原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

女ひとり身でこの世を渡り切るには

2015年12月06日 | 自己実現
 「原左都子エッセイ集」4年程前のバックナンバーに 「孤独を貫いても守りたい事がある。」 と題するエッセイを公開している。

 どこのどなたがお読み下さったのか承知していないのだが、当該バックナンバーがここ2,3日我がエッセイ集の “Populer Entries トップ10”内にランクインしている。
 
 この類の題名エッセイを綴った記憶はあれども、一体如何なる内容だったのか自分でも思い出せないため、筆者である私自身が今一度何度か読み返してみた。

 4年程前と言えば、ちょうど我が娘が大学公募制推薦合格をゲットした時期だ。 
 娘幼少の頃より娘のサリバン先生を一身に担当して来た母親の私としては、18年来に渡るその激務から一旦解放され、子育て段階の“大きな一山を超えた”との安堵的心境だったのだろう。 
 今想像するに、娘と共に二人三脚で歩んで来たサリバン指導の歴史に一段落ついた私の脳裏に、本来の自分を取り戻せる感覚が一瞬過ったのではないかと想像する。


 ここで、2011.11.28 公開の「孤独を貫いても守りたい事がある。」と題する我がエッセイの一部を、今一度以下に要約して紹介させていただこう。

 私自身は 「孤独」 という言葉とはさほど縁の無い人生を送っているのかもしれない。  長い独身一人暮らし時代を歩んで来た私だが、何分その頃は超多忙な日々を送っていたため「孤独」と向き合う時間すら取れなかった故であろう。  それでもそんな私なりに、これぞ「孤独」と表現するべきか? との心理状態に苛まれた経験はある。
 独身時代に年に一度程郷里に帰省していた私だが、おそらく30歳を迎えようとしていた頃のある時、郷里から大都会の我が一人住まいの住居地に戻る航空機の中で“孤独感”らしきものに苛まれたのだ。  田舎で数日間のんびり過ごした事が、我が心理状態を一時かき乱したものと分析する。
 当時さしあたって結婚願望がなかった私は、このまま大都会の喧騒の中で今後も一人身で生きていかねばならない現実だった。 周辺には近しい恋人や複数の友人や職場の同僚等々、日常的にかかわる相手がいるにはいたのだが、日々流れ行く浮世の中で人間関係とははかなく移り変わるのがこの世の常という事も承知していた。 いつか私の周辺に、私と係わりを持つ人間が一人としていなくなる日が訪れても何ら不思議ではない。 その時、私はその孤独に耐えられるのだろうか???
 郷里よりの飛行機の中で突然襲われたこの “来たるべく孤独想定恐怖感” は、私にとっては結構切実だったものだ。
 ところが当時はやはりまだまだ若気の至りだった事に救われた。 帰省した翌日から、またもや我が身には多忙な日々が押し寄せてくる。 “孤独想定恐怖感”など何処かに吹っ飛んでしまったようで、その後の我が心理状態の記憶はない。   (中略)
 そんな私も自分が好まない集団会合に出席すると、その場で孤独感に苛まれる事を幾度も経験している。 おそらく、そもそも集団を好む人種とは元々個々人が築き上げる深い人間関係における心の営みなど二の次なのであろう。 傍観者としてのメンバーを集め、自己存在をアピールしたいのみではないのかと私は結論付けている。  それ故に、原左都子にとっては“集団”とは「孤独感」が苛まれる虚しい場でしかないのだ。  結局私が集団嫌いである根本原理とは、対等であるべき人間が多く集まった場で、周囲に配慮するでもなく自己アピールだけをしたい人物の背後で、鬱陶しい思いばかりが募ってしまい何の収穫もない故である。
 「孤独」がテーマだったのに、話が“集団嫌い”の原左都子の持論に偏向してしまい恐縮だが…。  
 まだまだ今後の人生が末永く続く私であるが、表題に記した通り私には 「孤独を貫いても守りたい事がある。」 ことは確かな事実だ。
 とにかく安易に他者には迎合したくない私である。  今後年齢を重ねるにつれ、私のような“強情張り”の人間はこの世に生き辛いであろうことも想像がついている。
 “孤高”とまで言える境地には決して到達しないであろうが、今のところはとりあえず自分自身の信念を貫きながら一種の 「孤独」 を肯定しつつ、我が人生を歩み続けたいと欲している。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より要約引用。)


 ここで話題を変えよう。

 朝日新聞2015.11.28 別刷“悩みのるつぼ”は、43歳女性による 「女ひとり生きるには何が必要か?」だった。
 以下に、相談内容を要約して紹介しよう。
 43歳独身女性だが、一度たりとて恋人がいた事が無い。 その状態が当たり前になり、特に寂しくもなく、楽しんで生きている。 そんな私にも悩みはある。 この分だと、この先もずっと女ひとりで生きてゆかなくてはならないのに、さらに、いろいろな問題が重なってくる。 母は既に亡くなっているが、父の介護問題が出てくるであろう。 それを抱えつつ、女がひとりで暮らしていくために絶対必要なもの、大切なものとは何なのだろう。 今の年齢から将来のために備えた方がいいものは何かあるか?

 上記、43歳女性の相談に対して、社会学者の上野千鶴子氏が的確な回答をしておられる。 その内容に関しては新聞紙上でお読み下さるとよいであろう。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 申し訳ないが、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談者であられる43歳女性の相談内容を読んだ私の感想とは、「あまりにも寂しい…」  そうとしか表現しようがない…
 
 まず、相談女性が何故に今までの人生に於いて一人として「恋人」がいなかったのかに関してだが…。
 それを何らかの理由(例えば同性愛嗜好等)で女性が主体的に貫いておられたならば、私としては何らの指摘が出来る訳もないのだが…
 次なる、「親の介護」に関して。  これぞ、ご本人自らが現在の実生活の中で日々“幸せ感”や“達成感”を紡げてこそ、自分にとってはどうしても“二の次”とならざるを得ない親の介護にも心豊かにかかわって行けるというものだ。
 相談女性については申し訳ないが、私としては上記両者共に不安感を抱かざるを得ないのだ…。
 当該女性が43歳にして自分の将来を主体的に見つめ直せる能力を内在していて、かつ自己再生可能な人物ならばよいのだが…  相談内容から想像するに、それら能力に欠けているのではないかと多少心配する。 特に女ひとり身で生きて行くために必要なものや大切なものなど、自ら主体的に見出すべきだろう。
 

 そういう私は昨日娘の大学へ出向き、「卒業論文発表会」を傍聴してきた。

 発表に関しては、娘が現在までに育成して(サリバンが育成させて)来た能力にしてまずまずの内容だった。 これで娘も来年3月には大学を無事に卒業出来よう。
 血縁関係にある親子と言えども、能力開花には個性も格差もあるのが現実だろう。 娘は娘なりの最大限の努力を4年間成し遂げられた姿を垣間見せてもらえただけでも、十二分の親孝行だ。 

 この先まだまだ我がサリバン力を持続するつもりであるが、少しだけ自分自身の未来に向かって再び「孤独感」を味わえる日も近いのかと、薄々期待したりもするのだ…



 P.S.
 今週半ばまで旅に出ます。   その間「原左都子エッセイ集」バックナンバーをご訪問頂けましたなら嬉しく存じます。 

建設作業員達のプロ技と体力に感動!

2015年12月04日 | 仕事・就職
 (写真は、自宅住居マンション物件の第一回大規模修繕工事が終了し、足場解体に取りかかった建設作業員氏達の作業風景を、高層階に位置する我が家室内より撮影したもの。  参考だが、写真左側付近から直線距離約6km地点に東京西新宿超高層ビル群が展望可能。)


 私の場合、残念ながら親しい間柄の人物に建設業に従事する方々が存在せず、それらの人物との交流がほとんどないまま現在に至っている。

 ほんの少し経験しているのは、私が過去に勤務していた公立高校での話だ。
 マンション物件管理工事現場にてアルバイト職員として働いている男子生徒との雑談の中で、作業現場の話を聞いた事がある。
 男子生徒曰く、「僕は時々マンションビルの排水管高圧洗浄の仕事に行くんだけど、その仕事って凄いんだよ。 自分は補助の立場だけど、高圧洗浄の仕事はとても大変なんだ。 少しその扱いを誤るととんでもない事になる。 それを傍で見つつ先輩達は凄い仕事をしてるなと思いながら、僕も頑張っているよ。」
 目をキラキラ輝かせながらそんな話を私相手にしてくれる男子生徒に直面して、この私がウルウルと感激しない訳もない。
 「へえ~、凄い仕事を頑張っているんだね。 私が住んでるマンションも定期的にその排水管高圧洗浄のお世話になっているけど、作業をしてもらった後の排水の流れが気持ちいい程素晴らしいのにいつも感動しているよ。 ホントに世の中の役に立つ仕事だよね。 ○君は卒業したらその分野のプロを目指すのかな? 応援しているよ!」 などと返答したと記憶している。 


 さて、我が住まいであるマンション物件が現在大規模修繕工事中である事に関しては、当エッセイ集バックナンバーにても公開している。
 そもそも我が家は今回の第一回大規模修繕工事着工に対し、管理組合を通して反対(先送り)の立場を貫いていた。  と言うのも、民間マンションの大規模修繕事業とは建設会社の子会社(あるいは系列会社)の主たる収益目的”との事実が歴然としている故だ。  建設企業側としては、管理会社に毎月チマチマと管理費のみを稼がせていたのではその運営が成り立たたない事など、素人考えでも理解可能だ。 十数年に一度大規模修繕工事を施す事により一挙に多額の収益を上げ、月々の修繕積立金を値上げしない事には継続的経営が成り立たないのだ。
 しかも、現在に於いてはこのマンション大規模修繕事業が、おそらく国家と建設業者との癒着により法制度化され、何年間に1度の割合で強制実施している事実を私は把握している。 
 それでも、私としては国家と民間企業との癒着体勢にどうしても素直に従う訳には行かない!  当初はあくまでも「管理組合」の決定に反発したのだが、マンション住民の総意である「管理組合」の工事着工の決定にいつまでも反発していたのでは、先々この集合住宅内で暮らしにくくなる事が歴然だ。
 痛恨の念であったが、最終的には管理組合の“工事着工”合意に同意せざるを得なかった。


 そうして、9月から12月までのスケジュールで、我が住居であるマンション物件の大規模修繕工事が開始した。
 未だ残暑が厳しかった9月の工事着工当初は、その工事騒音を聞かされるだけで、工事反対派だった私は居てもたってもいられない程の不快感を感じざるを得なかった。 
 ところが今回の工事に関して「反対派」が居住している事実を周知しているマンション建設会社が、住民に留意するとの粋な計らいをするでないか。  「ご意見をいつでも承ります」なるポストを設け、修繕中の不都合・不具合や不平不満に関して事細かに対応する体制を整えた様子だ。 これに私も幾度となく意見書を投稿した。 建設会社側はそれに忠実に応えたと評価出来よう。 (ただ、費用対効果に対する考察は当然ながらまだ先の課題だ!)


 それはともかく、実際に修繕工事現場で作業している作業員氏達のプロ技の程は物凄いのだ!
 
 例えば、冒頭写真に掲げた「足場解体工事」に関する “原左都子詳細レポート”をここで紹介しよう。

 右側の青年が手作業にて足場を少しづつ解体しながら、左側にいる青年に解体した部品を運び、それをロープで階下に降ろす作業を実施している写真だ。 元々、足場とはマンション物件に固定されている。 ところが解体作業に際してはその固定部分が最初に取り外される運命にある。 そうした場合、特に上階の足場は風がなくとも作業員の重みでゆらゆら揺れるのは必然だ。 しかも解体作業に於いてまず両側の手摺から取り外されていく。 そうなると右側の青年は、結果として幅30㎝程の揺れる床面にて重そうな“床面”を取り外すなる、とてつもなく危険な作業に挑むしかない運命に晒されるのだ!

 更に驚かされるのは、解体する順番を一つでも間違えたものなら取り返しがつかなくなるとの切羽詰まった状況にもかかわらず…
 私の目に映る作業員氏達とは、過去に於いて高校教員をしていた時期に出会った高校生達とさほど年齢が変わらないようなあどけない外見風貌でもある。 にもかかわらず、青年達の仕事ぶりとはまさに“プロ技”なのだ。
 一つの手順も間違えず、体力勝負で、しかも短時間内に危険度が高い解体作業をスピーディにやり遂げた作業員氏達に大きな拍手を贈りたい。 
 

 まさに、この種の究極“プロ技”を間近で目の当たりにすると、自分自身の“無力さ”ばかりが浮き彫りになり自己嫌悪に陥ると言うものだ。

 にもかかわらず、世の中には未だ意味不明の“職業ピラミッド階級”が存在するのが現実であろう。

 職業ピラミッド頂点に君臨し、自分こそが世を牛耳っていると自覚している恥知らず人種どもも、たまにはピラミット底辺(?)にいる職業人達の働きの素晴らしさを見学してみるとよい。

 必ずやその高度プロ技に感動し、自分の能力の無さを恥じ反省させられる事であろう。

近年の「流行語大賞」のお粗末さに辟易とする…

2015年12月02日 | 時事論評
 毎年この年末の時期になると、メディアにて発表されるのが「今年の流行語大賞」とやらだ。

 昨日(12月1日)これに関する報道をNHK夜7時のニュースにて見聞したのだが、どうしたことか、聞かされる方が恥ずかしいがごとく俗人も好まないような、ろくでもない言葉や表現ばかりが羅列されているではないか…。


 「流行語」と称するからには、私としてはその年に発生した事件・世論や世俗・世相を“その一言で的確に反映した言葉”を選出して欲しいものだ。
 にもかかわらず、ここのところそれらとは一切無関係の、くだらないお笑いタレントの醜態を取り上げたものがランクインしている事実に、ウンザリとさせられてばかりいる。

 もしも私が流行語大賞選出審査員であったならば、今年の大賞としては 是非とも「安保法案強行採決絶対反対!」をまず最初に選出したかったものだ。
 安倍政権による当該法案強行採決に際し、9月には東京・永田町の国会議事堂前でそれに対し抗議の声を上げる人たちが集結した。 「いますぐ廃案!」、「絶対反対!」のプラカードを掲げた約1万5千人が参加した。 残念ながらアンチ自民党政権派としては望まぬ結果となってしまったが、この反対運動こそ我が今年の世論の盛り上がりの確固たる1位!として推薦したかったのだが…

 あるいは沖縄県知事 翁長氏が今年1年間に渡り国政に対決して訴え続けた 「イデオロギーよりアイデンティティー」(この言葉自体は昨年翁長氏が選挙戦にて発表したものだが)も推奨したかったものだ。 自らの身の危険も顧みず、翁長知事が沖縄県民のアイデンティティを取り戻そうと、「辺野古移転阻止」に向け国政相手に果敢に闘い続けたその勇気ある姿勢に拍手を贈りたい。


 昨日発表された、「流行語」の中で、私も同意できる言葉が二つあった。

 その一つは 「五郎丸」 である。
 何せ、今年開催されたラグビーワールドカップでの 五郎丸歩選手 の活躍の程は、ラグビーをほとんど知らない私の目にも確かに素晴らしかった。 
 しかも五郎丸選手の場合、外見もいけてる!  強い男が外見的魅力も兼ね備えているとなると、女として惚れない訳もない。 
 ただ原左都子が一点思うに、もしも五郎丸氏の苗字が「鈴木さん」や「佐藤さん」だった場合、これ程までに国民の間で人気を博しただろうか?? とふと思ったりもするのだ。  稀にみるご本人のラグビー能力と偶然にしての“印象的な苗字”が絶妙にマッチして、国民の人気をさらったものと解釈している。

 あるいは、マイナスイメージから 「エンブレム」。
 今年は2020東京五輪準備段階にして、2020東京五輪組織委員会は大きな墓穴を二つも掘ってしまった。  その一つが競技場建設に於ける幾度にも渡る費用の見直しであり、そして五輪エンブレムデザインに関する不祥事である。
 これらに関しては、東京を住居地としここに今後も住み続けようと志している我が身にとって、他人事でないけしからぬ失態と今でも捉えている。
 特に「新国立競技場」建設に関してこの度政権と都知事の間でその経費負担の合意を見た様子との報道だが、一体全体、舛添知事は十分な議論を展開出来た上で国との合意に至ったのか?との疑問を今尚抱いている。 


 ところで、この「流行語大賞」とは、1984年に創始されメディアを通して発表されるようになったらしい。
 以下にそれに関する情報をウィキペディアより引用しよう。

 候補となる言葉は『現代用語の基礎知識』(自由国民社・刊)の読者アンケートによってノミネートされ、その中から新語・流行語大賞選考委員会(選考委員7名)によってトップテンと年間大賞が選定される。
 創始当初は、新語部門と流行語部門に分かれて、それぞれ金賞を筆頭として各賞が選ばれていたが、8回目の1991年(平成3年)からは年間大賞が設けられ、11回目の1994年(平成6年)からは両部門を合わせて選定されるようになった。 2003年(平成15年)には株式会社ユーキャンと提携し、翌2004年(平成16年)より現代用語の基礎知識選『ユーキャン新語・流行語大賞』に改称された。 日本漢字能力検定協会の『今年の漢字』、第一生命の『サラリーマン川柳』、住友生命の『創作四字熟語』、東洋大学の『現代学生百人一首』と並んで、現代の世相を反映する一つの指標として取り上げられている。
 選考委員に関してだが、(おそらく現在の選考委員は) 姜尚中(作家・聖学院大学学長)、俵万智(歌人)、鳥越俊太郎(ジャーナリスト)、室井滋(女優・エッセイスト)、やくみつる(漫画家)、箭内道彦(クリエイティブ・ディレクター)、清水均(『現代用語の基礎知識』編集長)の7名からなる選考委員会によって選出されが、選考委員が左翼系文化人に偏っているとの批判がある。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用。)


 最後に、私論でまとめよう。

 何もこの私が、世間が欲する娯楽の一端でメディアが報道している「流行語大賞」に異論を呈する必要もないとの事実など重々認識している。

 まさにこの種のメディア情報とは、「娯楽」範疇以外の何でもないのだろう。

 ただ、過去に於ける「流行語大賞」の中には、世界の動向をも揺るがした言葉が存在するのだ。
 例えば1988年に発表された 「ペレストロイカ」など…

 今後の日本国内の「流行語大賞」の発展を目論んだ場合、初心に戻って世界を意識してもよいのではないかとも考察する。
 安倍政権が勝手な「安保法案」を成立させたとは言えども、何分、日本が現在置かれている世界規模での存在力の程は、80年代と比して低下の一途を辿っていると私は認識かつ懸念している。

 「流行語大賞」という一種の単なる“娯楽”が、もしも若者世代の感覚をくすぐる“働き”を果たす役割を期待しているとしたならば…。
 むしろ、今後は世界に通用するグローバル観点からの引用用語を、80年代のごとく復活させる事を奨励したいものだ。