◎登壇五分前、岩田富美夫が慌てて飛んできた
『人物往来』第四八号(一九五五年一二月)〔特集 昭和重大事件の真正報告〕から、北昤吉の「謀られた北一輝」という記事を紹介している。本日は、その二回目。
暗黒裁判と腹切り問答
兄〔北一輝〕が逮捕されたのは、事件後三日目の二十八日で、軍法会議に附されて、渋谷の陸軍刑務所に収監された。母の生家には日蓮か日朗かから伝えられたといわれる古い法華経の経文〈キョウモン〉があって、これが兄の所有となり監房でも日夜、その由緒ある経文を朗々と読経〈ドキョウ〉していたということである。兄は「日蓮は法華経の宣伝者だが、自分は法華経の行者である」といって大変帰依〈キエ〉していたようだった。
軍法会議は暗黒裁判そのものであった。
特にこの裁判の裏面には十月事件以来、軍部内の皇道派と統制派と称する二つの派閥に真二つに割れ、真崎〔甚三郎〕大将(皇道派)罷免問題、相沢〔三郎〕中佐(皇道派)の永田〔鉄山〕少将(統制派)刺殺事件と相次ぐ事件が起り、不気味な底流が横たわっていた。
その為にこの裁判は如実に派閥抗争の現われを示し、統制派は叛乱に直接何の関係もな い兄に対して、色々な罪状をつきつける謀略に躍起となった。統制派の皇道派に対する粛清工作でもあったのである。
この裁判のさ中、磯部〔浅一〕が獄中から三本の手紙を書いた。彼の妻が面会に行った時、この手紙がこっそりと憲兵より手渡され、私と岩田富美夫〈フミオ〉はこれを写真に撮って掲載した。
この手紙の内容は、兄が若くして書いた「国体論及び純正社会主義」「日本改造法案大綱」などの著書が、この裁判で共産主義とされている、というのである。それは「改造法案」の中にうたわれている「田畑の個人所有は十町歩以内、個人の事業経営資本は一千万円単位内」等ということから、危険思想だというものであった。戦後マックァーサーが行った農地改革は二町歩である。これと対比してみれば、自ら〈オノズカラ〉この判断が如何たるなるものであったかは、想像出来よう。
この頃、私の頭の中には磯部が「寺内〔寿一〕陸相をたたけば、軍法会議は滅茶苦茶になる」といったことであったが、丁度その年、十一年〔一九三六〕の選挙に打って出て、私は始めて当選した。早速私は兄を無罪から救うため、国会で二・二六事件の暴露演説をしようと、郷里から直ぐ東京に帰り演説の草稿を書いた。砂田重政〈スナダ・シゲマサ〉にこれを見せたら、砂田は「昔の政友会なら三十万円で、これを買収するのになア」と笑っていた。
翌十二年〔一九三七〕の一月、休会あけの国会で私はこの草稿を携えて登院した。いよいよ登壇五分前になった時、岩田富美夫が慌てて私の処へ飛んで来て、「演説を止めろ、若し暴露演説をしたら、北は即刻死刑になるゾ」という。止むなく私は無念の臍〈ホゾ〉を噛む演説を断念せざるを得なかった。それも兄は刑死したのだから、今思うと残念の気がする。
こうした騒ぎの中で、右翼の中には悪い奴がいて、大川周明や重藤千秋〈シゲトウ・チアキ〉等兄の逮捕を勧めた人をおどして、一万円づつ捲き上げた連中がいた。とにかく私は演説を止め、何処へもはけ口のない憤りに懊悩し乍ら議席についた。すると、さかんに野次を飛している者がいる。見ると、政友会の浜田国松君である。私は「浜田! 演壇に上って質問しろ」と叫んだ。そこで浜田君は壇上に登り「満洲に上った台風は九州に上陸し、東京に来る」という寺内陸相に対する痛烈なる粛軍演説となり、これが有名な腹切り問答となったのだ。正にこの問答に私が火付役となったのであった。当時の議会には中野正剛〈セイゴウ〉等という錚々たる連中が居並んでいたが、彼等は少しも騒がず、私は後席からさかんに公憤と私憤とを含めて浜田君を声援した。
その夜、小会派代表だった清瀬一郎君が猪を手に入れたからというので宴会を催した。この頃私は無所属だったのでこの会に招かれたが、この時、広田〔弘毅〕内閣は総辞職に決したという知らせを耳にし、一月二十四日辞職したのである。【以下、次回】
岩田富美夫(一八九一~一九四三)は、大正・昭和前期の国家主義者。北一輝に私淑した。二・二六事件のあと、西田税を匿ったという。砂田重政(一八八四~一九五七)は、弁護士、政治家。二・二六事件当時は、衆議院議員(立憲政友会)。重藤千秋(一八八五~一九四二)は、陸軍軍人で、満州事変の工作者のひとり。二・二六事件当時は、歩兵第十一旅団長、陸軍少将。