礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

難隠別の難隠はナナに当る(河野六郎)

2023-03-29 01:11:09 | コラムと名言

◎難隠別の難隠はナナに当る(河野六郎)

『古事記大成 3 言語文字篇』(平凡社、一九五七)から、河野六郎の論文「古事記に於ける漢字使用」を紹介している。本日は、その三回目。
 文中、○印および△印によって傍点が施されているところがあった。これらは太字で代用した(両者の区別はしていない)。

 古代朝鮮半島に於ける倭人の痕跡については、三国史記の地理志の古地名が想起され今すでに内藤湖南・新村出〈シンムラ・イズル〉両先生によって指摘されている様に、この古地名の中に日本語の数詞に酷似したものがある。三国史記地理志の中に中国風な地名と、土語で示されたその古地名が併記されている所がある。その中に
  峴県  一云波兮
  谷郡  一云于次呑忽
  重県  一云難隠
  谷城県 一云頓忽
大体、中国風に古地名を改めた時、古地名に因んで漢字を選んでいるのが原則であるから、これらの地名も同じ原則で考えると、密波兮の波兮は他の地名にも見え、峴に相当すると考えられるので、密=三となる。これはこの外にも、玄驍県 本良火県 一云良火 の例があり、推はmir-「推ス」の訓読であるから、三をmir-或いは mir-(mid-?)を表わしている。于次呑忽を五谷郡としたのは呑が谷に当ると考えられ(日本語タニ参照)、又忽は郡県を表わす高句麗語であるので、于次が五に相当する。于は本によると与となっているものがある。どちらにしてもイツとはやゝ遠いが、関係づけられなくはない。七重県の古名難隠別は恐らく難隠と別で、難隠はナナ、別はヘに当るのではないか。十谷城県=徳頓忽の場合は、忽は上の五谷郡の場合と同じで、郡県或いは城郭を示すし、頓はやはり上の呑と同じく谷【タニ】を表わすので、十は徳となる。これはトヲと頭子昔で一致する。これらの土地は、三峴県は江原道楊口、五谷郡は黄海道〈コウカイドウ〉瑞興、十谷城県は同じく谷山、そして七重県は京畿道〈ケイキドウ〉積城にそれぞれ比定されるから、若しこれらの古土名がそこに嘗て〈カツテ〉居住した民族の言語を反映したとすれば、倭人の痕跡は南部に限らず、古くは中部にまで及んでいることになろう。これらは、考え様では倭人の北方から南下の迹〈アト〉であるかも知れない。
 それはともかくとして、魏志東夷伝には上記各民族の外に、沿海州方面に挹婁〈ユウロウ〉という恐らくは旧アジア人の民族が居り(三上次男説)、又済州島には州胡というのが居て、東夷伝によると、「言語不与韓同」とあるから、又別系統の言語を話していたらしい。かように古代の半島には漢・貊・韓・倭、其他さまざまな言語が話されていたのである。
 やがて貊族の高句麗は四周の民族を従え、楽浪郡を亡して中国の勢力を駆逐し、半島北半に一大王国を作った。しかし、高句麗ほどの文化を持ちながら、その言語の記録は官名・地名・人名など断片的なものしか判っていない。例えば、東夷伝に「溝漊者句麗名城也」の記事があり、この溝漊は三国史記の地名に忽となっているが、満洲語のgoloに音義共に近い。又地名に、
  黒郡 一云黄壤郡 本高句麗 今勿
  穀県       本高句麗 仍伐
とあって、高句麗語で「土地」のことをno (na?)といったらしい。これも満洲語naに近い。これらから或いはツングース語系の言語かとも考えられる。高句麗以後の民族状況から逆に考えても、この仮設を支持するらしいが、もとよりこれらの単語だけでは、言語の系統帰属を論断することは出来ない。〈一七八~一八〇ページ〉【以下、次回】

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