原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

寿司店での晩餐 1

2017年05月14日 | 旅行・グルメ
 (写真は、昨夕訪れた行きつけの寿司店内にて催されていた “まぐろ解体ショー”。)

 
 母の日の前祝いと言う訳ではまったくないのだが、昨夕我が亭主と行きつけの寿司店を訪れた。


 昨日午後、義母が入居している高齢者有料介護施設にて年に2度定例の「運営懇談会」が実施された。
 この懇談会では、施設の年度決算報告やサービス提供状況の報告、施設内事故報告とその対策取組み、入居者・保証人からの意見・苦情の報告及びその対策取組み、新たな運営管理規定導入や改訂に関する報告等々が施設ホーム長より発表され、出席者間で論議される段取りとなっている。

 我々夫婦も義母の保証人を担当した当初は比較的真面目に出席していたのだが、ここ2,3年は施設内で有事の出来事が発生した時のみ出席する事としていた。

 ところが、先だって義母の病院付添いをした際に、義母より「懇談会にはどうしても出席して欲しい! 施設の友だちのご家族が必ず来ているのよ。 私の家族が来ていないと恥ずかしいから必ず夫婦2人で来て!」との切なる嘆願があったのだ。
 まるで子供が「学校の学級懇談会に来て!」と親に願い出る風景と同様だ。
 亭主と話し合った結果、義母の嘆願に沿って昨日大雨の中義母介護施設の定例懇談会に出席する事とした。

 出席したらしたなりに、フィードバックはあるものだ。
 義母入居施設は現在大手損保社の傘下にあるのだが、すべての懇談会事案に関して、ほぼ滞りなく業務が実施されている事実を網羅する事が叶い、保証人としても安堵させていただけた。
 (参考だが、我が実母が入居中の郷里の高齢者介護サービス住宅に関しては私的機関運営にもかかわらず、この種の運営懇談会は一切開催される制度すら無い。 それと比較しても、義母・実母入居施設間の費用格差の程に納得可能な思いも抱く。)


 さてさて、義母の嘆願を滞りなく果たした我々は、帰り道に行きつけの寿司店に立ち寄る事とした。

 ちょうどタイムリーに催されていたのが、上記写真の「まぐろの解体ショー」だった。

 これを写真に収めた後、さほどショーを拝見しない間に我々は席に案内された。

ビッグデータに潰される人間の思想

2017年05月12日 | 学問・研究
 一昨日(5月10日)朝日新聞夕刊文化面 「文芸・批評」ページに、大変興味深いコラムを見つけた。


 早速、作家 池澤夏樹氏による「ビッグデータとAI 思想は力を失うのか」を要約して以下に紹介しよう。

 プロダクションに勤める友人が嘆く。 どんな企画も皆ビッグデータに潰される、と。 「それは売れない」とビッグデータが言っている、で終わり。 人々の心の奥で出番を待つ思いへの回路をビッグデータが断ち切る。
 これはほんの入口に過ぎない。 思想はやがて社会の動向を左右する力を失うのではないか、とぼくは悲観的なことを考えている。 以下は、未来への外挿、一つのSFの案と思っていただきたい。

 無力を導くのは情報革命だ。
 昔々、ホモ・サピエンスは抽象思考の能力を得て精神革命を起こし、他のホモ属に差を付けた。 農業革命によって生産能力を飛躍的に高め、科学技術革新によって今見るような社会を築いた。
 その先で待っていたのが、情報革命。
 コンピュータの発明が、その後インターネットと組み合わされ、更に近年に至って通信コスト、記憶装置のコストが何桁も低くなった。 結果として、社会基本構造が根底から変わりつつある。
 社会は人間同士の関係から成る。 はじめは対面による個体識別、言語を得てからは噂が加わり(第三者の誕生)、官僚機構による統治が広まり、それに抗する個人の思想が書物を通じて社会全体を動かすようになった。
 つまり、これまでは交友、言語、制度、思想などが人間と人間を繋いできた。
 資本主義社会になってから金銭の媒介が加わり、今では人間はまずもって消費者だ。 個人の消費行動は、おにぎり1個の買い物からすべてネットを通じてビッグデータ主体に報告される。 思想信条、その時々の思いはSNSから抽出される。
 ビッグデータ主体にとって、一個人の思想などどうでもいい。 そんなものは怖くない。
 個人のふるまいすべてがネットを通じて集積され、集計され、解析され、保存される。 これがビッグデータだ。 そして、最も大事な解析を担うのは人口知能(AI)だ。  知能という言葉に何か人間的なものを期待してはいけない。 
 ビッグデータには社会の現況がそのまま入っている。 これが広告に応用される。 つまりビッグデータ主体はこれに基づいて社会の舵を取る事ができる。

 ビッグデータは世論調査と違って全数が対象だから誤差は皆無。 それに沿って広告戦略を組み立てる。 結果に於いて得票数が半分を超えればよいのだ。 人々の欲望を読み解き、共感と反発が拮抗するぎりぎりのポイントを狙い政策を設計する。
 広告業者は売れと言われた商品の価値を問わない。 それはこの業界の職責でもなければ、その倫理もない。 例えば欠陥車であるか否かは契約外だ。
 その瞬間瞬間の国民の感情がことを決める。 しかしその感情はビッグデータ主体の操作の対象だ。 これは究極の平等社会だろうか。
 ビッグデータ主体の正体とは何だろう? 今や国家のはるか上空にある超企業??
 わからないのだ。 ビッグデータ主体自身にも自分の正体は分かっていない。 生まれたばかりの怪物だから。
 思想はファッションでしかない。 コンピュータとネットワークに騎乗したホモ・サピエンスは何か別のモノに変身しつつ逸走している。 手の中に手綱はない。 ただしがみつくばかり。

 (以上、長くなったが 朝日新聞コラム 池澤夏樹氏の記述より要約引用したもの。)


 次に「ビッグデータ」とは何かに関して、ネット情報を参照してみよう。

 ビッグデータとは何か。
 これについては、ビッグデータを「事業に役立つ知見を導出するためのデータ」とし、ビッグデータビジネスについて、「ビッグデータを用いて社会・経済の問題解決や、業務の付加価値向上を行う、あるいは支援する事業」と目的的に定義している例がある。 ビッグデータは、どの程度のデータ規模かという量的側面だけでなく、どのようなデータから構成されるか、あるいはそのデータがどのように利用されるかという質的側面において、従来のシステムとは違いがあると考えられる。
 データを利用する者の観点からビッグデータを捉える場合には、「事業に役立つ有用な知見」とは、「個別に、即時に、多面的な検討を踏まえた付加価値提供を行いたいというユーザー企業等のニーズを満たす知見」ということができ、それを導出する観点から求められる特徴としては、「高解像(事象を構成する個々の要素に分解し、把握・対応することを可能とするデータ)」、「高頻度(リアルタイムデータ等、取得・生成頻度の時間的な解像度が高いデータ)」、「多様性(各種センサーからのデータ等、非構造なものも含む多種多様なデータ)」の3点を挙げることができる。これらの特徴を満たすために、結果的に「多量」のデータが必要となる。
 他方、このようなデータ利用者を支援するサービスの提供者の観点からは、以上の「多量性」に加えて、同サービスが対応可能なデータの特徴として、「多源性(複数のデータソースにも対応可能)」、「高速度(ストリーミング処理が低いレイテンシーで対応可能)」、「多種別(構造化データに加え、非構造化データにも対応可能)」が求められることとなる。
 このように、ビッグデータの特徴としては、データの利用者やそれを支援する者それぞれにおける観点から異なっているが、共通する特徴としては、多量性、多種性、リアルタイム性等が挙げられる。ICTの進展により、このような特徴を伴った形でデータが生成・収集・蓄積等されることが可能・容易になってきており、異変の察知や近未来の予測等を通じ、利用者個々のニーズに即したサービスの提供、業務運営の効率化や新産業の創出等が可能となる点に、ビッグデータの活用の意義があるものと考えられる。
 (以上、総務省が公開している「ビッグデータ」に関するネット情報より一部を引用したもの。)


 原左都子が分かり易く(?)「ビッグデータ」に関して解説してみよう。

 例えば、コンビニ店舗がどんなおにぎりを販売したらより多くの利益を上げられるかを検討する場合に、このビッグデータを利用するとする。 
 その情報源とはコンビニ店舗が顧客に入会を煽っているポイントカード等より得る。 
 皆さんも様々なポイントカード入会を勧められた経験がある事だろう。 その際、無料でポイントカードを発行するに際し、必ずやスマホやパソコンから個人情報を入力することが義務付けられ、それを実行せずしてポイントが貯まらないシステムとなってる。 それに素直に従って入力したデータこそが、ビッグデータ蓄積の大本となる。 (要するに、無料の代償とは個人情報の提供にあるのだ。)
 ポイントが貯まったと糠喜びしていると、その背後では、何処に住む何歳の誰が氏かが何月何日に何処かのコンビニで何と言う種類のおにぎりを購入した。 なる個人情報データがそのままビッグデータの一つとして登録蓄積される事となる。 そんなデータが巨大化した結果としてのビッグデータの恩恵で、何処のコンビニには如何なる顧客層が多いか少ないか、どんな顧客がどんなおにぎりを購入しているか、等々の情報がフィードバックされ店別の売上利益が増すとの仕組みだ。

 この事例の場合その総数が巨大である故に、自分の個人情報が危機に瀕する事はおそらくなかろう。


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 ビッグデータの恐怖とは、まさに池澤夏樹氏が記されている通り、近年の情報革命のとめど無き発展により人類の思想が社会の動向を左右する力を失わせる事態となる事にあろう。

 池澤氏の論評通り、人間社会の発展とは人間個々の交友、言語、制度、思想関係から成り立って来た。 
 人類の歴史に於いて、その時代はとてつもなく長かったはずだ。
 この私もその恩恵を賜りつつ、その発展を自身の自己実現の糧として生きて来た人種であると自負している。
 紀元前より築き上げた素晴らしい人類の歴史発展を一瞬にして踏みにじるがごとく、その所産のすべてがインターネットの発展により潰されてしまうかのような危機感が私にもあるのだ。

 ビッグデータの発展を歓迎しその野望により巨額の富を得んとする人種の陰に、それにより失われゆく人間の思想とのかけがえ無き所産喪失に対し大いなる痛手を抱く人間も存在する事を、世のビッグデータを操る主体者に告げたいものだ。

会えばいつも「私は早く死にたい」と訴える高齢者の深層心理

2017年05月10日 | 医学・医療・介護
 連休明け初っ端の私の仕事は、現在高齢者有料介護施設に入居中の義母の病院付き添いだ。

 元々5月に眼科受診予定だったのだが、連休前に義母から電話が入り「早めにお医者さんに看てもらいたい」との意向だ。 
 「5月の連休明けは病院の混雑が予想されますから、もし悪化等の症状が無いようでしたら中旬以降で如何ですか?」と私が応えたのだが。 「連休明けに直ぐに行きたい!」との義母の希望を優先し、昨日病院受診と相成った。

 総合病院内眼科受診のため混雑を予想し早目の施設出発を目指した私だが、施設へ到着してみると義母がまだ着替えをしていない有様。(参考だが、義母が外出する時は必ずまるでパーティに行くがごとく華やかに着飾って出かける習慣がある。)  それを待つ事20分。  更には施設よりタクシーを迎車しても混雑中との事で、タクシー到着まで20分。 (タクシー到着が遅くなってもちゃっかりと“迎車料”を請求されるのは致し方無いとして…。)
 40分ものロスタイムとの失策の後、病院へ到着してみればやはり午後の診察受付開始時間に大幅に遅れを取っている。 更には受診カードが再診マシンに投入出来ないトラブル発生。 総合受付まで“よたよた歩きの義母”を同行したら「問診票」を書かされる(私が代筆)はめとなり、やっと眼科受付へ到着した時には予定より1時間以上出遅れていた。

 高齢者の病院受診付添いとは、トラブルを覚悟の上でないと実行不能な事は重々承知している。
 その中でも「待ち時間」が長引く事態こそが、高齢者の付添人にとって一番の打撃だ。

 何故ならば特に義母の場合、認知症状があれば耳も遠い割には身体は比較的丈夫で“おしゃべり好き”なのだ。
 普段は施設内にてスタッフの皆様や入居中の仲間と会話を持つのであろうが、スタッフの皆様は多忙、また入居高齢者仲間は義母同様に認知症状があったり耳が遠かったりで、果たして会話が会話として成り立っているのかどうか……
 そうした場合、義母とて「会話が確かに繋がった!」と一番実感出来る保証人である私に日頃のストレスを思う存分ぶつけたいのが本音であろう。
 その義母の思いには応えたい。 それこそが我が義母病院受診付添い役の神髄だと覚悟を決めている私だが、これがあまりにも長引くとこちらのストレスが蓄積するばかりだ。 


 昨日はこの義母の長話に、病院待合室にてすっかりはまってしまった。

 待合室内での義母の話は延々と続く……
 やれ、入居者の誰それがどうした。 スタッフの誰が氏かが何をした。 親戚筋の某氏が現在どうなっている。 私が露知らない話題に対しては、「そうですか。それは大変でしたね。 それは困りましたね。」等々とお茶を濁しつつテキトーに相槌をうっていれば事が済む。 ただ大変なのは、電光掲示板の表示もお構いなしならば、途中でトイレへも行けない程に義母の一方的な会話が弾む。 私が時折電光掲示板を確認する作業をすると、(あら、この人私の話を聞いていないのかしら!?)なる嫌悪感を抱いているような表情すら浮かべる程に、今現在病院の待合室にいることを忘却しつつ義母の会話が続行する。

 ただ既に4年半に及び義母の病院付添いを実行している私にとって、そんな義母の相手はお手のものだ。

 そんな中、ここ2、3年義母の病院付添い時に決まって話題に出るのが、表題の「私、早めに死にたいのよ」である。 
 義母の場合、自身の病院(お医者さん)好きとは裏腹に、認知症と耳の聞こえの悪さを除けば私の見た目診断によれば、通常の老化現象以外に特段身体に致命的不具合がないのだ。 故に我が判断としては義母は長生きするのではないかと予想している。 
 おそらく、義母は自身から「私は早く死にたいのよ」との話題を私に持ち出す事により、「何をおっしゃるのですか。お母さんが長生きされることを皆が喜びますよ~~。」なる返答を一番に待ち望んでいるのだろう。
 そう言ってあげるのが義母にとって一番理想的なのは承知の上で、敢えて私は別の言葉を選んでいる。「いつお迎えが来るかは誰にも分からないですよ。私はお義母さんは長生きされると思っていますから、出来れば楽しい日々を過ごされるといいですね。」 

 義母も我が返答に少し同意しつつ、「楽しく過ごす事が一番難しいのよ」…… 

 いやいや、これも重々納得だ。
 そこでひるまず、私も義母に再確認した。 「お義母さんは、今何をしている時が楽しいですか?」
 義母応えて、「それが無いの…」  更に私が、「お義母さんは、昔習い事を沢山していらっしゃったではないですか? その中で何か今でも出来る事を再開すればどうですか?」
 義母応えて、「年を取るとそれさえ嫌になるのよ」……


 最後に、私論に入ろう。

 高齢者皆が皆、そうであろうとは思いたくはない。
 
 実は義母が一番したい事を私は知っている。
 それは高齢域に達し認知症状に苛まれては自分一人の意思では叶わない事象だ。(ここでこっそり書くとそれは「恋愛」だ。 義母は持って生まれた美貌及び事業家として活躍したその過去の業績故に、周囲に義母に蔓延る男がごまんと溢れていた様子だ。 )
 実家の事業を引き継ぐとの栄華の時代が遠い昔に過ぎ去り、その時代に恋愛三昧だった過去が、高齢者介護施設へ入居した暁には義母が欲する意の様には叶わない。
 かと言ってあの素晴らしい時代の享楽に比し、老いぼれの身となり果ててはその代替となる対象物など見つかるすべもない…
 そんな義母が発する「私は早く死にたい」なる言葉の真意が分かる気もするのだ。

 ただ、私は義母とは歩んだ人生が大幅に異なる。 
 「恋愛」ももちろん素晴らしく人生の糧となろうが、それ以外の他分野にも自身が本気で打ち込める対象物が義母にあったならば、老後の生き様ももう少し違っただろうにとの思いを抱いたりもする。

 私自身は今後一体いつまで生きるのかは測り知れないが、他者に対し「私は早く死にたい」などと訴えずして自己責任で全う出来る人生を歩み続けたいものだ。

連休終盤に日本橋を行く。 (岩合光昭氏「ねこの京都」展編) 

2017年05月08日 | 芸術
 (写真は、5月15日まで日本橋三越本店 本館・新館7階ギャラリーにて開催中の 岩合光昭氏写真展「ねこの京都」のチラシと絵はがきを撮影したもの。)


 5月の連休が終わり、私が住む都会では帰省や旅行からUターンした人々で溢れ、巷はいつもの喧騒がすっかり戻って来ているようだ。

 さて。 で、一体我々母娘が何をしに一昨日お江戸日本橋へ出向いたのかと言えば、要するに日本橋三越本店で開催中の「ねこの京都」写真展を見るのが第一目的だった。


 母娘共々、決して“ネコ好き”とまでは言えない人種だ。
 そんな娘が私立中学に合格した際、合格祝いの一端として、(私としては“半分悪ふざけ感覚”で)ヒツジとネコの枕を買ってやったのだが、これが娘に大受けした! 
 枕とは言えども、耳もしっぽも手も足もちゃんと付いていて立派なぬいぐるみだ。 そして、お顔の表情や全体の姿に愛嬌があって、下手なぬいぐるみよりも私の目にはずっと可愛いかったのだ!

 娘は幼少の頃より、ぬいぐるみが好きな子どもだった。 そんな娘におばあちゃんである義母が、毎年誕生日やクリスマスには必ずやぬいぐるみをプレゼントしてくれた。 その数たるや小学生時点で一部屋に入り切らない程になり、娘が要らないものから徐々に鬼母の私が廃棄処分としていった。
 娘はその中でも、特にキティちゃんの特大ぬいぐるみをまるで妹のように可愛いがった。 汚れてボロボロ状態にもかかわらず、それを廃棄処分にすることは娘虐待に繋がると考えた私は、娘の意思に任せた。

 私立中学受験に合格した際、もう潮時かと考えた私が、キティちゃん特大ぬいぐるみを捨てる提案をした。 それをすんなりと受け入れた娘だったのだが、何だか惨たらしい事をした感覚があった私が採ったのが、新たにヒツジとネコの枕をプレゼントするとの行動だった。

 娘は特に、ネコの枕(というよりも娘にとってはぬいぐるみだが)に対し“過去の”特大キティちゃん”よりも思い入れを抱いた様子だ。 今となっては、ヒツジもネコも娘に可愛がられオンボロボロの姿になりつつも、我が家の一員のごとく堂々とソファーに居座っている。

 という我が粋な計らいのお陰で(??)、娘はヒツジとネコに興味がある様子だ。 
 我々一家が住む高層住宅は、背丈制限があるものの一応小型動物を飼育してよいとの管理規約がある。 とは言えども、それを実行に移したならば私の日常業務が増えるだけだ。
 ここは、事ある毎にヒツジやネコの催しもの企画に娘を誘(いざな)おうと心得ているサリバンである。


 我が家の特質事情の話題が長引いてしまったが、表題に戻そう。

 5月の連休を挟みわずか2週間足らずの写真展との期間制限もあるのだろうが、とにかく会場は大混雑だった。

 私の展覧会の感想だが、写真に映ったネコが可愛いというよりも、とにかく岩合光昭氏の写真の数々が実に見事だった。
 今回の岩合氏によるねこ写真展のテーマは、京都春夏秋冬の四季や京の人々の生活に溶け込む日常のねこ達の姿を捉えたものだった。 その風景こそが美しく、また京都へ行きたいなあと誘われる気分だった。


 そして、何よりも日本橋三越本店にて当該写真展が開催されている「主眼」の程を実感させられたのが、ミュージアムショップだ。
 「あれ、ミュージアムショップがないよ?」と娘と言い合っていると、なんのなんの。

 写真展会場の何倍ものスペースを取って、「ねこの京都」写真展横の三越本店本館に「ネコグッズ」販売フロアが設けられていたのだ!!

 犬・ネコブームの現在、三越本店はこの「ネコグッズ」販売により、岩合光昭氏写真展開催中に膨大な売上利益を稼ぐことだろう。

連休終盤に日本橋を行く。 (日本橋三越本店ライオン像編) 

2017年05月07日 | 芸術
 (写真は、日本橋三越本店正面玄関に置かれている ライオン像 を撮影したもの。)


 日本橋三越本店と言えば、このライオン像を語らずして終われないだろう。


 冒頭から話題を大幅に変えるが、実は我が娘の就職先本社が日本橋茅場町に存在している。 (ただし、娘の日々の勤務先は別の場所なのだが。)


 娘が昨春、大卒新人社会人として就職をゲットした先が日本橋茅場町に本社が位置する企業である事を一番喜んでくれたのが、元々日本橋を住み処としてこの地で代々事業を執り行っていた最後の経営者である義母だった。

 義母曰く、「偶然ねえ。 孫の〇〇ちゃんが日本橋に勤務することになったの? ずっと日本橋に住んでいた私としてはとても嬉しいわ。 これも縁というものかしら。 茅場町には私も思い出が沢山あるのだけど、孫の〇〇ちゃんがその会社でずっと活躍し続けてくれるといいわね。」


 写真のライオン像を、義母も数十年前のかつての昔に当該日本橋三越本店への日々の買い物がてら幾度も見た事だろう。

 我が娘は、何と今回がこのライオン像を見るのが初めての事だそうだ!?! 
 かく言う私とて、マジマジと見つつ写真撮影をするのは今回が初めてだし……

 何とも立派なライオン銅像だこと!!