2012年9月29日―11月17日
慶応義塾大学日吉キャンパス公開講座「日本ってなんだろう」を受講しました。
9月29日の3時限目、赤坂憲雄「東北学、新たなステージへ」のレジメより引用。
2回目です。
<2>震災の夏には、鎮魂と供養のテーマがあふれていた。
お盆の季節に被災地を歩いた。四月から五月にかけての頃には、津波に流された家々のコンクリートの土台ばかりが眼についたが、それが急速に雑草に覆われてゆこうとしていた。荒れ野に回帰してゆく被災地からは、あらゆる記憶が根こそぎに奪われてゆくようで、恐怖を覚えた。コンクリートの土台が見えると、妙に安心を覚えた。そこに、花が供えられている姿をくりかえし見かけた。そのかたわらに、お菓子や缶入りのジュースかお茶、壊れた携帯電話、そして写真が置いてあった。別れを告げる言葉を書いた紙が、ビニールに包んで立てかけてある。何人もの名前が見える。
土台しか残っていない民家の庭先に、真新しい高灯籠が立っていた。花が供えられた一角が近くにあった。高灯籠は新しいホトケが、道をまちがえずに自分の家に戻ってくることができるようにと立てられる、目印なのである。この家でも、迎えなければならない死んだ家族のために、建物としての家はすっかり流されてしまったが、その庭に高灯籠を立てたのである。生き残った家族のもとに帰ってきてほしい、という願いが託されているはずだ。
そこからは、延々と草むらにテトラポッドが点在している。まるで恐山の賽の河原のような情景が広がっていた。海辺に出て、荒涼とした海に見入っていると、数台の車に分乗した人たちがやって来る。数十人の人たちはみな花を携えていた。浜辺に集まると、一人一人順番に壊れた堤防に近づいて、海に向かって花束を投げてゆく。親族のなかに遺体の上がらぬ者がいて、その供養のために浜辺へやって来たのか。肉親の死を受け入れることはできないが、それでも何とか区切りをつけようとしている、そんな姿に見えた。みなが花を投げ終えると、海を背にして寄り集まって記念写真を撮った。
その頃から、わたしは自分が被災地巡礼の旅をしているのだと思うようになった。いたるところに、東日本大震災の犠牲者たちを鎮魂するための小さな霊場が生まれていた。そこで、ただ黙って手を合わせることが、いつしかわたしの旅の作法と化していった。
わたしの受講メモから。
「剣舞(ケンバイ)、少年たちが侍姿で踊る。宮沢賢治が詩に書いている。打つも果てるもひとつの命。
垂直に宇宙に向かって行く文化、西とは明らかに違う。
深い悲しみが奥底にある。
小さな祭壇や霊場が被災地にはみられる。
死者たちへの鎮魂なしに復興はありえない。
どうやって魂を沈めたらいいのか誰にもわからない。
夕方になると海に向かっている女性たち。家族が帰ってくるかもしれない。
被災地のあちこちで幽霊がでる、という話がある。
遠野物語、99話。
供養・鎮魂を行うことは死者との和解。
「死者との和解」なくして生きていけない。幽霊と出会っている。
「死者との和解」は宗教の役割。
神社はたくさん生き残っている。
生と死をめぐるテーマ。
共生-亡くなった人たち、今生きている人たち、これから生まれる人たちを含んだ共生。 ヨーロッパにはない独自の文化。
被災地は祈りに包まれている。
宗教をあらためて問い直す。21世紀の震災をきっかけとした私たちのテーマ。」
昨日、「石巻元気商店」から配信されたメールからそのまま引用します。
(自分にできることをささやかでもやろうと思い、インターネットでおでんなど購入してからメールが定期的に配信されてきます。)
「8月11日で東日本大震災から2年5ヶ月となります。
明日は東北の太平洋沿岸で一斉に
本来花火が持っていた「追悼」と「復興」の意味を込めて、
東北を、日本を、明るく、元気にするため花火が打ち上げられます。
石巻市は雄勝町大須港の夏祭りで花火が上がる予定です。
たくさんの想いが込められた花火を見上げ、
多くの人に元気が届くよう願っています。」
2011年8月19日(金)-20(土)にかけて、県の災害ボランティアステーションが運営するバスに乗って、石巻市でボランティアに参加しました。
(一度は自分の目で確かめたいと思いました。結局、これ一回きりで、気持ちがありながらもなかなかその後は行くことができていません。)
車中一泊、夜21時出発、宮城28便でした。
作業内容は、側溝の泥だしのお手伝い。
私はスコップを持って泥を出すだけの体力はないので、土嚢袋に泥を入れるお手伝いと土嚢袋を運ぶお手伝いをさせていただきました。
バスの中でがほとんど眠ることができないまま朝を迎え、「がんばろう石巻」の前で手を合わせ、湊小学校近くでの作業でした。
心配していたよりも涼しく、午後は陽が出て暑くなってきましたが、幸い作業中は雲がかくしてくれていました。
沿岸部の家々や工場の、中は片づけられて土台と屋根と骨組みだけが残っている光景は、テレビで見ているだけと実際に自分の目で見るのとではかなり印象が違いました。その違いを言葉でうまく説明することはできないのですが、自分の足でそこに行くとテレビではわからない匂いや空気感を体で感じました。
事前の説明会に参加して、防塵マスクを用意していましたが、それまで経験したことのない強烈な泥というよりはヘドロの匂いに頭がクラクラし、一度スコップの泥をかいだ手袋は帰宅してから強い洗剤で繰り返し洗っても匂いは消えることなく、山歩き用の革手袋でしたが結局廃棄となりました。
小学期の時計は、3時45分頃を指したまま止まっており、その時はまだ被災された方々が暮らしていらっしゃいました。ボラバスの私たちが岐路につこうとしている時手を振ってくださいました。校庭のお風呂は中越地震のあった新潟から贈られたもののようでした。
直前までそこでは本当に普通の生活が営まれていたんですね。
普通の生活、そのいかにかけがえのないものであるかを3.11は私たちに教えてくれたはずです。
2年5カ月が過ぎ、自分の日常にまみれているとともすれば忘れそうになっていますが、今日は月命日。3.11を忘れない。一人一人の小さな力の積み重ねの先にしか復興はないんだと、その強く感じた思いをこうしてブログで振り返りながら、私自身思い出すことができました。
細々と募金箱を見かけるとお金を入れたり、あしなが基金・赤十字に募金したり、三陸産わかめを買ったり、ほんと小さなことしかできていませんが、これからも続けようと思います。自分にできることを探し続ける気持ちを失わないようにしたいと思います。
写真が携帯電話に入っていますが、アップロードのやり方がわからないのでまた後日いずれアップできればと思います。
→まだまだ続きます。