原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私が大都会・東京に住み続ける意義

2024年09月24日 | 自己実現
 本日のエッセイは、2024.07.24付にて公開したバックナンバー「やりたいことが無いから東京に住む??」に対する反論の形のエッセイとなろうか??



 とりあえず、上記バックナンバーエッセイ「やりたいことが無いから東京に住む?」の一部を、以下に再掲載させていただこう。

 今回のエッセイは、2024.07.23付朝日新聞夕刊記事「取材考記」より、くらし報道部 藤谷和弘氏著「『ありのまま』望み 東京出られなくなる若者」より引用しよう。
 
 地方出身で、「本当は地方に住みたいけど、いま東京に住んでいる人、知っていますか」 
 こんなメールを何人かの知合いに送った。 東京一極集中に関する取材で、地方から東京に若者が引き寄せられる理由を探りたいと思っていた。
 岩手県出身の会社員某男性(23)に話しを聞くと、「東京に住みたくて、住んでいる」という。 東京でやりたいことがあるからかと思ったが、違った。
むしろ、やりたいことがないからですね」 (途中大幅略)
 2011年の東日本大震災後、男性の地元には都会から多くの若者がボランティアできて、そのまま岩手に定住した人もいる。
 私も岩手に赴任していたとき、取材した。 自由だが孤立した都会の生活を離れ、「一人でい活きている感覚が無い」と語る若者の表情は喜びに満ちていた。
 「自分が何がしたいのか」と考えるようになったのは。答えが見つからず「何者にでもなれる」東京を選んだ。
 価値観や働き方の変化が進み、住む場所は選びやすくなった。だが、情報が溢れ、選べるけど決められない。 そんな時代に鍵となるのが、「何者にでもなれる」と言う感覚かもしれない。 (中略)
 自由だが孤立した都会の生活を離れ、「一人で生きている感覚が無い」と語る若者の表情は喜びに満ちていた。
 価値観や働き方の変化が進み、住む場所は選びやすくなった。 だが、情報が溢れ、選べるけど決められない。 そんな時代に鍵となるのが「何者にでもなれる」という感覚かもしれない。 (途中大幅略)
 物理学者のBossBさんに「ブラックホールは吸い込みません!」と突っ込まれた。 東京に関して「ブラックホール」という言葉を使いたいのならば、「一度東京に出たら出られない、出たくなくなる、という意味で使っていただきたい」と言う。
 完全に盲点だった。 不明を恥じるとともに、「出られなくなる」という視点は重要だと気付かされた。 一極集中の行方は、日本社会の将来を占う。 今後も様々な角度から掘り下げたい。

 (以上、朝日新聞「取材考記」より一部を引用したもの。)


 原左都子の偏見かもしれないが。

 朝日新聞記者の、特に「文系出身者」が書かれた記事を読ませて頂くと。
 我が直感の反応として、「ちがうなあ…」なる違和感を抱かされざるを得ない。

 そんな原左都子が、当該「取材考記」に関して御意見させていただこう。

 元々ド田舎者の原左都子だが。 過疎地郷里から単身上京して既に40数年の年月が経過している。

 その間に 過疎地郷里へ帰りたいなどとの発想が出たことが、ただの一度も無い!!
 大都会東京で、特に医学を筆頭とする学問・研究で得た能力を十二分に発揮しつつ。 あくまでも自己評価に過ぎないが、十分に業績を上げながら(イコール:ある程度恵まれた報酬も得続けて)しつこくも面白おかしい人生を生き抜いてきている我が身だ!
 
 そんな原左都子として、言わせていただきたいのは。

 「やりたいことが無いから東京に住む?」など、東京にて成功している人間に対して失礼千万だ!!

 「やりたいことが実現できる(提供してくれる)要素満載の東京」だからこそ。
 原左都子の場合は職業に加え(それ以外の分野でも??)私なりの成功を勝ち取って来れたと自負している。

 既に高齢域に達している私だが。
 今後も一生 この大都会「東京」にて私らしく生きるための自己実現を、積極的に続行したいものだ!!

 (以上、「原左都子エッセイ集」2024.07.24付バックナンバーの一部を再掲載したもの。)



 今(2024.09)現在の私見に入ろう。
 
 そもそも過疎地出身の田舎者の原左都子だ。

 そんな私が地元国立大学医学部卒業時点で、単身上京できた一番の理由とは。
 医学部卒業仕立ての“医学者の卵”状態の私を、某医学関連企業が快く正社員として採用してくれたのは、私が医学関連国家資格をゲットしていたからに他ならない。
 やはり、「資格ゲット “特に国家資格”」とは昨今問わず、何にも勝る就職条件なのであろう。

 これが大きくものを言い、私は新卒直後より都内にて「医学者の端くれ」としての活躍が叶うと同時に、おそらく世間相場よりも高額の給与収入を得ることが叶ったのである。
 とにかく有難い事に私は新卒後すぐに企業の医学業務を難なくこなせる身であり、何らの問題も無く当該企業にて更なる成長を遂げることが叶ったものだ。

 そうなると、何も怖いものはない!! 
 プライベートタイムをエンジョイする収入に恵まれ続け、私生活も多いに華やかに過ごしたものだ。

 その後、30代直前期に再びの大学入学を目指し合格し入学した暁には、既に大都会にて一人住まいの住居を購入する資金も蓄積していてそれを実行に移し。  
 2度目の大学にて学んだ知識を活かして「高校教諭」にもチャレンジしてこれまた安定収入を得つつ、新たな職業分野での活躍の舞台も得た。
 (参考だが、この時代には私は東京でなく、横浜市の住人だった。 ただ、東京と横浜の距離は程近く、何らの違和感も無かったものだ。)


 さらにその後 晩婚・出産の後にも。
 
 有難い事に、我が「医学経歴」を買って下さった国立研究開発法人「理化学研究所」より、“医学実験業務”へのお誘いがあった。
 これに応募したところ応募者多数の中私一人が採用されて、何年間か理化学研究所での医学実験業務も叶った。


 今回の我がエッセイでは、「仕事」に話題が偏ったが。

 この私 大都会東京に暮らすとのまたとない幸運を、私生活でも大いに有効利用してきた人間だ!!

 その内容に関しては今回は割愛するが。 
   その概ねを語るならば、「交友・恋愛関係」であり「趣味・娯楽」であったと言えよう。



 とにかく 私が大都会・東京に移住して後、既に40数年の年月が流れている。

 そんな長年、もしも私が大都会東京で「やりたいことが何も」無かったならば、住み続けられる訳も無いだろう!!!

 やりたいこと満載、かつ、有意義で楽しいから私は東京に住み続けられているとの訳だ。


 どうかその辺をご理解いただき。

 「やりたいことが無いから東京に住む」などとほざいている人種がおられるならば。

 とっとと ご自身の郷里にでも戻って、人生をエンジョイされますように。
 

「団塊の世代」全員が75歳を超えたらしい

2024年09月23日 | 自己実現
 冒頭から、2024.09.16付朝日新聞記事「『団塊の世代』全員75歳以上に 高齢化率 世界200か国・地域で最高」と題する記事を、以下に要約引用しよう。

 (参考ですが、この原左都子は、団塊の世代よりも数年若い世代です。)


 総務省は16日の「敬老の日」に合わせ、65歳以上の高齢者の人口推計を公表した。  (中略)
 それによると、65歳以上の女性は女性人口の32,3%、男性は男性人口の26.1% だった。
 1947年から49年に生まれた「団塊の世代」は今年中に全員が75歳となる。 来年以降、医療・介護サービスなどの提供が追い付かない「2025年問題」の本格化が懸念される。  (途中大幅略)
  働く高齢者も増えている。 労働調査によると、2023年の65歳以上の就業者数は前年より2万人多い914万人。 増加は20年連続で、過去最高を更新した。
 65歳以上の就業率は前年と同じ25.2%。 年代別にみると、65~69歳は52,0%。(以下略)、いずれの世代でも増加が続いている。

 (以下略すが、以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。



 原左都子の私事に入ろう。

 この私は、決して「団塊の世代」ではない。
 その世代よりもどうやら、数年若い世代のようだ。

 上記朝日新聞記事によると。

 これら、「団塊の世代」の労働者が今現在増加中とのこと。
 例えば、我が年代の「65歳以上の就業率」が今現在25%を超えているとの報道だ。

 これ もちろんのこと、その就業に関しては 個々それぞれの事情の違いが大きくあることであろう。

 ところが、この原左都子に勝手に言わせてもらえるならば。
 同年代で今尚日々「仕事」をされている方々が、羨ましくて羨ましくて仕方がない人種だ!!
 こんなことを書くと、世から大いにお叱りを受けるのも重々承知だ。
 その労働者のほとんどが、何らかの理由で「年金がほとんどもらえない」、「仕事をせねば生活がままならない」が故に、その現状を受け入れておられることであろう。

 いや、私が知る範囲では。
 例えば大学教授氏がその能力を買われて、高齢域に達しているにもかかわらず、70歳前後のご年齢で未だ教授職を勤められている事例も承知している。
 (この原左都子が目指したいのは後者であるが故に、慎むべき発言であることは自覚できている。)


  
 話題を、本題に戻そう。

 我が国 日本の現状を考察した場合。

 高齢労働者のほとんどが、上に記載の「年金がほとんどもらえない」、「仕事をせねば生活がままならない」が故に、老体にムチ打って働かざるを得ない実態であるのだろう。

 その現状こそを見つめ直さねばならないとの国を挙げての課題なのであろう。



 それは分かっちゃいるものの。
 この原左都子は 幾つになっても、本気で「(報酬のある)仕事がしたい!!!」と欲する人種です。
 
 何と言っても、「報酬」のある「労働」こそがこの世で一番貴い自己実現だと思いませんか???

 と、日々ブログを綴る生活の中で、本気で悩み苦しんでいるとも言える 原左都子の重要課題でもあります…
  

“ハンドメイドショップ「組み立て お花屋さん」”

2024年09月22日 | 芸術
 ( 冒頭写真は、つい先ほど原左都子が組み立てた“ハンドメイドショップ「組み立て お花屋さん」のアップ写真。)


          


          


          




          


          



 これは一体何なのかを説明しよう。

 昨日、我が最愛の一人娘が我が家を久しぶりに訪れた。

 その際に娘の好物である「釜めし」のデリバリーを予約注文して、家まで運んで頂いたのだが。

 その「子供用おまけ品」として、今回は“ハンドメイドショップ「組み立て お花屋さん」” をお届け頂いた、との訳だ。



 それを制作するのは、いつもこの私と相場が決まっているのだが。😲 
 先程それに取り掛かかろうとしたところ、「組み立て方法マニュアル」が無い!
 ん?? 自分で考えながら作れ!、という事か?!?!
 と理解した私は、早速それに取り掛かったのだが。

 写真の如くに仕上げられるべく部品が、どう探しても、無い!!

 それは「屋根」部分なのだが、色違いのそれらしきものは入っていたものの、色が写真とは異なれば、サイズ等がどうしても建物に合わない。
 そのため、「屋根無し」の花屋さんの出来上がりだ。

  (と言うよりも 後で今一度考察してみるに、この写真のピンク屋根の下部分を少し前に出して、上部分を後方に“ひん曲げれば” 完成のようだ!!)😖 😶 


 
 ただ まあ、ある程度「花屋さん」らしき姿に出来上がっているではないか!!?!😁 



 それにしても この種の「付録」とは、 特に小さい子どもさんがおられるご家庭にとっては「良質」なプレゼントではなかろうか。 とデリバリー店の粋な計らいを評価申し上げたいものだ。


 美味しいものを頂いた後は、親子でハンドメイドを楽しもうじゃありませんか!! 


 と言いつつ、いつも原左都子一人で ハンドメイド制作 を楽しんでいます!😜  
       

再々掲載 「長生きは一生の得(火傷の編)」

2024年09月20日 | 人間関係
 本日公開する「再々掲載」エッセイは、原左都子本人が今読み返してみても感激するというのか。
 
 私は基本的に子供時代は父方の祖母に育てられた身であり、その両者関係を私なりによく表現出来ているエッセイであると今尚感じる作品である。

 昨日の「原左都子エッセイ集」上位にランクインしていたバックナンバーでもあるため、今一度再掲載させていただこう。


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 皆さんは、今までの人生に於いて“大怪我”をされた経験がおありだろうか?


 本日は、我が幼少期に経験した“大怪我”にまつわるバックナンバーを紹介しよう。
 
 早速、2008.08.05公開の「長生きは一生の得(火傷の編)」を以下に再掲載させていただこう。

 私は幼稚園児の頃、腕にかなり大きな火傷を負ったことがある。

 昔は台所のガスコンロの燃料として(少なくとも私が住んでいた過疎地では)プロパンガスを使用するのが通常であった。プロパンガスのボンベから直接ホースを引いてコンロにつなげるという簡易構造なのだが、ある朝そのホースを幼い私は腕に引っ掛けてしまったのだ。
 コンロの上の作り立ての味噌汁を鍋ごとひっくり返して、その一部を腕に被ってしまった。その様子を目撃した家族は誰一人としていなかった。
 朝食前の忙しい時間でもあり、味噌汁を鍋ごとこぼした事を家族に叱られるのを避けようという発想しか私の未熟な頭には浮かばす、幼心に腕を負傷したことは自らのとっさの判断で伏せることにした。
 案の定、すぐさま味噌汁をこぼしたことを家族から叱られたため、尋常ではなく痛む腕のことは言えず、ひた隠したまま私は幼稚園へ行った。

 長袖の園児服のゴムの袖口から腕を覗き込むと、火傷を負った腕に何個かの水脹れが出来ている。一番大きいので直径3cm程ある。 こんな異様なものが私の体に発生したのを見るのは生まれて初めてのことで、言い知れぬ恐怖感ばかりが私に襲い掛かる。 事の重大さに怯えつつも一人で痛みを我慢しつつ幼稚園での日課を何とかの思いでこなすしか手立てはないまま、やっと帰宅の時間となった。
 両親が共稼ぎだったため昼間は祖母に世話になっていたのだが、帰宅後もやはり自分がしでかした事の重大さが後ろめたくて腕の火傷の事は言えない。 早く消えてくれないかな、と水脹れを何度も見るのだが消えるどころか大きくなっているような気さえする。 痛みもまったく治まらないどころかさらに激しくなってきているようにも思える。
 その日の放課後は家での遊びにも身が入らない。 どうしても腕の水脹れが気になる。 庭にある松の葉の先でこの水脹れを潰して証拠隠滅しようかとも思うのだが、そんなことをしたらもっと事態が悪化しそうなことが当時の私は幼心にも予期できてしまい、実行に移せない自分との闘いが続く。

 夜になって母が帰宅した時に、もう隠し通せないと覚悟を決めた私は母に腕の火傷を見せた。 一日中小さな心に背負い続けていた後ろめたさや恐怖心から一気に解放された私は、母に告白した事でどっと押し寄せた安堵感で大泣きした。 母は私の腕の水脹れに一瞬にして驚き、すぐに私を病院に連れて行った。
 負傷後の措置が遅れてしまったため、火傷は治っても水脹れの跡形が腕に残ると医師が母に告げるのを、私も診察室で聞いた。

 そして、私の左腕には未だに直径3cmの火傷後が刻まれることとなった。(年数の経過と共に小さいのは消えてなくなり、3cmのもずい分と色合いが薄くなってきてはいるが。)
 小さい頃は私の腕の火傷の水脹れの後が焦げ茶色で大いに目立っていた。 私の地方ではこういう皮膚の跡形を“こと焼け”と呼んでいたようである。

 上記の負傷から間もない頃、まだ幼い私は祖母からある迷信の話を聞いた。“こと焼け”のある人間は長生きできない、と言う昔から伝わる迷信の話を…。 それで私は祖母に尋ねた。「長生きできないって言うけど、何歳くらいまでは生きられるの?」 祖母曰く「50歳くらいだと思うよ。」
 それを聞いた私は大いに安堵したものである。「50歳までも生きられるならば十分!」と。 その頃の私はまだ5歳位だった。その時の私にとっては、50歳という年齢が想像を絶する程遠い未来に感じられた。

 私は今尚、自分の左腕に刻まれている、もはや色が薄くなった“こと焼け”を見る度にこの祖母の迷信の話を思い出す。

 年月が流れ、50歳が近づくにつれ私の頭の片隅でこの“50歳”の数値の意識が強くなっていった。 5歳の頃にははるか遠い未来であった50歳が、年齢を重ねる毎にどんどんと間近に迫り現実味を帯びてくるのだ。 私の命は50歳までなのか!?? あの祖母の話は、確かに神のお告げだったのかもしれない…、と少々恐怖心まで伴ってくるのである。

 そして、その“神のお告げの”ハードルを既に何年か前に無事に越えてまだ生き長らえている今、体も程ほどに丈夫で、生活もある程度安定し、外見もそこそこ年齢よりも若く(??)、この後に及んで自分なりのポリシーも貫きつつ人生を刻み続けている我が身がここにあることに感謝するのだ。

 私にとっての“50歳の命の神話”は、あくまで神話であり迷信であったのかと少しずつ実感できるこの頃である。

 先週の新聞等の報道によると、2007年度の日本人の平均寿命は過去最高を記録した模様である。女性が85、99歳、男性が79、19歳とのことで、女性は23年連続で世界一、男性も世界で3位の長寿国であるらしい。

 何と言っても、長生きは一生の得である。
 続編で更に、これに関する私論について述べることにしよう。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008.08.05付バックナンバーより再掲載したもの。)



 このバックナンバーを読み返す都度、私の脳裏に様々な感情が行き交う。
 そんな我が深層心理を2019年8月の今、以下にまとめてみよう。

 まずは、親の責任論だ。
 この事件、どう考察しても我が親どもの“愚かさ”が前面に出てしまう。 
 未だ幼き我が子が燃え滾る味噌汁をひっくり返したとなれば、いくら私が忍耐強い娘だとせよ、親として開口一番問うべきは「怪我(火傷)をしていないか!?」に決まっているであろうに。
 何故、我が親どもはそれを問うてくれなかったのか!? との“恨みつらみ感情”が今尚我が脳裏に燦然と存在する。
 とにかくいつもいつも「共働きなんだから」との言い訳を、一番最初に子供に押し付ける両親だった。 姉は高校生時点で、そして妹の私は20歳前半期の就職時点で親元を離れることと相成ったのも、そんな家庭環境がもたらした自然の成り行きなのだろう。

 祖母が私に告げた“迷信”を母親に話した事もあるのだが。
 これを母が完全否定して私に言うに、「あの人(祖母の事)古い時代の人間でいつもくだらない迷信を他人に告げる癖があるのよ。そんな戯言を信じないように!」

 一方、私の解釈は決してそうではなかった。
 その後私の火傷を哀れんでくれたのは、いつも私達姉妹に日頃寄り添ってくれている祖母だった。 “こと焼け”を抱える運命を背負った私を心より心配してくれているからこその発言だったと、幼き私は認識する事が出来ていた。


 そんな父方祖母は、90代半ば頃まで長生きした。

 私が上京後郷里へ帰省する都度、幼き頃日々寄り添ってくれた祖母に会いに行くと、「大きくなったね、綺麗になったね。立派になったね。」と必ずや褒めてくれたのを思い起こす……。


再掲載 「左都子の『経済史』小講座」

2024年09月19日 | 学問・研究
 (冒頭写真は、1985年頃に 我が2度目に入学した大学にて受講した「経済史」の定期試験対策として、私が模範解答??としてまとめたもの一つ。)



 昨日(2020.05.03)に引き続き、本日は2度目に入学した大学の2年時に受講した「経済史」の定期試験対策としてまとめた解答を紹介しよう。
 (繰り返しますが、2度目の大学にての我が専門は「経営法学」であり、決して「経済学」ではありませんでした。  さらに参考ですが、我が1度目の大学にての専攻は「医学」でした。  内容は順不同です。)


        

        

        


        


        

        

        


        


        


        


        

        


        

        



 いやはや 過去に公開したエッセイ内の「写真」を再公開する作業とは、実に難儀であることを実感させられます。😱 
 特にこのように同じ様な文面形式の写真のひとつひとつの分別作業は、神業に近い程の困難さでした。😫 

 よって、おそらく同一写真がダブっていないとは思いますが。
 掲載していない写真がもっとあったかもしれません。



 この「経済史」の授業は2度目の大学2年次に受講したが、おそらく必修ではなく選択科目だったと記憶している。

 ご覧のごとく大変厳しい授業だった。
 指導教授氏が実に真面目で熱心な方で、頭が下がる程にきちんと専門を教授して下さった。
 残念なことに学期途中で60代前半の若さで急死され、その後どうなったのかの記憶がない。  今講義ノートを見直すと、63年1月29日までノートがとられているため、おそらくほぼ年度の授業を終える頃に急死されたのだろう。

 参考だが、私が2度目に通った大学・大学院は首都圏に位置するさほど規模の大きくない歴史ある公立大学だ。 もしかしたら世間では“2流”のイメージがあるのかもしれないが??  何の何の素晴らしい教授陣を揃えた、「一流」の授業提供が特徴だったのではあるまいか?!!
 2度目に入学する大学・大学院としてこの大学を選んだのが大正解だったと、今でも感謝している。😀



 2024.09 現在の後記だが。

 上記写真の原本である「2度目の大学講義ノート集」は、今現在尚 我が書斎にずらりと陳列してある。

 膨大な数の「学術資料集」とも言える“しろもの”であり。
 少し前までは、我が家を訪ねて来られる“学問好き”連中が、必ずや「この莫大な資料は何??」と興味深そうに尋ねて下さっていた。😜 

 私が、「私の2度目の大学の授業ノートをまとめたものですよ。」と自慢げに応えると。 
 「ちょっと見ていい??」と尋ねて下さるので。
 「ご自由にどうぞ!」と応えるのが我が内心の楽しみでもあった。😁 


 高齢域に達した今となっては、その種の友も激減してしまっているが…😭 

 とにもかくにも、私本人にとっては何にも勝る“完璧自作”の「学術資料集」であり。
 はたまた 我が過去の「学業経験証明書類集」とでも言える、貴重な蔵書である。