原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

再々掲載 「長生きは一生の得(火傷の編)」

2024年09月20日 | 人間関係
 本日公開する「再々掲載」エッセイは、原左都子本人が今読み返してみても感激するというのか。
 
 私は基本的に子供時代は父方の祖母に育てられた身であり、その両者関係を私なりによく表現出来ているエッセイであると今尚感じる作品である。

 昨日の「原左都子エッセイ集」上位にランクインしていたバックナンバーでもあるため、今一度再掲載させていただこう。


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 皆さんは、今までの人生に於いて“大怪我”をされた経験がおありだろうか?


 本日は、我が幼少期に経験した“大怪我”にまつわるバックナンバーを紹介しよう。
 
 早速、2008.08.05公開の「長生きは一生の得(火傷の編)」を以下に再掲載させていただこう。

 私は幼稚園児の頃、腕にかなり大きな火傷を負ったことがある。

 昔は台所のガスコンロの燃料として(少なくとも私が住んでいた過疎地では)プロパンガスを使用するのが通常であった。プロパンガスのボンベから直接ホースを引いてコンロにつなげるという簡易構造なのだが、ある朝そのホースを幼い私は腕に引っ掛けてしまったのだ。
 コンロの上の作り立ての味噌汁を鍋ごとひっくり返して、その一部を腕に被ってしまった。その様子を目撃した家族は誰一人としていなかった。
 朝食前の忙しい時間でもあり、味噌汁を鍋ごとこぼした事を家族に叱られるのを避けようという発想しか私の未熟な頭には浮かばす、幼心に腕を負傷したことは自らのとっさの判断で伏せることにした。
 案の定、すぐさま味噌汁をこぼしたことを家族から叱られたため、尋常ではなく痛む腕のことは言えず、ひた隠したまま私は幼稚園へ行った。

 長袖の園児服のゴムの袖口から腕を覗き込むと、火傷を負った腕に何個かの水脹れが出来ている。一番大きいので直径3cm程ある。 こんな異様なものが私の体に発生したのを見るのは生まれて初めてのことで、言い知れぬ恐怖感ばかりが私に襲い掛かる。 事の重大さに怯えつつも一人で痛みを我慢しつつ幼稚園での日課を何とかの思いでこなすしか手立てはないまま、やっと帰宅の時間となった。
 両親が共稼ぎだったため昼間は祖母に世話になっていたのだが、帰宅後もやはり自分がしでかした事の重大さが後ろめたくて腕の火傷の事は言えない。 早く消えてくれないかな、と水脹れを何度も見るのだが消えるどころか大きくなっているような気さえする。 痛みもまったく治まらないどころかさらに激しくなってきているようにも思える。
 その日の放課後は家での遊びにも身が入らない。 どうしても腕の水脹れが気になる。 庭にある松の葉の先でこの水脹れを潰して証拠隠滅しようかとも思うのだが、そんなことをしたらもっと事態が悪化しそうなことが当時の私は幼心にも予期できてしまい、実行に移せない自分との闘いが続く。

 夜になって母が帰宅した時に、もう隠し通せないと覚悟を決めた私は母に腕の火傷を見せた。 一日中小さな心に背負い続けていた後ろめたさや恐怖心から一気に解放された私は、母に告白した事でどっと押し寄せた安堵感で大泣きした。 母は私の腕の水脹れに一瞬にして驚き、すぐに私を病院に連れて行った。
 負傷後の措置が遅れてしまったため、火傷は治っても水脹れの跡形が腕に残ると医師が母に告げるのを、私も診察室で聞いた。

 そして、私の左腕には未だに直径3cmの火傷後が刻まれることとなった。(年数の経過と共に小さいのは消えてなくなり、3cmのもずい分と色合いが薄くなってきてはいるが。)
 小さい頃は私の腕の火傷の水脹れの後が焦げ茶色で大いに目立っていた。 私の地方ではこういう皮膚の跡形を“こと焼け”と呼んでいたようである。

 上記の負傷から間もない頃、まだ幼い私は祖母からある迷信の話を聞いた。“こと焼け”のある人間は長生きできない、と言う昔から伝わる迷信の話を…。 それで私は祖母に尋ねた。「長生きできないって言うけど、何歳くらいまでは生きられるの?」 祖母曰く「50歳くらいだと思うよ。」
 それを聞いた私は大いに安堵したものである。「50歳までも生きられるならば十分!」と。 その頃の私はまだ5歳位だった。その時の私にとっては、50歳という年齢が想像を絶する程遠い未来に感じられた。

 私は今尚、自分の左腕に刻まれている、もはや色が薄くなった“こと焼け”を見る度にこの祖母の迷信の話を思い出す。

 年月が流れ、50歳が近づくにつれ私の頭の片隅でこの“50歳”の数値の意識が強くなっていった。 5歳の頃にははるか遠い未来であった50歳が、年齢を重ねる毎にどんどんと間近に迫り現実味を帯びてくるのだ。 私の命は50歳までなのか!?? あの祖母の話は、確かに神のお告げだったのかもしれない…、と少々恐怖心まで伴ってくるのである。

 そして、その“神のお告げの”ハードルを既に何年か前に無事に越えてまだ生き長らえている今、体も程ほどに丈夫で、生活もある程度安定し、外見もそこそこ年齢よりも若く(??)、この後に及んで自分なりのポリシーも貫きつつ人生を刻み続けている我が身がここにあることに感謝するのだ。

 私にとっての“50歳の命の神話”は、あくまで神話であり迷信であったのかと少しずつ実感できるこの頃である。

 先週の新聞等の報道によると、2007年度の日本人の平均寿命は過去最高を記録した模様である。女性が85、99歳、男性が79、19歳とのことで、女性は23年連続で世界一、男性も世界で3位の長寿国であるらしい。

 何と言っても、長生きは一生の得である。
 続編で更に、これに関する私論について述べることにしよう。

 (以上、「原左都子エッセイ集」2008.08.05付バックナンバーより再掲載したもの。)



 このバックナンバーを読み返す都度、私の脳裏に様々な感情が行き交う。
 そんな我が深層心理を2019年8月の今、以下にまとめてみよう。

 まずは、親の責任論だ。
 この事件、どう考察しても我が親どもの“愚かさ”が前面に出てしまう。 
 未だ幼き我が子が燃え滾る味噌汁をひっくり返したとなれば、いくら私が忍耐強い娘だとせよ、親として開口一番問うべきは「怪我(火傷)をしていないか!?」に決まっているであろうに。
 何故、我が親どもはそれを問うてくれなかったのか!? との“恨みつらみ感情”が今尚我が脳裏に燦然と存在する。
 とにかくいつもいつも「共働きなんだから」との言い訳を、一番最初に子供に押し付ける両親だった。 姉は高校生時点で、そして妹の私は20歳前半期の就職時点で親元を離れることと相成ったのも、そんな家庭環境がもたらした自然の成り行きなのだろう。

 祖母が私に告げた“迷信”を母親に話した事もあるのだが。
 これを母が完全否定して私に言うに、「あの人(祖母の事)古い時代の人間でいつもくだらない迷信を他人に告げる癖があるのよ。そんな戯言を信じないように!」

 一方、私の解釈は決してそうではなかった。
 その後私の火傷を哀れんでくれたのは、いつも私達姉妹に日頃寄り添ってくれている祖母だった。 “こと焼け”を抱える運命を背負った私を心より心配してくれているからこその発言だったと、幼き私は認識する事が出来ていた。


 そんな父方祖母は、90代半ば頃まで長生きした。

 私が上京後郷里へ帰省する都度、幼き頃日々寄り添ってくれた祖母に会いに行くと、「大きくなったね、綺麗になったね。立派になったね。」と必ずや褒めてくれたのを思い起こす……。