◎回教徒・田中逸平の昇天
昨日の続きである。若林半著『回教世界と日本』(非売品、一九三七)から、冒頭の「回教政策の回顧」を紹介している。本日は、その二回目。昨日紹介した部分に続けて、改行して次のようにある。
然るに会々〈タマタマ〉昭和七年〔一九三二〕国際連盟会議が寿府〈ジュネーブ〉に開かるゝや予は浪人代表として頭山、内田両先生より派遣され、親しく欧米各国を巡歴視察せしが其の帰途、欧州視察より帰朝の途にある磯谷廉介〈イソガイ・レンスケ〉中将(当時は少将)と同船せるを幸ひ、予は同少将に回教及び回教徒、回教民族と回教国、宗教的に観たる回教徒と政治的に観たる回教国等に関して大に説き、東亜の盟主を以て任ずる日本、東亜経綸の重責を荷う皇国として回教政策の樹立は一重要国策であり、経済的に将た〈ハタ〉政治的に最大緊要事なることを大に語り予年来の志を具さ〈ツブサ〉に述べしに磯谷少将は大に共鳴深く同感の意を表せられ、予は初めて知己を得たるの感を深うした。帰朝後同少将は参謀本部第二部長の要職に就かれしより、予は具体的実行方法につき熱心な協力を願つた。
予は更に時の陸相荒木貞夫閣下に会見し、予が欧米視察に依つて得し観察に基き、我が国の国際連盟脱退後に於ける国際政局は、必ずや欧米が支那を使嗾〈シソウ〉して日本に重圧を加へ来らん。されば我が国の非常時は恐らく今後十年の永きに及ばん。故に此の際国内は宜しく小異を棄てゝ大同的国策を樹て、内は国民思想の統一を図り以て真の挙国一致の精神的結合を堅くし、軍備の拡張強化と国力の充実に精進し、外は外侮を防ぎ束亜経綸の根本方策を確立するを以て最大急務とするも、就中〈ナカンズク〉、回教政策の樹立と実行とは特に焦眉の念なる所以を陳べしに、荒木陸相も回教徒問題に関しては殊に同感の意を表せられた。
茲に於てか昭和八年〔一九三三〕十一月、田中逸平君を再び起し、外三名の青年を加へて回教巡礼団を聖地メッカに送ることを得た。此の行には又二十数年我が土耳古〈トルコ〉大使館に在勤したる近東及び回教研究の権威者中尾秀男君が中途に加はり、田中、中尾の両君は無事メッカに入りて回教大祭に参列し田中君翌九年〔一九三四〕五月重任を果して帰朝せしが、会々痼疾〈コシツ〉再発し、惜哉〈オシイカナ〉同年九月白玉楼中に昇天した。君の痼疾は帰航の船中に於て再発の兆ありしため、帰朝直ちに静養加餐を専らにせしため、折角苦行艱難、再度の巡礼に於て獲し貴重な収穫も未だに報告書を物するに至らずして逝く。寔に〈マコトニ〉遺憾の極みであつた。【以下、次回】
田中逸平の名前は、前回、紹介した部分にもでてきた。田中は、二回にわたってメッカ巡礼をおこなったのち、病に斃れた。「白玉楼中に昇天した」とは、文人の死を表す表現である。
デジタル版日本人名大辞典は、田中逸平について、次のように記している。
田中逸平 1882-1934 大正・昭和時代前期のイスラム教徒。明治15年2月2日生まれ。日露戦争の際陸軍の通訳をつとめる。大正13年イスラム教に帰依(きえ)し、中国人教徒とともにメッカに巡礼。14年大東文化学院教授。昭和9年サウジアラビアのイブン=サウド国王と会見した。昭和9年9月15日死去。53歳。東京出身。台湾協会学校(現拓殖大)卒。号は天鐘道人。
今日の名言 2015・1・6
◎桜は毒の花じゃないですかねえ
渡部亨さん(八八)の言葉。渡部さんは、一九四五年四月、「桜花」に搭乗して出撃した経験を持つ。「桜花」は、高度六千メートルで親機から切り離される人間爆弾。空から満開の桜が見えたという。親機の故障で海に不時着したため、命を拾った。以来、桜と目を合わせたことがないという。
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