◎隠しておくだけで飛ばすことができないのです
安藤良雄編著『昭和政治経済史への証言 中』(毎日新聞社、一九七二)から、遠藤三郎元陸軍中将の証言を紹介している。本日は、その四回目。
航空兵器総局長官に就任
そうこうしているうちに天下り式に軍需省というものができました(昭和十八年十一月行われた行政機構の大変革の一環として、商工省の商業行政部門を除いた全部と企画院、陸海軍の民間航空工業の監督行政部門を統合して軍需省が設定された。航空工業行政のために航空兵器総局が設けられたが、職員にはすべて陸海軍現役軍人、軍属があてられた)。そこで陸海軍の航空の生産だけを一本にするというのです。そんな生産だけをいっしょにするというような請負仕事みたいなものはだめだ、技術研究もいっしょにしなくちゃだめだという意見を出したけれどもそれは陸海軍とも承知しない。軍需省の役人は文官なので、そんなところにまかせられるか。研究は陸海軍でやって、陸海軍の注文を軍需省のなかにつくった航空兵器総局で受けてやるのだということですね。
ところがいよいよ人事の問題になったら、まるでオリンピックに選手を出すようなもので、陸海軍各々最精鋭を出して、一本になった航空兵器総局内においても陸海軍がそれぞれ他方を牛耳ってやろうというわけです。ほんとうに第一人者がそろったわけなのだけれども、長官は一人だから、この長官を陸海軍どちらから出すかが大問題でした。陸軍はもちろん海軍を牛耳るに足る最も有力な大将を擬している。ところが海軍は、嶋田(繁太郎)海軍大臣を先頭に立てて、東条さん(英機。当時首相兼陸相、軍需相)に大西滝治郎中将が直談判ですわ。「遠藤を長官にせんことにはいっしょになるのはごめんだ」と。大西さんは私より年も上だし、少尉任官が私より一年先なのです。しかし中将になるのは私のほうがちょっと先なのです。だから向こうはそれを知っているものだから、私を長官に、大西さんが総務局長、女房役ですね。しかし陸軍部内の空気からいうても私なんか行く柄じゃないし、私自身行ったって何も仕事できんし、また徳義上も私の先輩である大西さんを部下にすることは忍びないからだめだといったのですが、大西さん何といってもきかない。それで陸軍部内の反対があったにもかかわらず私行ったのです。大西さんはほんとうに縁の下の力持ちでよくやってくれましたよ。
私は陸海軍のけんかをやめさすことを主目的として行ったのですが生産実嫌は上がりました、軍需省ができましてから。けれども、なにせ資材、特にアルミが足りません。制度上はかなり行くようにできているにもかかわらず、陸海軍の実力がものをいいましてね。軍需省に総動員局(前身は企面院)というのができて、椎名君(悦三郎。現代議士、外相)が局長になって、そこで物資を分配するのです。航空第一主義というのは国策できまっているから、航空兵器総局に物資をたくさん分けてくれなければいけないわけです。ところが陸海軍に要求されるとみんなやってしまう。だから民需はちょびっとで、航空兵器総局はゼロです。航空兵器総局は陸海軍からもらってくれといって、私にそのむずかしい仕事をやらすんです。椎名君はいまでもずるいけれども、その当時もずるかったね。私が陸海軍に交渉して航空兵器をこしらえる資材をもらってくるのだけれども、一ぺん陸海軍に行ってしまうと、おれのところからやった資材ではおれのところの飛行機をつくらなければいかんぞというのです。工場まで行って監視しやがるものだから、うまくいかんのですよ。それにだんだん物資が不足してくると、それが惨めに生産成績に現われてくるんですな。そのうちに、こんどは爆撃が始まった。工場を疎開せにゃならんというわけで、生産はガタガタと落ちちゃった。しかしその落ち方も油の落ち方から見ればもったいないほどたくさんつくりすぎているのです。つくったって百姓家の庭先や林のなかに隠しておくだけで飛ばすことができないのです。当時、飛べない飛行機をつくるというのでさんざん悪口もいわれたが、そうじゃない、油がないから飛べやせんのです。それで油の状態を見て「それにマッチするように飛行機を生産せい」ということをいうたら、海軍は「もっともだ」というのだけれども、陸軍のほうは「貴様は油のことなんか口出しする必要はない」という。松の根から油を絞っていながらそういうことを言っている。あのいくさの指導は メチャクチャですよ。【以下、次回】
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