礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戦中の職工の「自己保全的」対応とは

2015-01-16 05:31:16 | コラムと名言

◎戦中の職工の「自己保全的」対応とは

 戦中の職工は、過酷な長時間労働、連続労働を強いられた。長時間労働・連続労働を制限する目的で、一九三九年(昭和一四)に制定された「工場就業時間制限令」もザル法と化し、一九四三年(昭和一八)には、ついにそれ自体が撤廃されてしまったという。
 では、彼ら職工は、課せられた長時間労働や連続労働に対し、何の不満も言わずに従っていたのだろうか。いや、実際のところは、必ずしもそうではなかったらしい。
 今月一二日のコラムで、法政大学大原社会問題研究所編著『太平洋戦争下の労働者状態』(「日本労働年鑑」特集版、東洋経済新報社、一九六四)から、第三編第三章第四節の一部を紹介した。本日は、それに続く部分を紹介してみよう。

 ところで、その後右のような詳細な統計がないので残念ながら立ち入った分析はできないが、右の事情を念頭において第57表〔略〕をみると、工場就業時間制限令の実施後もその効果はほとんどなかったと推定できる。就業時間は一貫して増加しているからである。同制限令も一九四二年〔昭和一七〕一月に若干緩和され、さらに労働力不足が一段と深刻となった一九四三年〔昭和一八〕六月には撤廃されてしまった。同時に、工場法戦時特例が公布され、女子および年少者の就業時間、深夜業および休日、休憩に関する工場法の保護規定は、厚生大臣の指定する工場については適用されないことになった。就業時間についていえば女子および年少者は従来一一時間以上を越えて就業させることはできなかったが、このようなゆるい制限もとり払われたのである。月二日の休日も停止され、女子の夜業も許されることになった。軍隊にならって一週間は、まさに「月月火水木金金」となったが、実際に月当たり就業日数はそれほど影響を受けなかった(第58表〔略〕参照)。実際の就業日数は、このような公式の統計よりもかなり下回っていた。第59表〔略〕は軍需省の調査になる四千工場の賃金台帳からとった数値であるが、これによれば就業日数は著しく悪かった。「大部分の労働者は休日の不足を簡単に欠勤することによって解決していた」【注2】事実、欠勤は労務管理上もっとも深刻な問題であった。一九四二年一〇月に行なわれた重要事業所に関する調査によると欠勤率は平均一四・一九%であった。新規徴用工と女子労働者の欠勤率はとりわけ高かった。なお、この調査は某大工場(従業員数一万人以上)の欠勤率が実に二四・五%であったということを報告している。欠勤率を一〇%以下に保つことが目標とされたが、むしろそれはしだいに増大していった(第60表・第61表〔ともに略〕)。
 一九四五年〔昭和二〇〕になると、空襲の激化や食料事情の悪化のために欠勤は著しく増大した。労働者は食糧買出しのため工場を休まざるをえなくなった。爆撃による罹災や交通機関の破壊が出勤を不可能にしたことはいうまでもない。なかには高い賃金を求めて臨時に日雇労務をやるために欠勤するものもあったと推測されている。【注3】だが、理由のない高い欠勤率は、疲労の増大や健康の破壊に対する労働者の「自己保全的」対応の現われとみなすのが適当であろう。欠勤防止のためには従業員の家族訪問など労務管理上いろいろの手が打たれた。
【注2】コーヘン、前掲書〔J・B・コーヘン著・大内兵衛訳『戦時戦後の日本経済』下巻、岩波書店、一九五一〕、一〇六ページ。
【注3】大橋静市「生産責任者と勤労責任」(「東洋経済新報」一九四五年一月、第二一五三号)、コーヘン、前掲書、一〇九ページなど参照。

 戦中の職工は、過酷な長時間労働、連続労働に対し、「欠勤」という形で対応していたのである。これを、『太平洋戦争下の労働者状態』の編著者は、「自己保全的」対応と表現しているが、言い得て妙というべきか。
 昨年三月以降、某外食チェーンの従業員が次々と退職し、同チェーンの一部店舗が閉店に追い込まれるという出来事があった。おそらくこれは、激務と薄給に耐えかねた従業員たちの「自己保全的」対応だったと捉えてよいだろう。
 労働力の再生産を労働者に保証する機能が不全になっている点では、戦中も今日もまったく変わらない。そうした状況においては、労働者は、みずからの主体的な意思によって、みずから「自己保全的」な対応を案出する以外には、生き残る道はないだろう。

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