たんぽぽの心の旅のアルバム

旅日記・観劇日記・美術館めぐり・日々の想いなどを綴るブログでしたが、最近の投稿は長引くコロナ騒動からの気づきが中心です。

2008年8月‐12月『フェルメール展』_光の天才画家とデルフトの巨匠たち(2)

2018年03月11日 18時09分10秒 | 美術館めぐり
会場で購入した公式ガイドブックより

「デルフトの社会と文化

 小さなオランダ共和国は、17世紀に目覚ましい経済的繁栄を遂げ、急速に伸張した通商活動を通じて絶対支配権を獲得し、ヨーロッパ近隣諸国の羨望の的となった。それは、今日もなお、近代ヨーロッパ史における驚異の一つとなっている。しかしオランダの黄金時代(ネーデルランドの経済が拡大し、政治的な権力を握り、芸術において成功を遂げた偉大なる時代)は、驚くほど短命であった。近代西洋史史上、最も長い戦争(1568‐1648)でスペインから独立を勝ち取ったプロテスタントのオランダ共和国は、ヨーロッパの他の諸国の人口が停滞あるいは減少していたこの時代にあって、主として移民によって人口が増加した。のみならず、一人当たりの所得で見れば、すべてのキリスト教国のなかで最も裕福な国家となった。

 オランダは、広大な海上踏査と通商ネットワークの中枢地となり、今日なお、スピッツベルゲンからブルックリン、ホーン岬、ニュージーランドに至るまで、世界の地名にその名残を留めている。オランダ船舶の貿易業者は、北海、バルト海、大西洋と、まさに世界の海を定期的に往復し、アメリカ大陸のニュー・アムステルダム(今日のニューヨーク)からブラジルまで、またアフリカ、セイロン、インドネシア、台湾、さらに日本の出島に至るまで、はるか遠くに交易所を設けた。1648年、(ジュラ地方がスペインからの独立を獲得した)ミュンスターの和約が結ばれたとき、オランダの世界的影響と文化的卓越はその頂点にあった。しかし惨禍の年である1672年、すなわちルイ14世の軍隊がネーデルランドに侵略したときには、オランダはすでにより強力なライバルであるフランスとイギリスによってヨーロッパの中心的舞台の外に追いやられており、決して戻ることはなかった。この短くも傑出した時代が、デルフト絵画の最盛期と一致するのは単なる偶然ではない。

 デルフトは、決して大きくはないが、デルフスハーフェンという港を持っていた。17世紀に入る頃には、ビール醸造業と織物業を主要産業としていた。対スペイン戦争が始まると、南部から熟練の職人が流入し、人口がかなりの程度増加した。しかしながら比較的保守的な市の指導者たちは、レイデンやハールレムといった都市の場合のように、新たに移住してきた者を決して歓迎はしなかった。伝染病に周期的に襲われた。にもかかわらず、人口は80年戦争勃発時の約1万5,000人から1665ねんのピーク時には2万5,000人に増加した。1665年以降、デルフトの人口は減少し、18世紀には激しく落ち込む。実際、1750年の人口は200年前に比べ、明らかに少なくなっていた。デルフト中心部の美しい景観が17世紀のままに今日まで保たれている理由が、18世紀の経済的沈滞の結果であるのは皮肉なことである。18世紀、人口は1万人近く減少し、新しい建物はほとんど建築されず、貧民地区の家屋は劣化したり単に取り壊されたりした。

                                (続いていきます)」



 



 気がつけば10年前となりました。ようやく少しずつ振り返り。

 部屋にスマホを忘れてきてしまったようです。帰ったらあるはず、なかったらどうしましょう。部屋を出る時、いついかなるときも斜め向かいにいるオッサンの物音に緊張していて、紛らわすためにスマホでイヤホンを使えなくなった今はタブレット端末でOTTVAを聴きながら出ています。そこに神経を集中しすぎていました。

 明日からさらにきびしい一週間、やれることしかやれないさ、そんなにやれないさ。


宝塚歌劇in東京スカイツリー_展望回廊_輝きの軌跡展より(1)

2018年03月11日 14時37分34秒 | 宝塚
 3月11日(日)、晴れ、7年前は木曜日だったかな、帰宅困難者となり3年前使い捨てにされた大会社に泊まりました。ハケンだったから10年近く働いていても女性用の休憩室があることさえ知らず声もかけられず、執務室の席で眠れないまま夜を過ごし、電車が動き始めてから緊急地震速報におびえながら部屋へと帰りました。そしてテレビで何が起きたかをようやく知り、こんこんと壊滅した沿岸部の街並みと被災者が救助されていく様子をみつづけました。当たり前の日常は当たり前ではなく、当たり前の日常こそがかげかえのないものなのだと教えられた大震災。その思いは今の業務についてさらに深く感じることとなりました。昨夜も自分の給料、不労収入よりも少ないのだと思うと哀しくなりましたが、どういうことですか、やってられんませんがなという気持ちになりましたが、普通に生活が続けられていることはなによりもすごいことでこれでいいんだと思いなおしました。もうどうでもいいですが、わたしを使い捨てにしてM部長、当時は課長、地震発生から2時間後ぐらいかな気がついたらいなくなっていました。帰れなくなることを懸念して自分だけとっとタクシーで帰ったらしいという噂でした、管理職がね、ハハハ、そういう会社でしたとさ。

 本題の宝塚歌劇in東京スカイツリー、こうして楽しいひと時を過ごせたことはなによりの心の宝物。ありがたいことです。行ってなかったら先週、心は死んでしまったでしょう。モノが増えるのでグッズは一切買わず、スタンプラリーもやりませんでした。トップスター5人のクリアファイルだけ買っておけばよかったかなと少し後悔。たぶん今この時しかない組み合わせ。もう一回いくかな、いけるかな・・・。


夢の世界へと誘ってくれる、展望デッキから展望回廊へと上がるエレベーター。
扉が開くとみりおさんがようこそって、迎えてくれました。
一般の方々にまじって、ヅカオタは花組のカテコ写真に包まれて幸せ感いっぱいでした。




展望回廊、輝きの軌跡展、エピローグの映像より。
夢の世界が開く感じがいいですね。










輝きの軌跡展より、1989年のニューヨーク公演。

わたし、大浦みずきさんが亡くなれているの、レミゼでテナルディエを演じた斎藤晴彦さんが亡くなられたニュースで知って、10年ほどヅカから離れていたこともあってそれまで知らなくって驚きました。すごく好きなスターさんというわけではありませんでしたが、ベルばらみたさに仙台の地方公演に行きました。『ベルサイユのばら フェルゼン編』、今映像をみるとダンスが多くて踊るフェルゼン、東京宝塚劇場で観劇した『ジャンクション24』のダンスシーン、今も思い出されます。『Sante!!』の安寿ミラさん振り付け場面は、大浦みずきさんへのオマージュを感じて、感慨深いものがありました。






娘役さん手作りのアクセサリー。
その昔、グラフでメルトゥイユ夫人を演じる花ちゃんが役柄に会う扇子やアクセサリーをみつけるためにお店を探し回ったっていう記事を読んで、自分で調達しているのかびっくりしたことを思い出しました。
大浦みずきさんがショーのなかで女役をやることになって自分でアクセサリーを調達したとき、娘役さんは毎回こんな大変なことをやっているのかとびっくりしたというエピソードをグラフかなにかで読んだことを思い出しました。




明日海りおさんと夕暮れ。




350階のカフェの窓から。




350階でエレベーターを降りてすぐに撮ったかな。
あちらもこちらも宝塚、キラキラ、それだけで幸せ感。




展望回廊にはスカイステージの広告パネルも。




回った手順を書きたいですが、ちっそくしそうな部屋ではこれ以上限界なのでまた後でか、後日。急ぎまたアップしてみました。