◎寺尾宏二の『日本賦税史研究』(1943)
以前、このコラムで、津下剛〈ツゲ・タケシ〉の『日本農史研究』という本を紹介した。戦時中の一九四三年(昭和一八)七月に、わずか一〇〇〇部が発行された稀覯書である。発行元は、東京市神田区美土代町〈ミトシロチョウ〉にあった光書房である。
著者・津下剛(一九〇五~一九三九)は、一九三九年(昭和一四)七月九日に、三五歳の若さで他界している。この本は、いわば遺稿集である。津下の論文を集めて、この本を編んだのは、日本経済史研究所(京都・北白川)で津下と同僚だった寺尾宏二である。
同書の「跋」は、寺尾宏二が書いている。友情あふれる名文である。この「跋」は、当コラムで紹介したことがあるが、寺尾宏二という学者については、まだ紹介していなかったと思う。
インターネットで検索してみたところ、次のような情報が入手できた。
寺尾宏二 1903~1995 京都産業大学教授(名誉教授)。京都帝大文(歴史学)卒。京都帝大教務課長、日本育英会理事。
国立国会図書館のデータベースで検索してみると、三六件がヒットするが、どういうわけか、生没年の記載がない。多くの著書があり、大学の名誉教授にまでなっている学者の生没年の記載がないというのは、どういうことなのか。調べるのに、それほど手間を要するとも思えない。一方で、国立国会図書館のデータベースに頼っている人は多いはずである。公的な機関として、積極的に信頼できるデータを提示してほしいものである。
さて、その寺尾宏二だが、一九四三年(昭和一八)一〇月に、『日本賦税史研究』という本を出している。発行部数、二〇〇〇部、発行元は、『日本農史研究』と同じく光書房。ただし、光書房の住所は、東京都浅草区浅草橋に変わっている。
寺尾宏二は、同書の「序」で、次のように述べている。
こゝにさゝやかなる一書を編む。自らの研究生活の反省の成果ではあるが、生来の愚鈍と性急とを徒らに悔悟せしむるにとゞまつてゐる。校正の筆を幾度か止めては、逝き〈ナキ〉友の遺稿出版に尽力せられし書肆の厚意に感謝し、その慫慂〈ショウヨウ〉に応へて編著するを肯ひ〈ウベナイ〉し軽率を恥じるのである。だが、遂に若干の語句と一両の〔一二の〕体容を整へしのみにて本書を成した。之を言はんとするは、己の鳥滸〈オコ〉と責任とを回避するのではなく、之に徹してより精進せんことを、先人と知人とに誓はんとするものである。【以下略】
ここに、「逝き友」とあるのが、津下剛を指すことは言うまでもない。
編著書出版の誘いに乗った「軽率」を恥じながらも、おのれの鳥滸〔おろかさ〕と責任を回避せず、これに(鳥滸と責任に)徹して精進せんことを誓うとした、寺尾の決意を了とする。
*このブログの人気記事 2015・1・9
- 古畑種基と冤罪事件
- コラムと名言その3、明日は休みます。
- 伊藤昭久さん、田村治芳さん、松岡正剛さん
- 憲兵はなぜ渡辺錠太郎教育総監を守らなかったのか
- 石原莞爾がマーク・ゲインに語った日本の敗因
- 伊藤博文、ベルリンの酒場で、塙次郎暗殺を懺悔
- 柳田國男と天神真楊流柔術(西郷四郎と柳田國男の意外...
- 大川周明が語る北一輝・東条英機らの人物像
- 清水幾太郎、朝鮮人虐殺の現実に接する(1923)
- 紅海に身を投げた植原愛算