原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

絵むすび (朝日新聞2016.9.17編)

2016年09月17日 | 自己実現
 (写真は、朝日新聞2016.9.17 別刷「be」パズル “絵むすび” に原左都子が解答したもの。)



 つい先ほど朝日新聞を開いて、今週のパズル課題が “絵むすび” であることを発見した。

 全体構図を見た途端、「出来た!」と叫べる程に解答がひらめいた。


 まずは、「青りんご」 「トイレットペーパー」 「赤とんぼ」 に注目してみよう。

 これらのアイテムは、さほど他アイテムの邪魔をせずして結べる事に気付くはずだ。
 「赤とんぼ」 に関しては、線を下まで降ろし、少し左折した状態で置いておこう。


 次なる課題は、その内側を結ぶ「黒板」「黒板消し」「樹木」だ。

 これらのアイテム 及び下まで降ろした「赤とんぼ」については、“道の譲り合い” 精神を発揮しよう。

 まさに “絵むすび” とは、“道の譲り合い” 精神に基づけば解答を導け出せると、私は以前公開した “絵むすび” 解説に於いても記述している。



 余談になるが、交通事故を引き起こす人種とは、まさにこの “道の譲り合い” 精神に欠落しているものと私は捉えている。

 例えば、自転車と歩行者との関係。 
 私自身は既に十数年前より交通弱者である「歩行者」の立場を貫き、自転車には一切乗らない主義を通している。 
 そんな歩行者達を蹴散らしつつ、都心の狭き歩道を「邪魔だぞ!どけ!!」と言わんばかりに、後ろからベルをチャリチャリ鳴らしながら、狭い歩道の隙間を全速力で通り過ぎる危険自転車の多き事……



 話題を、“絵むすび” に戻そう。

 もしかしたら、その種(自転車に乗りさえすればノロノロ歩いている歩行者よりも自分こそが上位の身分だぞ! と単純に発想し行動してしまう)人種とは、元より “絵むすび” 解答が苦手なのではあるまいか??

 これは極論あるいは原左都子の勘違いかもしれないが、とにかく “絵むすび” 解答の「壺」 とは、“道の譲り合い” 精神ではないかと以前より考察している。

 全体像を見渡し、幾重にも思考を重ね、「このアイテムはここを通してやれば結べる!」なる多角思考の下にして成り立つ “絵むすび” と心得る私だ。
 その多角思考の基本力は、必ずや現実社会での人との関係にも役立っているであろうと考察する。



 “絵むすび” 同様に「四角四面」の狭き世界に生きる我々も、たまには “絵むすび” 解答にチャレンジして、如何にこの世を他者と譲り合いつつ生き延びるかを再考しては如何だろう。 


 

蓮舫さん、別に「二重国籍」でいいんじゃないの?

2016年09月14日 | 時事論評
 最初に断っておくが、私は決して民進党も蓮舫氏も支持していない。

 むしろ、蓮舫氏の政治家としての資質・ポリシーの程をずっと疑ってかかっている人間だ。

 どうやら“お騒がせ”がお好きな方のようで、今までに「国会内ファッションショー事件」や、事業仕分けに於ける「2番じゃダメなんでしょうか?事件」等々、政治家として本筋から外れたり、素頓狂な発言で単に目立って名を売ろうとする単細胞人種のイメージがある。


 そんな蓮舫氏が、今回野党民進党の党首選に出馬している。
 実は蓮舫氏が出馬した当初、私は以下のように感じた。 (ははあ、小池百合子氏が都知事に当選した事により、同じくキャスター出身の女性国会議員として遅れを取ったと焦っているな。 今回、自分は都知事選立候補を辞退したが、もし私が立候補していたならば小池氏を打ち負かしたかもしれない。 ここは、せめて民進党党首に立候補して自分も名を売らないと。)

 そのように考えていたところ、やはりメディアにも同様内容の報道を見つけた。

 ただ蓮舫さん、原左都子の見解だが今回の女性議員対決勝負は小池百合子氏の“大勝”だよ。
 いやいや、小池氏の都知事選立候補から当選後現在に至るまで、その精力的な動きに目を見張る私だ。
 自民党議員時代は、小池氏がこれ程にキャパシティある人物だとはまったく捉えていなかった。
 とにかく、都知事当選後の公約を果たそうとの動きが凄い。 しかも常に冷静沈着で、都連対応に関しても一歩下がって淑女対応をするスマートさ。 種々の問題が浮き彫りになると直ぐに記者会見を開催し報道を通して対応策を速報するそのスピード感。 しかもご高齢であるにもかかわらずハードスケジュールをもとのもせず、健康を維持され果敢に行動している。(米国のクリントン氏などついに肺炎に倒れてしまったが…) 
 例えば、築地市場が移転を予定する豊洲市場の施設の地盤に土壌汚染対策の盛り土が無かった問題でも、その実態を暴いたのが都知事就任後実に早かった。
 加えて私が小池氏を一番評価するのは、バックに優秀なブレインを複数人抱えその統制力が素晴らしく、動きが早い事だ。 これだけのブレインを抱えられるのは本人に信頼できる素養がある証拠であり、優秀な人材を寄せ付ける力がある政治家だった事実にも恐れ入っている。


 それに対し、蓮舫氏。

 蓮舫氏は党首立候補当初より、党首選の本筋から外れて「国籍」を突かれるに至っている。
 最初から正直に「二重国籍」であることを認めればよかったものを、台湾国籍は17歳時点で捨て去っていると当初発言する始末。
 ところがどっこい、蓋を開けてみれば「二重国籍」の現実。 蓮舫氏本人はあたふたと「現在、台湾国籍は抹消処理中です」と弁明するものの……

 この蓮舫氏の日本の国会議員としての発言、大いなる危険をはらんでいるなあ、と私などむしろひやひやしていたところ、やはり台湾側からバッシングが出ているようだ。

 以下にその情報を要約して紹介しよう。
 民進党の蓮舫代表代行が台湾籍の保有を明らかにしたことを受け、台湾の中央通信社は13日、日本の報道を引用する形で、東京の台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)が「中華民国籍をいまだに保有していることを伝えた」と報じた。  記事は、蓮舫氏を15日の民進党代表選で「最も呼び声が高い」とした上で、「ただ、メディアやネットで『にせ日本人』だと疑われている」と問題の背景を説明。 蓮舫氏が台湾籍の放棄手続きを取っていることも紹介した。
 一方、与党、民主進歩党の管碧玲立法委員(国会議員)は12日、フェイスブックで蓮舫氏が11日の記者会見で「一つの中国」原則に基づき「台湾は国家ではない」と発言したと主張した上で、「冷酷すぎる女だ」と批判した。 管氏は13日午後現在、「誤解の可能性がある」として書き込みを削除しているが、情報は拡散。 野党、中国国民党の寥国棟立法委員が13日の立法院(国会)の本会議で、「政府は抗議すべきだ」と問いただすなど、蓮舫氏の発言への関心の高さを示した。
 蓮舫氏は11日、「一つの中国論で言ったときに、二重国籍とメディアの方が使われるのは私自身びっくりしている」と発言。 日本政府が台湾当局が名乗る「中華民国政府」を承認していないことを元に、メディアの表現に疑問を呈した形で、管氏の批判は誤解に基づくとみられる。  ただ、日本政府は中国政府が主張する「一つの中国」原則は「十分理解し尊重」するとの立場に止めている。

 ここで、原左都子の私論に入ろう。

 蓮舫氏がいとも簡単に「台湾籍を放棄」手続きを取ると発言した事実が、このような論議を産むであろうことを氏は重々想像しておくべきだった。
 現在の中国・台湾関係が微妙なニュアンスを保ちつつ存在している事実を、国会議員の立場で熟考した上で蓮舫氏は自身の国籍に関して考慮するべきだったはずだ。

 ついでに私事・私論を述べるなら、私はつい先だって台湾まで旅に出たばかりだ。
 あんなに近い隣国。  短期間ながらもその隣国の人々より親切を受け、美味しい食事を堪能し、素晴らしい文化遺産に触れ、また台湾を訪れたいと私は本気で思っている。
 そんな素晴らしい国が父の祖国である蓮舫氏の口から、何故その国籍を易々と“放棄する”との言葉が発せられるのか?!
 それが蓮舫氏の民進党党首なる目標ゲットのため、日本に迎合せんとの思いで発せられた言葉だとしたら、貴女自身のアイデンティティとは一体如何なるものなのだろう。


 日本の某女性弁護士氏は、以下のような発言をしているようだ。 ネット情報より要約して紹介しよう。
 某弁護士氏は「国会議員は国益を考える立場。ここで問題になるよりもっと前に問題になるべき」と蓮舫氏が2004年7月に参議院議員に当選後、10年以上も放置されていたことに疑問を呈した。 また、「違法性はないですけど二重国籍は望ましくないです。これが国籍の考え方です。利害の衝突がありますから。一般人もそうですから政治家は特に望ましくないです」と述べた。
 蓮舫氏が内閣府特命担当大臣を務めたこともあげ、「大臣になるときにそこを自ら確認すべきだった。説明が不十分だったと思います」とも指摘した。
 蓮舫氏はこの日、自身の台湾籍が残っていることを確認したと明らかにし、「記憶の不正確さで混乱を招いたことをおわびしたい」と陳謝。「違法性はないと思う」とも語り、党代表選から撤退せず、選挙戦を継続する考えを明らかにした。日本と台湾の「二重国籍」の疑いがあるとの指摘に対し、これまで記者会見などで否定していた。
 (以上、ネット情報より引用。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 国会議員(しかも野党とはいえ党首にならんとしている)人物が「二重国籍」だった事実に我が国は直面させられている。
 それに対する原左都子の私論結論を述べるならば、 「いいんじゃないですか~~。」
 いえいえ、蓮舫氏の政治家としての資質に関して疑義を抱いている事は冒頭で述べている。 故に上記意見は単に“一般論”として述べているのみで、決して蓮舫氏を弁護せんとするものではない事は再度繰り返しておく。

 ただもしも、真に素晴らしい人材が一政党の党首として君臨せんとしているとしよう。 その人物が二重国籍であろうがなかろうが、党首としての実力を備えているのならば、私なら生粋の日本人であることにはこだわらず実力者こそを支持したい。

 上記ネット情報内の弁護士氏は、国会議員とは「国益」を考えるべきと述べられている。 ごもっともの発言であろう。
 ただこれ程国際関係が発展し世がグローバル化している現実下に於いて、島国である日本は未だに「国粋主義」に流れ過ぎていると結論付けられるような気もする。
 現安倍政権などその最たる存在ではあるまいか??

 蓮舫氏に話を戻すと、氏の父の祖国である台湾の国籍をそれ程いとも簡単に放棄可能なものなのか?
 日本の貴方の国会議員支持者に迎合する以前の問題として、自身の血のルーツを今一度問い直すとの行動も現役国会議員の立場として必要ではなかろうかと、老婆心ながら指摘しておきたい。

健診で “問題なし” ならそれでいいんじゃないの?

2016年09月12日 | 医学・医療・介護
 先月旅行した台北にて宿泊ホテルのバスタブ内で転倒し、後頭部と首の付け根辺りをバスタブの縁で強打した事実は、既に当該エッセイ集にて公開している。


 実は帰国後も後頭部の違和感(決して“痛み”ではない)及び“ふらつき感”加えて“視力の低下感”が続き、“どうしたもんじゃろのう~~?” なる不安感を抱く日々だった。
 病院嫌い・検査嫌い・投薬嫌いで名高い医学関係者であるこの原左都子も、ここは自己のポリシーを百歩譲り病院受診して患部のX線撮影のみでも施すべきか? と悩みに悩んでいた。

 そしてついに先週金曜日の朝、「行きたきゃないが、整形外科にてレントゲンの1枚でも撮ってくるか!」と朝方までは考えていた…。

 ところが午後になると、どうしても私の足(心?)はいつも通っているジムへと向く。 こっちの方が病院へ行くよりもずっと楽しいし、達成感があるに決まっている! 
 そして結果として私はジムへ行き、いつもと同じトレーニング走路にて5㎞を走り、マシン筋トレを終えると何とも爽快な汗が流れ、すっかり後頭部の違和感を忘れ去った。

 結局 「マイナス心理状態こそが病気を作る」との我が持論を改めて結論付けた私の元に、次なる課題が届いた。
 それは郷里に一人暮らしの実母の高齢者施設入居決定だ。
 すぐさま、郷里への航空券とホテル予約、そして実母の施設への引越手配等々と多忙な週末を送るうちに、私は後頭部の“違和感”などすっかり忘れ去っている。

 もしかしたら、医学関係者であられる読者の方々よりお叱りを受けるかもしれないが、私は既に「後頭部打撲」に関して医療受診しない方針決定を下した。  何卒、ご容赦下さいますように。


 話題を変えよう。
 
 先だって、ネット上で 「健康診断『問題なし』でも要注意!」 なる情報を発見した。
 随分と長文の記述であるため、そのごく一部のみを以下に要約して紹介しょう。

 40代になると身体に無理がきかなくなり、さまざまな不調を感じる人が多いだろう。 若さでカバーできた20代や30代と同じ生活をしていると、病気にかかるリスクも高くなる。 不摂生を続けると、どんな病気の危険性があるのか。そして、病気にならないために普段の生活をどのように見直すべきか、(医師先生より)アドバイスをいただいた。

 例えば、「脳梗塞」 ~その前兆を見逃すな!~
 脳梗塞とは脳の血管を血の塊である血栓が塞ぎ、脳細胞の一部が死んでしまう病気。 血液が脳に届かなくなり、ある日突然バッタリ倒れることも。
 突然襲ってくるイメージの強い脳梗塞ですが、実は本人が気づかないだけで、前兆がある場合も多い。それを見逃さないよう気をつけることが、脳梗塞のリスクを回避する何よりの方法と言える。
 特に、隠れ脳梗塞は自覚症状がなく、症状が現われてもごく短時間で回復するため、本人も「気のせいだったのか」と放置しがち。 しかし、隠れ脳梗塞ができて数年以内に、約3割の人が脳梗塞を起こしているというデータがある。 本格的な脳梗塞を発症したら、4時間半以内に専門的な治療を受ければ予後が良好になる可能性が高まる。 ただ、そうなる前に先ほどの3つの項目に当てはまる人は一度脳ドック(MRI検査)を受診することを勧める。

 一旦、ここで原左都子の私論に入ろう。
 この文章のみを読むと、何だか私もバスタブで転倒して後頭部を強打した事により“隠れ脳梗塞”を発症したか!?との気にもなる。(いや、それは大嘘であり決してその心配はしていない。) 特に上記ネット情報の場合、単に脳ドック受診を(何らかの組織との癒着で)推進しているとみるのは私の偏見か?

 次に「糖尿病」に関するネット情報を引用するならば…
 40代になると、男女ともに糖尿病になる人が増える。厚生労働省の2012年の「国民健康・栄養調査」によると、糖尿病が強く疑われる人の数は約950万人、可能性を否定できない人は1100人に上る。 40歳以上に限れば、3人に1人は糖尿病もしくはその予備軍だというデータもある。
 糖尿病予備軍とは、「血糖値が正常よりは高いが、糖尿病と診断される値よりは低い状態」の人達。 会社の健診で「問題なし」と言われた人も安心はできない。 一般的な健診では空腹時の血糖値しか測定しないので、食後の血糖値が上がりやすい隠れ糖尿病の人は見逃されているかもしれないからだ。
 糖尿病チェックリスト  1.肉親に糖尿病患者がいる。 2.肥満である。  3.40歳以上である。
 4.運動不足である。 6.お酒をよく飲む。飲むときは、よく食べる。

 (以下大幅に略すが、このネット記事のインタビューに応えた医師先生であられる著者氏のご経歴の一部を以下に紹介しておこう。
 1963年、東京都生まれ。秋田大学医学部卒、東京大学大学院医学系研究科博士課程修了。 東京大学医学部附属病院助手、米国ハーバード大学医学部専任講師、埼玉県立がんセンター医長、板橋中央総合病院部長を経て、現職。 以下略。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 なるほど。
 上記ネット情報の著者氏が私よりも8歳若い世代という事は、現在50代前半の若さでいらっしゃるようだ。  その年代の(特に男性)にとっては、確かに「脳梗塞」「糖尿病」その他等々の疾患に対し、“過敏”にならざるを得ない時期であられる事であろう。

 いやもちろん、医療業に従事している人材が果たすべき役割とは、皆の健康を守り抜く事に尽きよう。
 そのためには、確かに上記医師先生のごとく40代の人々を捕まえて「人間ドック」を煽るとの指南も許されるのかもしれない。

 ただ、既に還暦を過ぎた元医学関係者である私がこれまでの人生に渡り、ずっとわだかまっている事がある。
 医学をさほど心得ない庶民に対し、如何なる医学教育を成すべきかとの「難しい課題」に関してだ。

 身体に異常を感じたならばすぐさま「病院へ行け!」。「健診は毎年必ず受けろ!」。
 これら国民に対する指導に関しても、原左都子としては国家と医療業界との癒着の観点より大いなる異議があるのが山々だが、今回のエッセイではあえてこのテーマは割愛する。

 それよりも何よりも、せめて「健診結果」にて「問題無し(異常なし)」の結果を貰い喜んでいる国民に対し、医学関係者から更なる危機感を煽る報道を慎むべきではあるまいか? 
 過剰とも言える更なる疾患への恐怖心を不必要に国民に煽る行為自体が、国民の心情を疲労させ、更なる疾患を呼び起こしているようにすら、私は常々感じている。

 健診結果問題無しの国民に対しては、今後は 「予防医学観点より身を守りつつ精進するように」 との “一言指導” で必要十分であると、私は考察するのだが……。

親族の 「老い」 とどう向き合うか?

2016年09月10日 | 時事論評
 (写真は、朝日新聞2016.8.27 夕刊コラムより転用したもの。)


 上記写真のセリフ部分が見にくいため、以下に書き出そう。

 病院にて入院中の義父の介護をしているらしき女性曰く、  「……お義父さん、もう長くないんですよね?」
 若き看護師氏応えて曰く、  「え‥…ええ」
 介護女性曰く、  「で」  「いつ死ぬんですか?」
 介護女性更に曰く、  「ほら、いろいろ葬式とかお金がかかったり、しなきゃいけないことあるから‥…」
 看護師氏が内心思うに、  「……」 「私の最期は」「一体どんな最後なんだろう」


 この漫画を見て、世代や立場により、思うことはそれぞれ異なるのだろう。

 現在、義母と実母二人の高齢者の介護(保証人)を担当している立場としての私の正直な感想から述べると……

 むしろ  「いつ死んでくれるのだろうか?」  と、本音で思っているのが事実だ。
 いや、もちろん理性では両者共々の人格を最大限尊重しつつ、常にその心理を読み、要求に的確に応えながら最善の対応をしているつもりだ。
 ただ実際、年寄りの相手など何の楽しい事もない。
 特に義母の場合は作り笑いで場を取り持ちつつも、会う都度(早く帰って自分のやるべき事をやりたいなあ)とイライラしているのが現実だ。  と言いつつ、私の場合まだしも恵まれているかもしれない。 義母の財産管理及び税務申告を担当している関係で、定期的に若干の報酬を義母より貰っている事がせめても心の拠り所だ。 (これに耐えたら、カネになる!)その思いが、我が義母介護を支えているのが正直なところだ。
 実母の場合、血縁のため互いに容赦なく会えば大喧嘩になる。 勝気の実母の口癖は 「私は長生きするぞ!」 だが、これを聞かされる都度イラつく私だ。 (ちょっとアンタ、介護者の立場になってものを言えよ。 「いつまでも貴女に迷惑を掛けないため出来るだけ早く死んであげるね」と言ってくれる方がよほど嬉しいよ!)と、喉元まで出かけるのを何とかこらえる私だ。


 その実母が、ついに施設入居と相成った。

 6月に郷里へ行き、実母の高齢者施設入居促進活動をしてきた私だが、さすがの実母もその私の“働き”に感動した様子だ。 「〇子がせっかく多忙中帰省して私のために施設見学等をしてくれたお陰で、私も施設へ入居する気になった」と言う。
 そして昨日実母より電話があり、「私が一番入居したかった有料介護施設より連絡があって、10月1日より入居出来る事となった。」
 「それは良かったね!」と応え、私は早速実母の施設への引越のため航空便とホテルを手配した。 またもや10月には郷里への小旅行だ。 今年は旅行続きだが、とにかく実母が素直に施設への入居を決断してくれた事実に今は安堵している。

 ただし、何処の高齢者施設も同様のようだが、入居後「家に帰りたい」と言い出す高齢者が多数のため、3ヶ月間は事実上体験入居の形式を採用している様子だ。 そのため、今回はあくまでも“簡易引越”であり、3か月後には実母の意向を確認の上に、またもや郷里へ“本格引越”あるいは“家へ舞い戻り”のために私は小旅行に出ねばならない運命にある。
 まあそうだとしても、今回実母がいとも素直に娘である私からの施設入居の勧めに従ってくれた事だけでも評価出来よう。


 話題を冒頭の写真漫画に戻そう。

 若き世代の看護師氏は、義父の介護をしている女性が「いつ死ぬんですか?」と問いかけた事実に自己の「死」の場面を悲しく思い描いた様子だ。
 そして、この漫画を描いた(未だ26歳との)漫画家氏も、それを「非情」と捉えている様子だ。
 
 未だ「介護」の現実を知らない世代がそのように感じるのは、至って正常な心理状態なのであろう。
 ただ、ここでもう少し思考を発展させて、現在我が国が置かれている高齢化社会の現実を直視して欲しい気もする。
 漫画内でつぶやく義父氏を介護している女性の発言は、私に言わせてもらうと至って「正論」だ。
 介護段階ももちろん壮絶で大変だが、被介護者の死後、疲れ果てた心身状態でその葬儀もつつがなく担当せねばならない運命が介護者に待ち構えているのだ。 それのみならず、相続問題やそれに追随して発生する親族間での相続争い……  それらに耐えねばならない介護者の役割とは被介護者の死後も実に壮絶だ。 
 ところが人間の死とは、悲しい事に突然やって来る。 もしも「いつ死ぬか」がある程度分かれば、それに備えて準備(心の準備も含め)も可能だ。 (例えば我が義理姉は3年前に膵臓癌にて壮絶死を遂げたが、医師の判断により余命がある程度分かっていた。 これぞ遺族にとって葬儀準備等が好都合だったことを思い起こす。)

 若き世代にとっては、「いつ死ぬんですか?」との問いかけを“冷淡・非情”と受け取ることも理解可能でもある。
 ただ、死後残される介護者に課せられる過酷な業務にも少しは思いを馳せて欲しい。 
 誰かが死んでただ泣いて済ませられるのは、その人物に対して何らの責任がない者に限られる事を今一度理解して欲しい。
 壮絶な介護で苦しめられた親族が、その人物の死後直後に葬儀の準備に奔走させられる事実に少しでも思いを馳せてもらえれば、決して “泣いて済ませられない” 現実を理解可能かと期待したい……


 冒頭写真漫画のテーマである、若き世代が「自分の最期が一体どんな最期か?」に関して論評するならば。
 未だ若き世代が高齢者の介護を任される訳はないであろう。 ただ、もしも自身の親族に高齢者を抱えているのならば、それを介護している親族や施設を見学する事も後学となろう。
 私など、娘に時間があれば必ずや義母が入居している介護施設へ同行させている。 加えて、義母や実母の現在の様子を暇があれば娘に伝えている。
 何よりもサリバン母である私が実母介護のために郷里へ旅立ち数日間家を留守にする事が、娘(亭主もか??)にとって、一番こたえているのではないかと推測している。 

自分の趣味を他者より褒められる誉れ

2016年09月08日 | 自己実現
 皆様もそれぞれに様々な趣味をお持ちで、生活の潤滑油として楽しんでおられる事であろう。


 この原左都子にも趣味はある。  ここで思いつくままに列挙するならば……

 ランニングに筋トレ、ダンス、楽器演奏、クラシックバレエ観賞に美術鑑賞。
 それからパズル解答や一人ゲーム。
 ブランドには無関心だがファッションにも趣味がある。(その実現のため自分の体型管理には厳格な私だ。 最近、永久不滅ポイントで「体組織計」を貰って、日々体重は元より体脂肪に内臓脂肪、基礎代謝、筋肉量、体内水分比率、等々を測定している。)
 国内外を問わず、旅行も好きだし。
 学問好きも加齢と共にレベルを大幅に下げつつ続行中だ。

 忘れてならない、エッセイ執筆。
 ただ、これに関しては趣味と言うよりも、私にとってはより位が高い 「ライフワーク」の位置付けである。 今後も綴りたい意欲が内面から湧き出る限り、生涯に渡り続行するつもりだ。


 話が変わるが、昨日行きつけの美容院へ出かけた。

 私は(40歳時に発病した皮膚癌摘出手術痕を頭に抱える身のため)常時ウィッグを使用している。 その関係で、20年程前より大手ウィッグ関連企業が経営している完全予約制の個室美容室を愛用している。
 この度、その美容室で10年程前より私を担当してくれている女性美容師氏が銀座店へ転勤となり、ここのところ銀座の美容室まで足を運んでいる。

 余談だが、東京暮らしが長い私ではあるが、今となっては銀座まで足をのばす機会などほぼ無いに等しい。
 我がお抱え美容師氏が銀座に転勤してくれたお陰で、定期的に銀座へ出向ける事が現在の一つの楽しみともなっている。 いえいえ、何も高額な買い物をする訳ではなく、豪華ディナーを楽しもうとの魂胆も無い。 
 それでも久々に銀座へ出向いてみると、そこは確かに“大人にとって”特別な場だ。  街並みが洗練されていてとにかく美しい。(失礼は承知だが、渋谷・原宿や秋葉原のごとく目障りなギャルもいない。)
 特に美容室周辺がブランド街の中に存在するため、そこを通り抜けて美容室へ通う身にして、お洒落が欠かせないのだ。 美容室へ行く日は、精一杯のコーディネートをして出かけるのもこれまた我が楽しみの一つとなった。 


 さて上記のごとく、私とお抱え美容師氏(A氏としておこう)との関係は既に10年程になる。
 あくまでも私側の感覚だが、A氏は初対面時からツーカー感があった。 何と言うのか、初めて会った気がしないのだ。  時々この種の相手に出逢う機会があるとは言え,年齢を重ねる毎にツーカー人物に遭遇出来る機会が激減する感覚もある。
 A氏とは、いつ何度会っても互いの印象が変わらないし、さっきまで一緒にいたがごとく会話が始められるのが嬉しい。

 昨日の美容室内でのA氏との会話に戻ろう。

 何かの話題で盛り上がっていた流れで、私が年に2度 “市民ロードレース” に出場し始めてから今年で5年になると言ったところ!
 A氏が10年来今までない程に驚くではないか! 「えーー。〇さん、そんなレースに出ていたのですか!!」
 こっちこそが驚き、「いえいえ、そんな大袈裟な事ではなく、たかが市民ランニング大会ですよ。 しかも私の場合、5㎞レースに出場しているだけの話です。」
 ただ私としては過去にも経験がある。 走る趣味が全くない人にとっては「5㎞走れる」という事実が、とてつもなくアンビリーバブルの様子だ。
 A氏も言う。 「私など、今となっては100mすら走れないですよ…… 昔、陸上なさっていたのでしょ?」
 私応えて曰く、「めっそうもない。 子どもの頃より運動音痴この上ない私が、“50の手習い”でランニングに目覚め、少しづつ距離とタイムを伸ばしていって現在に至っているだけの話ですよ。 ただ、せっかく50過ぎて始めた趣味だから今後も続けたいし、大会のタイム基準内で完走可能な限り何歳になってもロードレースに出場したく思っています。」

 当該A氏とは既に10年の関係であり、他の話題も盛沢山に出るのだが、これほど本気でA氏が私の“趣味”ごときに感激してくれたのは初めての事だった。

 もちろんA氏とて顧客対応観点で会話を進めている事など、私側は百も承知の上だ。 
 いつもは、滅多には巡り合えないツーカー関係のA氏との関係をずっと続行したいと志している私の方こそが、若き世代のA氏の聞き役を務めていると言って過言でない。 例えば、A氏の未だ小さき息子氏の教育相談に乗ったりもする。 いつも素直に息子氏の現状を語ってくれるA氏を、これまた肯定的に捉えて対応している私でもある。


 最後に、人の「趣味」に関する私論でまとめよう。

 冒頭に記した通り、皆様それぞれに多彩(多才?)なご趣味をお持ちのことと推測する。

 一言で「趣味」と言えども、まさに多様性を帯びていることであろう。
 なるべく人様に褒められる趣味を持ちたいものだが、多くの場合は “自己満足の範疇” に留まっているのが通例であろう。

 その趣味が、もしも世間より “数多くの感嘆の念” を抱かれるハイレベル次元にまで達した場合、自身の正業として成り立つ等、更なる発展を遂げるのかもしれない。

 そうではなく、多くの趣味がまさに “単なる趣味” の範疇であるのならば、それをちょっとだけ褒められ一時満足出来る事こそが、“単なる趣味” が自分の趣味として成り立つ原動力と理解した我が昨日の出来事だった。