◎本日8月9日は、哲学者・戸坂潤の命日
本日は、哲学者・戸坂潤(一九〇〇~一九四五)の命日である。二〇一四年一二月一日、私は、このブログに、「戸坂潤と『日本イデオロギー論』(1935)」というコラムを寄せ、その前半で、次のように書いた。
本日は、戸坂潤という哲学者について述べてみたい。ウィキペディアの「戸坂潤」の項には、次のようにある(二〇一四年一一月三〇日現在)。
東京市生まれ。青南小学校、東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年〔大正13〕京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)講師、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師、神戸商科大学〔現・兵庫県立大〕講師、大日本陸軍少尉等を経て、1929年〔昭和4〕大谷大学教授就任も、翌年検挙。1931年〔昭和六〕から1934年〔昭和9〕まで法政大学講師。後に同大教授となる。
もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎〈キタロウ〉の下で哲学を学ぶ。西田に師事する一方で、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして西田や田辺元〈ハジメ〉らを批判した。
また、彼は1932年〔昭和7〕に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、研究組織部長から機関誌『唯物論研究』の二代目の編集部長、事務長等を務めたが、〔1938年11月29日〕治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。死因は疥癬〈カイセン〉と伝えられている。東京開成中学校で同級であった町村金五(町村信孝の父)は、エリートコ-スを歩み、1945年〔昭和20〕4‐8月には警視総監であった。
戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた。
よくまとまっているが、治安維持法で逮捕された年は明記しておくべきだろう。また、一部、気になった箇所があった。「観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は観念論哲学者(田辺元など)からも惜しまれた」とある箇所は、「『観念論哲学』に対する批判を旺盛に行ったが、その死は、戸坂によって『観念論哲学者』と名指しされた哲学者(田辺元など)からも惜しまれた」などとすべきではないのかと思った。
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その後、ウィキペディア「戸坂潤」の項を参照することはなかったが、たまたま、昨日、参照したところ、次のように、変更されていた。
東京市生まれ。青南小学校、東京開成中学校、第一高等学校(現東京大学教養学部)理科を経て、1924年京都帝国大学文学部哲学科卒業、同大学院進学。京都高等工芸学校(現京都工芸繊維大学)講師、同志社女子専門学校(現同志社女子大学)講師、神戸高等商業学校(戦後神戸商科大学、現兵庫県立大)講師、大日本陸軍少尉等を経て、1929年大谷大学教授就任も、翌年検挙(一週間で釈放)。1931年から1943年まで法政大学講師。後に同大教授となる。(1933年に法政騒動で教養学部辞職。余波は続き1934年に文学部解職。1935年、1938年検挙。1940年保釈出所するも1944年に東京拘置所、空襲のため1945年に長野刑務所へ移送。)ちなみに三木清は1930年に検挙されており、その意味で戸坂は三木の後任だったと言える。
もともとは物理学専攻であったが、後に西田幾多郎の下で哲学を学ぶ。西田に師事する一方で、軍部のイデオロギーに観念論的に影響を与えたとして西田や田辺元らを批判した。
また、彼は1932年に設立された唯物論研究会の創始者の一人であり、研究組織部長から機関誌『唯物論研究』の二代目の編集部長、事務長等を務めたが、治安維持法によって特別高等警察に捕らえられ、敗戦の直前(8月9日)に長野刑務所で獄死した。享年46。死因は疥癬と伝えられている。なお、東京開成中学校で同級で治安維持法で検挙された人物として村山知義がいる。
戸坂は始め新カント主義の立場にあったが、空間論の研究を進めるなかで唯物論の立場に移り、日本の代表的な唯物論哲学者となった。唯物論研究会の事実上のリーダーといってよい。観念論哲学に対する批判を旺盛に行ったが、その死は戸坂から「観念論哲学者」と批判された人々(田辺元など)からも惜しまれた。
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