◎日中戦争の敗北を予言した笠間杲雄
昨日に続き、笠間杲雄『青刷飛脚』(六興商会出版部、一九四一)から。同書の中に、「読史ところどころ」というエッセイがある。本日は、その前半部分(二九一~二九二ページ)を紹介してみたい。
読史ところどころ
兵は神速果敢なるを尚ぶ。第一次大戦〔一九一四~一九一八〕当時のカイゼル〔ドイツ皇帝の通称〕は二ケ月で巴里〈パリ〉を抜くと豪語した。然るに他方では、〔イギリスの〕キチナー〔Kitchener〕元帥は四年目からがほんたうの戦争だと言つた。長期に備へたものが勝つたのだ。
ハンニバル〔Hannibal〕の第二ポエニ戦役〔紀元前二一九~二〇一〕は一挙にしてローマを抜く予定であつた。二十三年前の第一戦役〔紀元前二六四~二四一〕でカルタゴ軍の実力は知れてゐた。世界に君臨したローマも豪勇比なきハンニバルの侵入に戦慄したことは、ローマの史家リヴィ〔Livy〕自身が語つてゐる。曰く、ローマは全く恐慌に陥つた。カルタゴほど果敢好戦の敵は曾てなかつた。ローマ共和国の士気と戦備の欠けてゐたのも未曾有のことであつた、と。
此の強敵ローマを屠る〈ホフル〉のに、唯一人悲観説を唱へたものがゐた。今これがカルタゴのハンノー〔Hanno〕だ。彼だけはローマの底力について正しい認識を持つてゐた。曰く、対戦の長びくほど、ローマの抵抗力は増すだらう。ハンニバルが無名〔正当な理由のない〕の師〈イクサ〉を興して亡ぼさんとずるものは、ローマにあらずしてカルタゴ自身である、と。
カルタゴとローマとを比較して見ると、軍備の充実、統率の伎倆、芸術の巧妙に於てローマは到底カルダコの敵ではなかつた。ローマの味方は「時間」と資源だけであつた。短期迅速の決戦が行はれたのなら、勝利は勿論カルタゴのものであつたらう。云ひ換へると、ローマは待ち得たがカルタゴは待てなかつた。併しカンネーの大敗で、ローマ人自身が多くはハンニバルの豪語するやうに、短期迅速の決勝が迫つたと考ヘたのだ。リヴィ再び記して曰く、ローマ市に何の異常もないうちに、市民の恐慌興奮かくの如く激しい例は未だ曾てなかつた。ローマ人以外の国民であったら、 この惨劇の重圧で降服しないものは絶対にないだらう、と。
此の戦争は十五年かかつた。ハンニバルほどの天才将軍も、ローマの「時間」と資源とスキピオ〔Scipio〕とのコンビに向つては、竟に〈ツイニ〉兜を脱いだ。ムツソリーニ御自慢の名映画「スピオーネ」はこれを語つてゐる。
ハンニバルの敗因は全く敵を侮つた為めである。二三の事実を見て、早くもローマの末路来れりと即断したのである。
ローマを侮り、その末路は近いと即断したカルタゴは、大義名分のない戦争をしかけて、一気にローマを屠ろうとしたが、時間と資源に恵まれたローマの抵抗は、きわめて粘り強いものがあった。戦争は長期化し、一五年後、遂にカルタゴは兜を脱いだ。
どうしても、カルタゴ=日本、ローマ=中国というふうに読めてしまう。おそらく笠間も、そうした寓意を籠めて、この文章を書いたのだろう。だとすればこれは、日中戦争の帰趨についての予言であるといってよいだろう。
このエッセイの初出は明らかでないが、『青刷飛脚』が出たのは一九四一年(昭和一六)一〇月一〇日、すなわち日米開戦の二か月前のことであった。ちなみに、笠間杲雄が亡くなったのは、一九四五年(昭和二〇)の四月である。つまり笠間は、日本が中国に敗れる前に亡くなっている。
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