礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった

2019-08-11 06:35:57 | コラムと名言

◎横浜市磯子区ではクマゼミのことをオキョーゼミといった
 
『土の香』第一六巻第六号(一九三五年一二月)から、高島春雄の「熊蝉の方言」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 アオゼミ(愛媛県越智郡菊間町)アブラゼミ(静岡県富士郡、岐阜県加茂郡田原村――油臭いから、京都府加佐郡中筋村、高知県香美郡山南村、徳島県名西郡神領村、石井町、高川原村、板野郡御所村、北島村、板西町、川内村、美馬郡重清村、海部郡日和佐村、名東郡北井上村)アミゼミ(京都市)オキョーゼミ(横浜市磯子区)オーシャ(岡山県児島郡)オーゼエ(尾道市)オーセミ(和歌山県海草郡紀三井寺村、那賀郡田中村)オーゼミ(京都市、大阪府、三島郡富田町、岡山県後月郡芳井村)オータカゼミ(和歌山県有田郡八幡村)オニジェーミ(熊本県天草郡大江村)オヤガラ(静岡県岩田郡袋井町)ガイゼミ(京都帀西部——ガイは鳴音の模写かと想つたら報告者はニイニイゼミコゼミアブラゼミチューゼミと呼ぶに対し本種をダイゼミと云ふのがガイゼミに訛つたのではないかと申し添へらる)カタビラ(京都市、京都府船井郡富本村、大阪府北河内郡四条畷村、泉北郡東陶器村、南河内郡狭山村、富田林町、中河内郡高安村、三島郡春日村、三宅村、愛知県東春日井郡小牧町、三重県河芸郡、兵庫県西宮市、兵庫県御影町、岡山県小田邯、愛媛、門司市、小倉市、福岡県企救郡)カタビラシェビ(肥前)カタビラゼミ(京都府船井郡八木町)ガンガン(徳島県勝浦那勝占村)ギンゼミ(徳島県美馬郡郡里村、 三好郡足代村)ギンタ(徳島県美馬郡郡里村)クマセッ(鹿児島市)クマセミ(静岡県下田町)クマンゼミ(静岡県磐田郡袋井町)コロモゼミ(徳島県名東郡八万村、伊勢)【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・8・11(なぜか10位に土肥原賢二が)

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東京ではクマゼミは珍らしい(高島春雄)

2019-08-10 16:20:22 | コラムと名言

◎東京ではクマゼミは珍らしい(高島春雄)

 本日朝、今年初めてクマゼミの声を聞いた。これで今年も、ミンミンゼミ、アブラゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシ、クマゼミと、五種類のセミの声を聞いたことになる。
 ところで、『土の香』第一六巻第六号(一九三五年一二月)に、高島春雄の「熊蝉の方言」という文章が載っていた。本日は、これを紹介してみたい。

   熊 蝉 の 方 言   高 島 春 雄

 熊蝉は本州・四国・九州の特産で体漆黒雄偉且つ鳴声が頗る高いのでよく知られて居る。古名をウマゼミと云ふ如くクマは一つには体の雄偉を表現して居るのであつて内地産の蝉では最大者である。今一つは其の体色に由来し御承知の如くクマは国語では黒を表現して居る。本州も何処にでも居るといふ訳でなく東京以西、それも普通に鳴声を耳にし得られるのは箱根山以西である。所謂江戸つ子でクマゼミの声を聴いたといふ人は殆ど無からう。東北人は其の鳴声を想像するだに出来ぬ。クマゼミの居らぬ所に方言は無い。後に掲げる如くクマゼミの諸方言は箱根以西東海道から近畿・中国・それに四国と九州に色々行はれて居るのである。クマゼミの仲間は動物地理学上の南帯分子(東洋区系種)で本邦では琉球や台湾が本場であるのだが,九州・四国更に本州を北上分布して居る訳である。クマゼミは南帯分子の本州に於ける北上の一例と私達は見做して居る。其の北進の眼界は奈辺に存するかは興味ある事象であるが、各地に於ける同好者が未だ少くてはつきりした事が申せない。私が蒐め得た資料及び結論は次の通りである。
 千葉県では谷津海岸で加藤正世氏が一回聴いて居られる。東京府では不思議に何れも大東京市内での観察で其の例は相当ある。之は矢張り東京には人が多く随つて注意する士も多いので聴取例が多数に上つて居るのかも知れない。兎に角東京ではクマゼミは珍らしい蝉で之を聴いた人は蓋し僥倖と謂はねばならない。世田谷区野沢町(昭和五年八月十四日、昭和六年八月二十一日、昭和八年八月二十二日より二十四日まで 以上何れも加藤氏)、大塚(加藤氏)、本郷区駒込曙町(昭和十年八月三十日 高島)、三田桂公爵邸内(加藤氏)、芝区高輪御殿内(昭和七年夏 牧野信一氏)、品川区東品川(昭和八年八月 黒田隆治氏)、下戸塚(大正四年九月上旬 某氏)、豊島区雑司ケ谷町(大正十二年九月三日、昭和八年八月 何れも某氏)、豊島区西巣鴨(昭和四年か五年の夏、阿部英三氏)、板橋区石神井公園(今夏 加藤氏)、其の他東京で聴かれた士に川合修二氏、内田亨氏、小田文吉氏等がある。埼玉県では深谷昌次氏よりの御来示に拠れば浦和市でに大正十三年八月、昭和七年八月二十九日、昭和八年八月十六日の三回。群馬県では加藤氏に拠れば「小学校時代に友人から群馬県で獲れたと云ふクマゼミを数頭貰ひ受けた」とある。長野県では下伊那郡教育会自然調査部報告に拠ると下伊那郡に産する様である。福井県からの報告もある。結局「本州では千葉県・埼玉県・群馬県・長野県・岐阜県・福井県を連ねる線を以てクマゼミ分布の限界とし之以北の地には一頭も居らぬと称しても過言でない。千葉県・東京府・埼玉県・群馬県では極めて珍らしく神奈川県も箱根以西は普通であるが以東は概して尠い」と云ふ結論が成立つ。之を図示すると次の如くで【図・割愛】年平均気温摂氏十三度の等温線(之は木州に於ける動物分布上重要なる意義を持つて居る)を超えて居らぬ。右に誌した地方のクマゼミ分布に関し誌友諸賢から新なる資料を提供して頂ければ幸甚である。クマゼミ方言も此の区界線を超えた地方に存在して居らぬのは当然である。次に五十音順に掲げる各地方言は筆者自身並びに昆虫趣味の会が蒐集したのを整理せるもので、後者の借用に関しては同会代表者の加藤正世氏に御礼を申し上けねばならぬ。【以下、次回】

*このブログの人気記事 2019・8・10(9位に珍しいものが入っています)

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本日8月9日は、哲学者・戸坂潤の命日

2019-08-09 08:01:57 | コラムと名言

◎本日8月9日は、哲学者・戸坂潤の命日

 本日は、哲学者・戸坂潤(一九〇〇~一九四五)の命日である。二〇一四年一二月一日、私は、このブログに、「戸坂潤と『日本イデオロギー論』(1935)」というコラムを寄せ、その前半で、次のように書いた。

 本日は、戸坂潤という哲学者について述べてみたい。ウィキペディアの「戸坂潤」の項には、次のようにある(二〇一四年一一月三〇日現在)。

 東京市生まれ。青南小学校、東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年〔大正13〕京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)講師、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師、神戸商科大学〔現・兵庫県立大〕講師、大日本陸軍少尉等を経て、1929年〔昭和4〕大谷大学教授就任も、翌年検挙。1931年〔昭和六〕から1934年〔昭和9〕まで法政大学講師。後に同大教授となる。
 もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎〈キタロウ〉の下で哲学を学ぶ。西田に師事する一方で、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして西田や田辺元〈ハジメ〉らを批判した。
 また、彼は1932年〔昭和7〕に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、研究組織部長から機関誌『唯物論研究』の二代目の編集部長、事務長等を務めたが、〔1938年11月29日〕治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。死因は疥癬〈カイセン〉と伝えられている。東京開成中学校で同級であった町村金五(町村信孝の父)は、エリートコ-スを歩み、1945年〔昭和20〕4‐8月には警視総監であった。
 戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた。

 よくまとまっているが、治安維持法で逮捕された年は明記しておくべきだろう。また、一部、気になった箇所があった。「観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた」とある箇所は、「『観念論哲学』に対する批判を旺盛に行ったが、その死は、戸坂によって『観念論哲学者』と名指しされた哲学者(田辺元など)からも惜しまれた」などとすべきではないのかと思った。
    *    *    *
 その後、ウィキペディア「戸坂潤」の項を参照することはなかったが、たまたま、昨日、参照したところ、次のように、変更されていた。

 東京市生まれ。青南小学校、東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)講師、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師、神戸高等商業学校(戦後神戸商科大学、現兵庫県立大)講師、大日本陸軍少尉等を経て、1929年大谷大学教授就任も、翌年検挙(一週間で釈放)。1931年から1943年まで法政大学講師。後に同大教授となる。(1933年に法政騒動で教養学部辞職。余波は続き1934年に文学部解職。1935年、1938年検挙。1940年保釈出所するも1944年に東京拘置所、空襲のため1945年に長野刑務所へ移送。)ちなみに三木清は1930年に検挙されており、その意味で戸坂は三木の後任だったと言える。
 もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。西田に師事する一方で、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして西田や田辺元らを批判した。
 また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、研究組織部長から機関誌『唯物論研究』の二代目の編集部長、事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。享年46。死因は疥癬と伝えられている。なお、東京開成中学校で同級で治安維持法で検挙された人物として村山知義がいる。
 戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は戸坂から「観念論哲学者」と批判された人々(田辺元など)からも惜しまれた。

*このブログの人気記事 2019・8・9(8位のクイチエ・マヤ語は久しぶり)

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「蝉の種別的方言集」について(高島春雄)

2019-08-08 08:01:30 | コラムと名言

◎「蝉の種別的方言集」について(高島春雄)

 昨日、紹介した『土の香』第八巻第一号(一九三二年一一月)に、もうひとつ、蝉に関わる小文が載っている。本日は、これを紹介してみよう。

 「蝉の種別的方言集」について  東京 高島春雄
 
 肥後の能田太郎氏の拙文に対する御批正は拙文の長所とも申すべき処を少しも察知されず見当違ひの非難故〈ユエ〉筆者として小生大いに不本意に思つて居ります別に誌上では論戦を開きませぬが能田氏には一応愚意を申し述べることに致しました、動物方言を取扱ふ士は或る程度まで動物学の智識を具へる様に致し度く、さもないと如何程〈イカホド〉方言の採集なり取扱ひ方なり上手でも正しい結果を得られないことになると愚考致します「方言」所載の拙文は能田氏に味噌くたにやられる程無価値なものとは考へて居りませぬ、唯色々と御高教下さつたことに対しては同氏に深甚の敬意を表して居ります。

 著名な動物学者・高島春雄(一九〇七~一九六二)が、まだ若かったころの文章である。雑誌『方言』に、「蝉の種別的方言集」という論文を発表したところ、雑誌『土の香』で、熊本の方言研究家・能田太郎(一九〇三~一九三六)に酷評されるということがあったようだ。高島の論文、野田の批評、ともに未確認。
 なお、この高島春雄の小文は、構成といい、言葉の選び方といい、よく練られた名文であって、研究などに対し他人から酷評されて反論したいような場合には、ぜひ参考にしたいと思ったものである。

*このブログの人気記事 2019・8・8(9位にきわめて珍しいものが)

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あぶら蝉は「インギリ」、にいにい蝉は「チイチイゼミ」

2019-08-07 06:15:52 | コラムと名言

◎あぶら蝉は「インギリ」、にいにい蝉は「チイチイゼミ」

『土の香』第八巻第一号(一九三二年一一月)に、村田鈴城という人が、「多摩の俚俗 二」という文章を寄せていて、その中に、「蝉の方言」という項がある。本日は、これを紹介してみよう。

○蝉の方言
春 蝉   マツムシ
あぶら蝉  オヲゼミ、インギリ、インギリギリ
にいにい蝉 チイチイゼミ
つくつくほうし オホシンツク、オホシンツクツク
みんみん蝉 ミンミン、ミインミン
ひぐらし  ヒグラシ。、カナカナ
雌 蝉   オウシ、ツンボウゼミ
蝉の総称  セミ
 方言はいづれも其の鳴声を名とせるものゝ如し

 多摩(北多摩・南多摩・西多摩)といっても広いので、どのあたりの方言なのかは不明。
 本日も早朝から、セミの声が聞こえてくる。今年は、なぜか、ミンミンゼミが多い。
 アブラゼミの声は、聞きようによっては、たしかに「インギリギリ」と聞こえる。

*このブログの人気記事 2019・8・7

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