◎遠からず廃止さるべき運命を担つた法律である(田中二郎)
『国家学会雑誌』第五〇巻第八号(一九三六年八月)から、田中二郎の論文「不穏文書臨時取締法に就て」を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
三 本 法 の 批 評
不穏文書臨時取締法は現時の非常時局に応ずる必要上已む〈ヤム〉なく生れた臨時立法である。此のことは政府の屡々の声明によつても明らかであり、本法を出版法新聞紙法等より切り離し、特別法として制定した合理的根拠の一を茲に求めることも出来る。衆議院に於ける法案の審議に於て、不穏文書等取締法案とあつたのを不穏文書臨時取締法と改めたのも、本法が遠からず廃止さるべき運命を担つた法律であることを明らかにする意味に於て機宜〈キギ〉の処置であつたといふことが出来る。又政府に対し其の実行を道徳的に義務づける意味に於て衆議院の附した附帯決議も必ずしも無意義ではない。併し一歩進んで考へるならば、臨時立法が屡々臨時立法たるの本質を無視されて何時までも廃止されることなく持越される危険をなくする為めに、普通臨時立法に付て認められるやうに、一応一定の短い期限を画して置く方が処置としてより適当ではなかつたらうか。真に臨時立法たらしめる趣旨であるならば、それだけの用意がなさるべき筈であつたと思はれる。
併しこれは単に形式の問題に止る〈トドマル〉。更に一歩内容に立ち入つて検討すると、本法は立法として果して適当なものであるやは付て疑問とすべき点が多い。其処には刑罰法規に於ては殊に避けられねばならない抽象的な漠然とした用語が甚だ多く用ひられて居り、其の運用如何によつては、多くの人に危惧の念を起さしめずには置かぬものが洵に〈マコトニ〉多い。「軍秩ヲ紊乱シ財界ヲ攪乱シ其ノ他人心ヲ惑乱スル目的」とは何であるか、其の一つ一つが問題となり得る。衆議院の修正によつて、「軍秩ヲ紊乱シ財界ヲ攪乱」するが如きは「人心ヲ惑乱スル」場合の一二の例証であることが解釈上明らかにせられたが、具体的に如何なる行為が「軍秩ヲ紊乱シ財界ヲ攪乱シ其ノ他人心ヲ惑乱スル」ものであるかに付て議会の論議に於ては未だ十分には明白にせられなかつた。又仮令〈タトイ〉そこで明白に答へられたとしても、それは、結局は、検察当局並に裁判官の認定に俟たねばならない問題である。殊に「治安ヲ妨害スベキ事項」の意義に至つては解釈上如何やうにも自由に伸縮せられ得る。従つて刑罰法令として極めて危険であり、到底適当な立法とは評し難い。これ立法に際し附帯決議として、「本法ヲ施行スルニ際シ政府ハ厳ニ之ガ運用ヲ慎ミ苟モ言論自由人権尊重ノ主旨ニ悖ル(もとる)コトナキヲ期スベス」との希望を表明せしめた所以である。既に之が現行法として施行されて居る今日に於ては、現実に之が実施に当る検査当局並に裁判官に対し、本法が専ら所謂怪文書の取締の目的を以て制定せられた臨時立法であり、怪文書以外の出版物に付ては其の適用のないものであることを明記し、漠然たる用語の解釈に当つても、時流に超然として専ら法の精神に従つて冷静に之を解釈すべきことを希望せざるを得ない。
以上で、田中二郎の論文「不穏文書臨時取締法に就て」の紹介を終える。明日は、「不穏文書臨時取締法」そのものについて、若干の補足をおこなう。