◎岩波新書『ナンセン伝』第二刷(1946)の謎
昨年六月二七日のコラム「戦後に甦った岩波新書旧赤判『発刊の辞』」において、岩波新書の発刊の辞「岩波新書を刊行するに際して」(一九三八年一〇月)が、岩波新書『ナンセン伝』の第二刷(一九四六年三月一五日)の巻末で甦ったということを書いた。
よく知られているように、この発刊の辞には、「国体の明徴も八紘一宇の理想も全きを得る」、「皇軍が今日武威を四海に輝かす」といった文言が含まれている。どう考えても、敗戦後に出る岩波新書には、ふさわしくない。しかし、これが復活したのは、まぎれもない事実である。その発刊の辞が載った現物があるのが、何よりの証拠である。ちなみに、一九四二年(昭和一七)一月三〇日に刊行された同書の初版には、「発刊の辞」は載っていない(国立国会図書館で確認)。
このコラムを書いてからしばらくして、鹿野政直氏の『岩波新書の歴史』(岩波新書別冊9、二〇〇六)を参照したところ、次のような記述があった(一〇ページ)。
旗印ともいうべき発刊の辞は、刊行される新書の巻末に掲げられつづけたが、一九四〇年〔昭和一五〕九月五日刊行の中野好夫『アラビアのロレンス』(赤版73)で終わり、同年九月三〇日の刊行の大谷東平『暴風雨』(赤版74)以降削除される。皇紀二六〇〇年〔昭和一五〕とともに強まった時代の風圧によるものであろう。そうして赤版が第二次大戦後に重版されたさい一旦復活したのち、少なくとも占領下ではふたたび削除されてしまう。
これによって、岩波新書「発刊の辞」が、戦後の占領下において一時復活し、すぐに削除されたということが、ほぼ確認できるのである。
以下に簡単な年表によって、事実関係を整理しておこう。
1938年11月9日 岩波新書創刊(旧赤版)、岩波茂雄署名の発刊の辞「岩波新書を刊行するに際して」。
1940年9月5日 柳田國男『伝説』(旧赤版72)、『アラビアのロレンス』(旧赤版73)発行。この二冊には、発刊の辞あり(国立国会図書館で確認)。
1940年9月30日 大谷東平『暴風雨』(旧赤版74)発行。発刊の辞なし。これ以後、戦中に発行された岩波新書には、新刊・増刷とも発刊の辞なし。
1946年3月15日 A・G・ホール『ナンセン伝』(旧赤版85)の第二刷で、発刊の辞が復活。奥付の次ページ(ウラ)に、発刊の辞が載る。この本は、実際に市販され、流通したもようである。
1946年4月25日 岩波茂雄死去
1946年6月25日 岩波新書旧赤版の新刊二冊。羽仁五郎『明治維新』(旧赤版99)、矢内原忠雄『日本精神と平和国家』(旧赤版100) 。この二冊には、発刊の辞なし。ちなみに、この二冊は、新書判でなくB6判であった。
1946年10月10日 岩波新書旧赤版の新刊一冊。近藤宏二『青年と結核』(旧赤版101、旧赤版の最終冊)。発刊の辞なし。B6判(B6判の岩波新書は、旧赤版99・100・101の初版のみ)。
1949年4月5日 岩波新書青版創刊、六冊同時刊行。新書判。「再出発の辞」あり(無署名)。
鹿野政直氏は、岩波新書「発刊の辞」は、「赤版が第二次大戦後に重版されたさい一旦復活した」と書いていた。『ナンセン伝』の第二刷は、それに該当するわけである。
ただし、この時期、『ナンセン伝』以外に、「発刊の辞」を載せた赤版の「重版」があったのか否かなどはハッキリしない(というか、調べていない)。いちばん不思議なのは、「皇軍が今日武威を四海に輝かす」といった文言を含む発刊の辞が、なぜ、GHQの事前検閲に引っ掛からず、一時的にであれ、復活しえたのかということである。【この話、続く】