礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

紅海に身を投げた植原愛算

2015-01-07 05:47:34 | コラムと名言

◎紅海に身を投げた植原愛算

 昨日の続きである。若林半著『回教世界と日本』(非売品、一九三七)から、冒頭の「回教政策の回顧」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日紹介した部分に続けて、改行して次のようにある。

 田中逸平君は学和漢に通じ、神仏二教に造詣深く、東亜経綸を以て終生の志とした尊皇憂国の士、予の畏友であつた。殊に二十年来回教政策の実践者としてメッカ巡礼の苦業を二回までも体験した唯一の同志である。其の田中君が齢ひ〈ヨワイ〉知名〔五〇歳〕を過ぐる僅かに年、今後大に為すあるの身を以て忽焉〈コツエン〉として逝く。田中君の為に悼惜〈トウセキ〉措く能はざるは勿論、予も亦一臂〈イッピ〉を失ひ、回教政策のため痛嘆に堪へざる次第である。
 爾来某々方面、三井三菱住友諸家、紡績連合会、関東軍、南満洲鉄道株式会社等の後援に依り、昭和九年〔一九三四〕には第三回の巡礼として鈴木剛、細川将、郡正三、山本太郎の四青年を送り、一行四名は無事メッカ聖廟に参拝し、アラビア王にして聖地の守護職たるイブン・サウド王に拝謁し、予に王より給はりし王旗を拝受して翌十年五月帰朝した。
 イブン・サウド王より拝受せる王旗は時の侍従長鈴木貫太郎閣下に依り畏多くも聖上陛下の御内覧に供し参らせられたと拝聞する。
 第四回は十年〔一九三五〕十二月郡正三外二名を送りしに、一行中病に犯されしものあり、為に大祭に後れメッカに入るを得ずして帰来した。一行中の植原愛算は可借〈オシムベシ〉、紅海に於て病ひのため不帰の客となつた。
 曩き〈サキ〉に実弟九満を支那に失ひ、亜ぎ〈ツギ〉には畏友田中逸平君を喪ひ、今復た〈マタ〉植原君を亡ふ。国家の大計遂行のためとはいへ、私情に於ては痛恨に堪へず、予は責任の重大を益々感じて止まざる次第である。
 第五回は昨十一年〔一九三六〕十二月鈴木剛、細川将、榎本桃太郎の三青年及び外三名を送り、事なく大祭参列を終へ本年〔一九三七〕四月帰朝した。
 猶ほ最後に記して置かねばならぬことは、昭和八年〔一九三三〕予は、某氏と相談し、世界的回教の長老たるシジット・イブラヒム翁(本年九十三歳)を土耳古〈トルコ〉から迎へて東京に仮寓せしめ、回教政策の達成に予と共に尽力せしめ居る〈オル〉ことである。翁は土耳古人で、帝政時代の露西亜〈ロシア〉回教管長、露西亜帝室回教顧問を永らく勤めた人である。露西亜革命後は土耳古に返り、土耳古皇室の顧問をしてゐたが、土耳古革命後は野に下つた。而し近東からアフリカ、印度、極東に至るまでの回教民族からは、一代の権威者として万人の崇敬を受けて居る。日露戦争当時には明石〔元二郎〕将軍と肝胆相照し、宗教を利用して日本のために大に尽して呉れた恩人であり、回教を日本に紹介した最初の人である。
 田中逸平君の葬儀は昭和九年十月二十日青山齋場に於て行はれ、朝野の名士数千人の参列者があり、稀に見る盛儀であつた。殊にその葬儀が回教の典儀に拠つて行はれたことは意義殊に深く、是れ日本に於ける邦人回教徒としての回教式葬儀の嚆矢である。在天田中君の霊も亦定めし満足を以て瞑ぜしならん。

 若干、注釈する。本書の巻頭には、一六ページ分の口絵があるが、その最初に置かれているのは、「イブン・サウド王より著者に贈られしサウヂヤ・アラビア国王旗」である。また、口絵の四番目には、同国王の肖像がある。
 インターネットで得た情報(田村秀治という元外交官の回想)によれば、一九三五年、メッカ巡礼を企図し、果せなかったのは、郡正三、鈴木剛、細川将の三人で、これに山本太郎が自弁で加わっていたという。このとき、郡正三が「アミーバ赤痢」に罹ったのは事実のようだが、メッカ巡礼が果たせなかったのは、これに内地からの送金が滞るという事故が重なったためらしい。また、帰路、植原愛算が亡くなったのは、「ご迷惑をかけ申訳けなし」という一筆を残しての投身自殺だったという。ただし、植原愛算がどういう役割を担っていたのか、どういう迷惑をかけたのか等は不明。
 いずれにしても、上記引用中の「一行中の植原愛算は可借、紅海に於て病ひのため不帰の客となつた」という一節は、十分に真実を語っていない可能性が高い。

*このブログの人気記事 2015・1・7

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする