◎海老沢有道、「創られた伝統」を指摘
昨日の続きである。海老沢有道の『近代日本文化の誕生』(日本YMCM同盟出版部、改定版一九六八)から、「一一 ごまかされた維新」の章を紹介している。本日はその三回目。
昨日紹介した部分に続けて、海老沢は、平田篤胤の『本教外篇』を分析し、同書が耶蘇教の思想に「日本的偽装」を施そうとしたものであることを示す。ここでは、この部分の引用は省き、二ページほど後のところから引用してみたい。
このような書を編し、それを本教の外篇と名付け「本教自鞭策」とし、「未許他見」〔未だ他見を許さず〕と記して自らの種本として神道論を展開して行ったのである。篤胤の『古史成文』『霊の真柱』『古史伝』など多くの著にこれをますます神道的に表現していった。「古史を貫く神道世界観の原理を提示し……之を宇宙論的に組織した」と神道史家によって称される業績は、こうした天主教々理への全面的傾倒によってもたらされたのであった。
そして何よりも記紀の「天地初発の時、高天原〈タカマガハラ〉に成りませる神の御名」は誤りで、本当は「天地未だ生らざるの時、天つ御虚空〈ミソラ〉に成りませる神の御名は、天之御中主神〈アメノミナカヌシノカミ〉云々」とすべきであるとする。即ち天地一切の以前に存在する神、創造 神天之御中主神の主張に至り、それを『天経或問』から地動説まで用いて科学的に証明するのである。
この絶対唯一神の信仰形戒が、天皇絶対制の精神的基礎をなしたことは、平田派の渡辺重石丸〈ワタナベ・イカリマロ〉が『真教説源』(一八七五)や『天御中主神考』(一八七三)などにおいて本末を転倒し、神道思想が西洋に流伝して天主教となったことを論じた書に、「国を知ろしめすの君一ならざるべからず。則天の主宰一ならざるべからず。亦推して知るべきなり」と云った語からも察せられよう。そして「天之御中主神の御正統なる」天皇命にこそ万国が従うべきであるという、いわゆる八紘一宇の迷妄性を発揮するのである。
これはひとり重石丸の思想ではない。篤胤以来平田派すべての思想である。キリスト教思想の摂取にもかかわらず、それを日本古説に附会し、今度は逆にキリスト教も儒仏もすべて日本古説にあり、それが外国に流れて行ったもので、従って多くの訛転〈カテン〉・誤謬がある。本当の教え、本教は日本の神道であると彼らは主張するのである。そして宗教・思想的には日本中心主義による排外主義、そして政治的には八紘一宇思想、天皇絶対主義を堅持したのである。王政復古、そして和魂洋才主義による文明開化主義など、大国隆正、平田鉄胤〈カネタネ〉、矢野玄道ら平田派の維新政府ブレーン・トラストによって推進され、復古神道はその欺瞞的近代性をもって維新の性格を基礎付けたのである。
平田篤胤が、キリスト教関係書をネタ本にせしていたことは、村岡典嗣が、すでに一九二〇年(大正九)に、「平田篤胤の神学に於ける耶蘇教の影響」(『文芸』第一一巻第三号)で明らかにしているという。
しかし、重要なのは、そのような「事実」ではない。復古神道に象徴される日本古来の「伝統」なるものが、幕末に「創造」され、それが明治維新を牽引し、さらに維新政権を支えるイデオロギーになったことなのである。
E・ホブズボウムらが編集した『創られた伝統』(The Invention of Tradition, 1983)という本は、よく知られている。同書の「序論――伝統は創り出される」(執筆・ホブズボウム)などは、私も、『日本保守思想のアポリア』(批評社、二〇一三)を執筆する際に参考にさせてもらった。
しかし、海老沢有道は、ホブズボームらよりもずっと前に、「創られた伝統」について論じていたのである。このことは、もっと強調されてもよいことだと思う。というわけで、新年早々、いくつか確認しなければならないこと、調べなければならないことなどが出てきた。