礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

責任を問われれば責任は負う(北一輝)

2023-03-06 04:57:33 | コラムと名言

◎責任を問われれば責任は負う(北一輝)

『人物往来』第四八号(一九五五年一二月)〔特集 昭和重大事件の真正報告〕から、北昤吉の「謀られた北一輝」という記事を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

   気 の 強 い 母 親
 軍法会議は初めから形式的なものであり、最初から死刑にするという予定のもとに行われていた。裁判はすべて非公開で、その真相は何ら国民の誰一人知らぬうちに進められた。
 判士の一人吉田悳〈シン〉大佐は二度も無実であると進言し、極刑は絶対いけないと反対して寺内〔寿一〕陸相、梅津〔美治郎〕陸軍次官に陳情した。
 一方、私は国会を通して「統制派の建川美次〈タテカワ・ヨシツグ〉は三月事件に関係があるのに、何故辞めないのか。真崎〔甚三郎〕大将は二・二六事件で逮捕され釈放されたが、これはどういうことか。兄が刑を被るなら真崎をも厳罰に処せ。それが出来ぬなら陸相は辞職せよ」と頑張って運動したのだが、寺内陸相が裁判長となる軍法会議ではどうしようもなく、遂に一票の差で死刑と決定した。
 如何にこの決定が無暴〔ママ〕であったか。この法廷に列席した「向阪」という法務官は、死刑の判決に深く心を痛め、兄の命日が来る度に麻布の曹洞宗賢宗寺に詣で、心から詫び兄の冥福を祈っていた。
 この賢宗寺というのは、鍋島侯の菩提寺で兄より先きに死刑になった青年将校の遺骨が安置してあり、兄の処刑後、遺骨の一部を分けて、これらの将校達と共に共同墓地を作ろうとしたが、「死刑囚の遺骨は先祖の墓に埋葬すべし」という火葬場規則にもとずいて、兄の遺骸は警察の監視つきで、佐渡の墓地に葬られた。――余談になるが、後日、兄の部下であった人が、兄の墓石を作ろうというので、兄と昵懇〈ジッコン〉の間柄であった中国の張群氏から寄附金の喜捨を仰いだが、その人はその金を私消して未だに出来ていない。
 そうした因縁のある寺なので、命日には知人達が参会してこの寺で追悼会を催していたのである。
 さて、話が前後するが、二・二六事件が起きた時、私は母〔リク〕を佐渡に連れ行き、一切事件に関係のある話や新聞を伏せて置いたが、兄の処刑が近づいたので、電報で郷里の母と菩提寺の住職を呼び寄せた。住職を呼んだのは兄の戒名を付けて貰うためであった。兄は数年前から法華経を信仰し、菩提寺は東本願寺派なのでこの寺の住持〈ジュウジ〉に戒名を付けて貰い葬られることは頑固に拒否していたのだが、火葬場規則でそれは出来なかった。
 母は間もなく上京して来たので、私は思い切って兄の死刑宣告を伝えた。ところが、既に母はこの事件をよく知っていて、顔色一つ変えなかったばかりか、懐中から朝日新聞の号外を取り出して、見せたのには、少なからず私も驚いた。
 実際、母は気の強い人だった。以前にもこんな話があった。兄は幸徳秋水らの主宰する平民新聞の熱心な支持者であったが、秋水が逮捕された時、秋水のポケットから友人手帖が押収された。その中に兄の名前が記されていたので、刑事が三、四回も家にやって来た。母はこれに憤慨して「輝(母はいつもそう呼んだ。実名は輝次郎、一輝は支那より帰って改名したもの)が悪いことでもしたのなら、さっさと連行して叩き斬ったらどうだ、そうでなければ、空巣狙いのようにコソコソ来るナ」と一喝喰わせたことがある。
 こうして、私は母の上京を待って死刑の二日前、八月十七日に陸軍刑務所に行き兄に最後の面会を求めた。

   冷然たり死への態度
 刑務所では予め「家事の話は差支えないが時局の話は固く禁止する。面会時間は五分」ということをいい渡されたが、実際は十分位も費したであろう。
 私は兄に会うと、手短かに母の事を話し、明日面会するよういったが、兄は「私は船で遠くへ行って行方不明になったとでも思ってくれるように、母に伝えて慾しい」といって母に会うのを嫌がった。恐く母が悲しむのを見るのがつらかったのだろう。そして兄は「私はこの事件には何らの関係はないが、これは私の思想の抹殺の為に行われたものだ。だが、私の書物を愛読していた幾人かの青年将校を死へ追いやっているので、私は責任を問われれば、責任は負う。例え、僕が無罪放免になっても、他の諸君の後を追って自殺する」と、既に兄の死に赴く態度は悠然というよりも、むしろ冷然とした様がありありと見えた。この時、兄の耳には支那事変が伝わっていて「君などは陸軍を怨まず、自然に放って置いて呉れ。それよりも支那で何か騒いでいるようだが、これは大きくならぬように、何としても喰い止めてくれ、これだけは頼む」と心配そうにいい、私は生きている兄に向って、遺骨の相談をしたが「他に遺言はない。私の家内や大輝(養子)は外の人に頼んであるから、母だけは面倒を見てくれ」といっただけである。
 その翌日、母と弟と嫂〈アニヨメ〉は面会した。ここでも母は随分と気丈で、兄にこういった。
「男は生きている間好きなことをやって死ぬのが一番幸せだ。お父さん〔慶太郎〕も好きな酒をさんざん飲んで、五十才で死んでいった。お前も自分の好きなことをして死んで行くのだから幸せだ」兄には、何よりの餞〈ハナムケ〉の言葉であったであろう。
【一行アキ】
 昭和十二年〔一九三七〕八月十九日、良く晴れた日であった。この日、兄、一輝の数奇な運命は数条の硝煙と共に、孤空の中へ消え去ったのである。
 処刑に際して兄は「目隠しの必要はない」と係官に断ったが、規則により白布で隠された。西田税〈ミツギ〉は目隠しされた侭、「われわれも天皇陛下万才を唱えて死にましょう」と兄をさそったが「私は万才はいわないで置こう」といい、この時立会った法務官の話によると「自ら死を慾している態度であった」ということである。 (民主党代議士)

 文中、「向阪」とあるのは、陸軍法務官の匂坂春平(さきさか・しゅんぺい、一八八三~一九五三)のことか。匂坂は、五・一五事件と二・二六事件の軍法会議で、主席検察官を務めたことで知られる。
 最後のほうに、「その翌日、母と弟と嫂は面会した」とある。この「弟」とは北昤吉を、「嫂」とは北一輝の妻・ヤス(すず子)を指すのであろう。

今日の名言 2023・3・6

◎お前も自分の好きなことをして死んで行くのだから幸せだ

 北一輝の母リクの言葉。リクは1936年8月18日(一輝が処刑された日の前日)、陸軍刑務所で一輝に面会し、そう語ったという。上記コラム参照。

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