礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

大化会員ハ天下何者ヲモ怖レザルベシ

2023-03-07 00:08:44 | コラムと名言

◎大化会員ハ天下何者ヲモ怖レザルベシ

 一昨日の当ブログに、「登壇五分前、岩田富美夫が慌てて飛んできた」という記事を書いた。「岩田富美夫」という人物は知らなかったが、「大化会」の会長を務めるなど、当時の右翼陣営においては、かなりの「大物」だったようだ。
 本日は、『司法研究 第十九輯』(司法省調査課、一九三五年三月)という本から、第二章「猶存社系団体」の「六、大化会」のところを紹介してみたい。

     、大 化 会

 大化会は岩田富美夫の率ゆる団体にして、大正十二年〔一九二三〕六月牛込区加賀町二丁目五番地に於て左記綱領を掲げて創立せられた。
    綱 領
 、大化会ハ日本ノ対世界的使命ヲ全国ニ理解セシメ以テ日本ノ合理的改造ヲ断行スル根源的勢力タルヲ目的トス
 、大化会ハ奴隸的日本ノ旧思想ヲ排斥ス同時ニ模倣反響ヲ事トスル欧米ノ旧思想的革命ヲ排斥ス
 、大化会ハ全国民ヲ根基トシテ其ノ間ノ指導的青年ノ人格的結合ヲ計リ以テ全国ニ号令スルノ日ヲ努力ス
 、大化会ハ日常ノ小事非常ノ大事ニ際シテモ原始的武人ノ典型タルベク、剛健、素朴、簡易、雄大、正義ヲ全生活ニ実現スベシ
 、大化会員ハ天下何者ヲモ怖レザルベシ、只正義ノ審判最モ峻厳ナルコトヲチ誓明ス
 主幹岩田富美夫は明治二十四年〔一八九一〕青森県に生れ郷里に於て小学校卒業後村役場の書記等を勤めて居たが、明治四十三年〔一九一〇〕頃上京、土屋大学配下となり後日本大学に学び大正四年〔一九一五〕卒業と共に支那に渡航し或は馬賊の群に投じ、或は北一輝等と共に支那革命運動に活躍したるが、大正八年〔一九一九〕北等と共に帰国して猶存社に入つた。其後大正十一年〔一九二二〕赤露シベリアに入り露国官憲に捕へられ之を脱して帰国する等の行動があつたが、大正十二年〔一九二三〕二月猶存社が解散せらるるに及び同社の青年部隊を率ひ支那以来の盟友たる清水行之助〈コウノスケ〉、下鳥繁造、山本重太郎、辰川龍之助、中込富三郎、荒巻退助等と共に大化会を組織した。而して前記牛込区加賀町二丁目五番地に道場を開き、柔道部は寺田稲次郎、相撲部は出羽海部屋の両国其他が師範として猛練習を為して闘士を養成し、実行部主任たる下鳥繁造が之を率ひて活躍し、暴力団的存在として今猶世人に知られてゐる。
 行動の主なるものを挙れば次の如きものがある。大正十二年九月十六日関東大震災に際し大杉栄等が甘粕〔正彦〕憲兵大尉等に依り殺害せられ、同年十二月十六日労働運動社に於て社会葬を営まんとするや会員下鳥繁造外数名は之を以て社会葬に名を藉り主義の宣伝を為すものなりとし、本郷区片町十五番地の同社に至り大杉の遺骨を奪取して検挙せられた。之は大杉の遺骨奪取事件として知られ大化会の存在を一躍社会的視野に入らしめたる事件である。次いで大正十四年〔一九二五〕二月黒龍会主唱の純正普選期成会組織せらるゝや之に加盟し、所謂純正普選運動に努め、同年五月十一日には内田良平釈放に関し右翼団体の会合を催し請願書を司法大臣其の他に提出した。越えて昭和二年〔一九二七〕三月十六日には震災手形反対の宣言書を発表し、昭和五年〔一九三〇〕七月七日には元貴族院議員子爵大河内正敏〈オオコウチ・マサトシ〉並に其の親戚に当る子爵牧野某に対し大河内の長男信威〈ノブタケ〉(異名小川信一)が日本共産党事件に連座したるに対し栄爵と一切の公職を辞すべしとの書面を送り、或は電報を発した。昭和五年所謂倫敦〈ロンドン〉軍縮条約が論議せらるゝに至るや、九月六日「軍縮条約に関し枢密院の蠢動を警む〈イマシム〉」と題する印刷物を、更に同年十月二十日「倫敦条約問題に関し枢府及軍部諸公に与ふる公開状」と題する檄文を共に枢密顧問官、要路大官、政界名士、軍人等に配布した。之は当時日本国民党等が倫敦条約反対の立場に於て政府並に同条約支持顧問官を猛撃せるに対抗し国策として軍縮の必要なる事を力説し、倫敦条約並に濱口〔雄幸〕内閣を支持したるもので、両者鋭く対立し実力に依る正面衝突を伝へられた程であつた。又昭和六年〔一九三一〕所謂弗買〈ドルガイ〉問題喧伝〈ケンデン〉せらるゝや、十月三十日「金融資本の妖兇池田成彬〈シゲアキ〉を弾撃す」と題し弗買問題に関し三井膺懲〈ヨウチョウ〉の檄文約五万部を作成、貴衆両院議員並に全国著名銀行会社等に配布し、更に同年十一月五日には三井八郎右衛門〈ハチロウエモン〉其他三井重役に宛て同問題に対する詰問状を発送した。
 以上の外下田歌子事件、飯野吉三郎〈イイノ・キチサブロウ〉事件、神楽坂事件、前橋水平社事件、野田醤油争議事件等幾多の事件を起してゐるが、本会の最も活躍したのは大正末期頃で、其後行動隊長格の下鳥死し清水、山本、辰川、寺田、茂木久平等の主要人物脱会したる後は往時の活気を失ひ僅かに其の名を留めて居るに過ぎない。会長岩田は最近に於いては「やまと新聞」の実権を握り「大勢新聞」にも出入してゐる。

 大河内正敏(一八七八~一九五二)は、物理学者・実業家。東京帝国大学教授、理化学研究所所長、貴族院議員などを務める。「子爵牧野某」とあるのは、子爵、貴族院議員の牧野一成(まきの・かずしげ、一八八〇~一九五八)のことであろう。

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