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全国学力テストについて    千里眼

2007年04月24日 18時30分51秒 | Weblog
 安倍首相の著書「美しい国へ」のなかで、「イギリスでは戦後、国が教育内容をチェックするという仕組みがなく、現場の自主性にまかされていた。そのため、数も満足に数えられない子どもが続出したのである。これを立て直すべく、まず国定のカリキュラムをつくり、全国共通テストを実施した。そして教育省から独立した女王直属の学校査察機関をつくり、五千人以上の査察官を全国に派遣して、国定カリキュラムどおりに教育がおこなわれているかどうかを徹底的にチェックした」(P204)、と述べている。この短い文章のなかにいくつもの誤ちがあるが、今はそれを問わない。ここでは、安倍首相の全国共通テストに対する熱い思いを読み取ってほしいのだ。

 安倍首相らの考えでは、日本の児童の学力水準は低下してきている、それは「ゆとり教育のせいだ。という認識があるものと思われる。「ゆとり教育の弊害で落ちてしまった学力」と「美しい国へ」でも述べている。OECDの世界の学力水準調査では、かって日本は一位であったのに、今やフィンランドにその地位を奪われ、やっと一桁の地位にとどまっているにすぎない、という思いがあるようだ。

 本当に日本の学力水準は低下しているのだろうか。その検証はきちんとおこなわれたのであろうか。OECDの学力水準調査の性質が3回ぐらい前(と思っているが)から変化してきている。知識の量を問う形から読解力や応用力を重視する内容への転換である。日本の児童の成績が低下するのは当然である。したがって、この調査を学力低下の論拠に挙げることはできないはずである。私自身は、この調査とはかかわりなく、感覚的に日本の学力水準は低下してきているのではないかと思ってはいるが。そして、それは日本における格差社会の進行と直接かかわっているのではないかと思っているのだが。

 「学力とは何か」という考察を深めることのない「学力水準テスト」に何の意味があるのか。テストの内容はどのようなものであったのか。各新聞、テレビのニュースを見ていても、この点についての論及がないのは、私にとっては不思議でならない。

 安倍首相は、「バウチャー制度」の導入を以前から主張している。つまり、自由競争の原理を教育の場に導入しようとしているのだ。犬山市教育委員会は「競争原理を教育現場に持ち込むことは市の教育理念と相いれない」として、全国の公立学校で唯一、全国学力テストへの不参加を決めた。各校の学力水準が、「バウチャー制度」での学校選択の一つの指標になるのは自明の理である。「バウチャー制度」と全国学力テストは構造的に連結しているのだ。

 学力水準世界トップの地位を連続獲得しているフィンランドで、このような全国学力テストがおこなわれてはいない。必要がないのだ。教育に対する政府の統制を排除し、教育現場にほとんどの権限をまかせているからである。

 教育三法の改正内容の諸点は、すべて安倍首相の著書「美しい国へ」に述べられている。見事なほど一致しているのである。そして、その内容は見事なほど、教育水準一位のフィンランドの教育改革とまったく正反対の方向を目指している。詳しくは、私のこのブログへの2月19日の投稿「フィンランドの教育改革」を見てほしい。
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「正気が試される時代」吉岡氏の一文。       ネット虫

2007年04月24日 11時36分03秒 | Weblog

「わたしたちの正気が試されている。」
  吉岡忍(作家)
  朝日新聞2007.4.19

人はだれも、廃墟のイメージを持っている。世の中が崩れ、終末を迎えるときの光景だ。普段、口にこそ出さないが、人間の心の底にはそういう不気味なものが必ずある。長崎の伊藤一長市長に対する銃撃事件を知ったとき、とっさに私は、世の中が壊れていくと思った。
世の中の終末を、真っ暗な闇だという人もいるだろう。別の人は、紅蓮の炎が渦巻き、建物が崩れ落ちていく光景を思うかべるかもしれない。多くの人間たちが狂気に駆られ、「殺せ」「やっちまえ」と叫んでまわるさまを思い浮かべる人もいる。新聞やテレビを通じて、戦争やテロの残酷さ、地震や津波の洪水の惨状を見聞きしている私たちには、この世の崩壊を思い描くことは難しくない。
だが、私にはそういうどぎついイメージはない。あるのはもっと淡泊な、あっさりした廃墟の景色である。 
まずそこは、きらきらと明るいにちがいない。人間たちは、自分以外のことは考えたがらない。あれを食べたい、これを着たい、この人が好き、あれもこれもしなくちゃ、と少し忙しく、少し幸福だ。しかし、自分の忙しさや快適さや幸せの邪魔になるものについては、おそろしく不寛容だろう。無視する、キレる、あるいはひょっとして殺すかもしれない。明るくて、無知。忙しくて、攻撃的。快適で不寛容。幸福で、暴力的。そんな人間たちがあふれかえった社会。それが、私が思い描く廃墟のイメージである。
今回の事件を知った安倍首相の最初のコメントに、私は失望した。首相は「捜査当局において厳正に捜査が行われ、真相が究明されることを望む」と語ったという。この人は、調べさえすれば、事件の動機や真相がわかると考えているらしい。
世の中はそんなに単純だろうか。幼女連続融解殺害事件や酒鬼薔薇事件を引き合いに出すまでもなく、ここ何年も、本当の動機を不問に付したまま処理された事件が相次いだ。被害者を自殺に追いやるいじめ、親子や夫婦や兄弟姉妹の間の殺し合いなど、きっかけの単純さと結果の凶悪さがどう結びついたのかを解明しないまま、この社会はただ犯人に厳罰を科すだけでやり過ごしてきた。
もうひとつ、イラク戦争のことも付け加えておくべきだろうか。当時のフセイン政権が大量破壊兵器を持っていると非難して始めたあの戦争は、アメリカ政府とそれを支持したイギリスや日本の政府の過ちだった。しかし、責任ある者たちは動機をごまかし、武力を誇示し、相手をねじ伏せてしまえばいい、とばかりに戦争をつづけ、暴力的風潮を世界中にはびこらせた。
伊藤市長を撃った容疑者は、市道工事現場での自動車事故をめぐるトラブルがあったとも伝えられる。そこでキレて、市長を殺したとしたら、いくら捜査しても、あぜんとするほどの短絡さが浮かび上がるだけだろう。そこにあるのは無知と攻撃性、不寛容と暴力だけである。この短絡した行為が民主主義を壊してしまう。歴史と文化、知識と知恵に鈍感な者たちが始める戦争と同じことをする。それこそが、世の中の終わりなのだ、と私は思う。繰り返せば、その薄い表面を明るさと忙しさ、快適さとちょっとした幸せが覆い、飾っている。
世界は終わらない。終わったためしなどないのだが、明るい廃墟は人間の生きる場所ではない。どこのだれが行使するのであれ、武力と暴力にノーを言い続ける、私たちの正気が試されている。

コメント (2)
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