会に羽ばたいてくれた事に一生嬉しい思いをしてるけど、貴方が産んだ子供は今どうなの? 米国在住の長女の息子は優秀だと聞いてるよ。」
 これに対し、「学校のお勉強が出来た事だけが子供のその後の人生ではない! もしも万一、我が娘が就職にありつけなくとも、私にとっては一生可愛い我が子だよ!」と母に何度も説諭しているにもかかわらず、執拗にまで孫である我が娘の就職の行く先を憂慮する母に痛めつけられる現状だ…… 


 最後に私論でまとめよう。

 西川史子氏の場合、医師免許取得者にしてミスコンに出場してみたりタレントとして毒舌吐いたりと、得体の知れない自信を武器として強靭な生き様を描きつつこの世を生き抜いておられる“類まれな”人物であろう。
 氏の母上が何を欲していたかに関しては不明なれど、おそらく現在の西川氏が“医師以外の分野”で少なからずの収入を上げ活躍されている実態にご満足なのではなかろうか??
 その意味で、西川史子氏の母親氏の教育は成功したと評価できよう。

 そうではなく、一般市民がこれを真似ようとて容易ではない事を伝えておきたい。

 学校のお勉強のみ子供にさせて、今時、脳が活性化するはずもないのだ。
 そこは各ご家庭の判断で、我が子の特性を見抜いて欲しいものだ。 

可愛い子どもの声が「騒音」となる場合もあり得る

2014年07月16日 | 時事論評
 少し前の朝日新聞「声」欄に、 「子供の声は騒音ではなく癒し」 と題する高齢者男性よりの投稿があった。

 朝日新聞「声」欄は現在無段転載を禁止しているため、原文よりの引用要約ではなく、あくまでも原左都子の記憶のみに頼ってその投書内容を以下に紹介しよう。

 近所に幼稚園や保育所等の児童施設が建設されると子供の声等の「騒音」が発生するため、地域住民より反対運動が起こる場合もあるようだ。 これがどうも解せない。 我が家の隣にも小さい子供達が住んでいて時には大声で泣いたり喧嘩をしたりの元気ぶりだが、その音声は私にとっては「癒し」であり微笑ましくもある。
 世には少子化問題もあれば、高齢者の老後を若き世代に支えてもらわねばならない事情もある。 子供達の声を利己的に「騒音」と位置付けて排除するのではなく、少しは肝要になれないものか。
 (以上、朝日新聞「声」欄投書を、原左都子の記憶に頼り公開したもの。)


 一旦、私論に入ろう。

 子供の声等に関する騒音問題を取り上げるに当たり、如何なる立場や観点からそれを問題視するかの視点こそがまずは検証されるべきであろう。
 朝日新聞投稿者の場合、あくまでもご自身の知り合いである近所の子供達の声を「癒し」と捉えられている。 片や、近隣に幼稚園等が建設される事案の場合、その「集団性」や騒音被害を受ける住民との「無関係性」こそが議論の要点となろう。
 第二の課題として、この投書者の議論が「少子化問題」や「老後の社会制度」にまで飛躍してしまっている事態を私は大いに懸念する。


 次に、原左都子の私事を述べよう。

 現在の我が家も公立小学校から目と鼻の先の位置にあり、日々小学校からの「騒音」に悩まされている立場だ。 我が娘が過去に於いて3年程お世話になった小学校でもあり、物申すのは控えるべきと理性では判断しつつ、実際問題日々の「騒音」のけたたましさには辟易とさせられている現状だ。 
 元々私自身が学校嫌いである事にも端を発しているが、日々授業開始のチャイム音や校内放送の音声を聞かされ続けると、(何でこんな場所に住居を買い求めたのか?!?)との自責の念にすら駆られる始末だ…
 これが運動会やプール指導時期ともなると、それが屋外で実施されるが故の物凄い騒音に苛まれるのだ。 それを耐えろ!と言われるならば窓を閉め切るしか手立てが打てない。 今時のような真夏の時期はエアコンに頼るためそれが可能だが、それ以外の時期には騒音を許容するしか方策が模索出来ない状態だ…

 ついでに言うなら、どういう訳か我が家の集合住宅の前が入居当初より複数“私立幼稚園バス”のバス停ともなっている。 恐らく安全性に基づいて“バス停”場所の判断が下されたのであろうが、これが日々大騒音事態だ! 
 毎朝毎朝9時頃より30間程、幼稚園児達の大騒ぎ音声に苛まれる。 集合住宅前に公道があるのだが、この道を通行する車両が少ない事を親達が安堵しているのか、幼稚園児達を公道で遊ばせつつ日々親達は自分達の会話に夢中だ。 たまに車が来ると「あっ、危ないから気を付けて!」なる声をかけるものの、公道を我が子の遊び場とする事自体を禁止する親がいない事に辟易とさせられる日々だ。  ここは元教育者でもある私が現地に出向いて、親達こそを説諭したい思いに駆られる。  ただ、そんな事をしたところで“おかしなおばさん”の異名を取るだけの結末となる事など承知の上で、諦めているのだが… 


 私自身の我が子に対する「騒音」教育は厳しかったものだ。

 上記のごとく「騒音」には手厳しい立場の親である。 我が子は元々“静か”な部類の子供なのだが、それでも公共場面に連れていくと幼少時は訳が分からず騒ぐこともあった。 
 ある時、子供もOKのオーケストラ講演会に参加した時だ。 まさか普段静かな我が子が公演中に声を上げないであろうと予想していたのに、娘にとっては慣れない場で言葉を発してしまった。 それに咄嗟に反応した前席の女性から「シーー!」と叱責された我が親子は、すぐさま退席しロビーに戻った。
 それに驚いた我が娘に私は今一度、「声を出してはいけない場面がある」事を出来るだけ優しく丁寧に説明したものだ。
 コンサート会場での子供の騒音などは稀な事例であろう。 だが、もしも親の立場で我が子に対して幼い時期より「騒音教育」が可能ならば事は簡単であろうし、世の中がもっと静かに機能するのではないかとの期待もある。


 朝日新聞「声」欄投稿者氏の投稿内容に於けるもう一つの誤り箇所を指摘しておこう。
  
 それは「世には少子化問題もあれば、高齢者の老後を若き世代に支えてもらわねばならない事情もある」との記述だ。
 これに関して原左都子は以前より反発心を抱き続けている。

 そうではなく、現在までの国政が正常に機能していさえすれば、社会保障問題など世代を超越して「正の循環」を繰り返しているはずなのだ。
 それを叶えられずに世代を超えて国民皆に負担をかけ続けている国政の責任こそを問うべきだ! 

良好な人間関係を築く基本とは「知恵」と「マナー」

2014年07月14日 | 人間関係
 朝日新聞よりの引用が続くが、7月12日別刷「be」“悩みのるつぼ”の回答者であられる三輪明宏氏のご回答内容に100%賛同申し上げるため、今回のエッセイ表題は三輪氏の回答より引用させて頂いた。

 それでは早速、40代女性よりの 「年上の人とうまくいきません」 なる相談内容を以下に要約して紹介しよう。

 三輪明宏氏が大好きだ。 言葉が上品で優しくて素敵だ。 どうか三輪さん教えて下さい。
 私の悩みは職場と近所との人間関係である。 私は人と接するのが苦手だが、特にいつも失敗するのが年上の女性との関係である。  パートの仕事上でも、どうも上司である女性に対して尊敬出来ないと判断すると自分の心を閉ざしてしまうようだ。 他の従業員は上手く上司のハートをつかんでいるにもかかわらず、私には不可能だったためその仕事は辞めた。
 近所の60ぐらいの人にも旅行帰り手土産を持っていかなかった事で、私は仲間外れにされている。
 頭の片隅には、「出来れば(人間関係を)上手くやりたい」との思いは常にあるが、相手に魅力を感じないと億劫になってしまう。 どうすればよいか?
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より、要約して引用。)

 一旦、原左都子の私論に入ろう。

 何と申しましょうか。 この相談を読んで私の脳裏に真っ先に過ったのは、相談者ご本人の“歪み切った”心理状態でしかない。
 この相談者が如何なる人生を歩み、如何なる社会的業績を上げて来られかに関しては全く不明であるものの、どうやら現時点ではパート勤務を失業し、近隣関係も上手く機能していない状況であるようだ。
 それはそうとして、相談女性が何処の地域にお住いなのかがこの相談に於いて大いなるネックとなりそうにも考察する。 例えば地方過疎地にお住まいの場合、今尚その地域では特に高齢者間の人間関係が濃厚に機能している事であろう。 その中で疎外感を感じているとするならば、事は重大であるのかもしれない。


 ここで、原左都子の私事を語らせて頂こう。

 私の場合、この相談者とは対極の人格を築きつつ生きているようだ。
 年上女性に対して私は「甘え上手」と表現するべきか、とにかく年上の女性達から大事に思って頂いて、末永くお付き合いが続行する経験を幾度も積んできている。

 私自身の人生に於ける「腹心の友」(“尊敬するべき先輩”と表現するべきだが)に関して語るならば、2名の年上女性が挙げられるかもしれない。

 その一人は、新卒で上京し就職した民間企業の直属の女性上司氏である。 この方からは出会って30数年経過した後に至って「原左都子エッセイ集」へコメントを頂いているし、現在尚毎年年賀状にてのお付き合いを続行中だ。
 そしてもう一人の「腹心の友」にも職場にて知り合った。 お互いに(適齢期を過ぎた)独身同志との立場が一番の理由で意気投合し、職場帰りには必ず彼女の自宅や居酒屋等で夕食を共にした。 ところが実に無念ながら、その彼女が60代にしてくも膜下出血にて突然死したとの連絡を受けた時には、我が今後の人生の一分野における生き様を喪失した感覚に囚われる程の衝撃を感じたものだ…

 今となっては我が人世に於ける「腹心の友」を亡くし寂しい現状の私だ。
 それでも現在尚年上の女性対応は得意分野であり、都心にしてご近所の高齢女性達とのお付き合いが上手く機能している。


 それでは、今回の“悩みのるつぼ”回答者であられる 三輪明宏氏の回答を以下に要約して紹介しよう。
 
 その前に少しだけ我が見解を述べる。
 今回の相談のように、相談者より「回答者氏のファンです!」「〇〇氏にこそ、我が相談に応えて欲しい。」なる要望がある場合、相談者に“迎合”するかのような回答が回答者氏より展開する事を、私は幾度か経験し辟易としていた。
 ところが三輪氏よりの回答は全く違った。 あくまでも相談者の落ち度を厳しく指摘する内容だった事に、心より賛同するのだ。 

 以下に、三輪氏よりの「ほほ笑みの練習をしましょう」と題する相談解答を要約しよう。
 相談者の貴方自身が如何なる人物かどうか、掛け値なしに採点してみて下さい。 この世は天国ではなく、全人格的に優れた菩薩様がいるわけではない。 職場の同僚が上司に気に入られたとかの次元の低い事でうろたえたり、一喜一憂したりすることが馬鹿馬鹿しくなるはずだ。 
 この相談者に限らず、生活上の知恵やマナーについての教育を、日本人全体が受けねばならない状態に追い込まれている。 世界各国で、後ろ姿を見ても微笑んでいる感じがする人を嫌いな人はいない。 微笑んでいる人を放っておきませんよ、誰も。
 (以上、三輪明宏氏よりの“悩みのるつぼ”相談内容の一部を要約して引用。) 


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 この相談者の“勘違いぶり”が甚だしい事に関しては、国内如何なる地方に住んでいるにもかかわらずバッシング対象となろう。 年上の相手が尊敬できないと判断すると自分の心を閉ざす? 一体どのような人生経験に基づき、人物評価を下しているのか?
 その回答とは三輪氏が上記回答内で指摘された通りだ。

 現在の我が国に於いて、国家政策ないし教育行政の歪み現象故か? 三輪氏がおっしゃる通りの人民生活上の「知恵」や「マナー」が欠如した事態を私自身も憂えている。 
 人間関係の希薄化現象が世界規模でもたらした社会全体の退化故に、人が“微笑まなく”なっている現象を、日本のみではなく諸外国でも経験させられる次第だ。

 この現象に追い打ちをかけるような“人から微笑みを奪う”がごとくの安倍政権の「集団的自衛権」閣議決定。
 
 それにも関わらず昨日滋賀県知事選に於いて自民政権が敗北した事実を、今後の国民の“微笑み返し”のきっかけの一つと捉えたいものだ。

朝日新聞 パズル「推理」 2014.7.12編

2014年07月13日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞昨日の別刷「be」に掲載されたパズル「推理」に原左都子が解答したもの。 解答後紙面を一旦捨て去ったものの、今回の課題が“レベル5”だったのを勘案し、ゴミ箱から取り出し掲載したため、皺くちゃであることをお詫び申し上げます。


 実は私は、朝日新聞が毎週土曜日別刷「be」に掲載しているパズルの中で、今回表題に掲げた「推理」パズルも愛好している。

 「絵むすび」に関してはバックナンバーにてその解答を再三公開してきているが、「推理」解答を公開するのは今回が初めてである。


 私にとって“二の次”に位置付けている「推理」解答を公開するに至った理由とは、今回の課題が何と!「レベル5」との最高位だった事実に触発されたからだ。
 朝日新聞パズル「推理」に於いて「レベル5」課題が出題されたのは、私の記憶によると今回が初めての事だったのではあるまいか。  せっかく朝日新聞が「レベル5」の「推理」課題を読者に課してくれたことに、一朝日新聞読者の原左都子が応えない訳もない。


 そんな思いで解答した結果が、冒頭の写真である。

 これがどうした事か、何と簡単ではないか!
 実は普段、「推理」の文章問題にはたとえ「レベル3」であれ手こずる事もあった私だ。
 ところが今回の「レベル5」は算数分野からの出題だった故に私にとって解答が簡単だったのかもしれない。
 設問を読解しつつ、足し算・引き算、数の大小比較を繰り返すと直ぐに解答可能な出題だった。
 おそらく算数や数学が得意な小中学生にも、簡単に解答可能な設問だった事であろう。


 文末に、原左都子の私論を述べよう。

 上記朝日新聞「be」パズル課題を毎週こなすだけでも、下手な塾になど通って貴重な時間を無駄に費やすよりずっと脳の活性化が叶うのではないかと、子供さんを持つご家庭に指南申し上げたい思いだ。

 ただその際には親も一緒にパズルを解いて成長発達途上の我が子に付きあい、時間を共有する事こそが肝心要である事には間違いないであろう。