会場で購入した公式ガイドブックより
「デルフトの社会と文化
小さなオランダ共和国は、17世紀に目覚ましい経済的繁栄を遂げ、急速に伸張した通商活動を通じて絶対支配権を獲得し、ヨーロッパ近隣諸国の羨望の的となった。それは、今日もなお、近代ヨーロッパ史における驚異の一つとなっている。しかしオランダの黄金時代(ネーデルランドの経済が拡大し、政治的な権力を握り、芸術において成功を遂げた偉大なる時代)は、驚くほど短命であった。近代西洋史史上、最も長い戦争(1568‐1648)でスペインから独立を勝ち取ったプロテスタントのオランダ共和国は、ヨーロッパの他の諸国の人口が停滞あるいは減少していたこの時代にあって、主として移民によって人口が増加した。のみならず、一人当たりの所得で見れば、すべてのキリスト教国のなかで最も裕福な国家となった。
オランダは、広大な海上踏査と通商ネットワークの中枢地となり、今日なお、スピッツベルゲンからブルックリン、ホーン岬、ニュージーランドに至るまで、世界の地名にその名残を留めている。オランダ船舶の貿易業者は、北海、バルト海、大西洋と、まさに世界の海を定期的に往復し、アメリカ大陸のニュー・アムステルダム(今日のニューヨーク)からブラジルまで、またアフリカ、セイロン、インドネシア、台湾、さらに日本の出島に至るまで、はるか遠くに交易所を設けた。1648年、(ジュラ地方がスペインからの独立を獲得した)ミュンスターの和約が結ばれたとき、オランダの世界的影響と文化的卓越はその頂点にあった。しかし惨禍の年である1672年、すなわちルイ14世の軍隊がネーデルランドに侵略したときには、オランダはすでにより強力なライバルであるフランスとイギリスによってヨーロッパの中心的舞台の外に追いやられており、決して戻ることはなかった。この短くも傑出した時代が、デルフト絵画の最盛期と一致するのは単なる偶然ではない。
デルフトは、決して大きくはないが、デルフスハーフェンという港を持っていた。17世紀に入る頃には、ビール醸造業と織物業を主要産業としていた。対スペイン戦争が始まると、南部から熟練の職人が流入し、人口がかなりの程度増加した。しかしながら比較的保守的な市の指導者たちは、レイデンやハールレムといった都市の場合のように、新たに移住してきた者を決して歓迎はしなかった。伝染病に周期的に襲われた。にもかかわらず、人口は80年戦争勃発時の約1万5,000人から1665ねんのピーク時には2万5,000人に増加した。1665年以降、デルフトの人口は減少し、18世紀には激しく落ち込む。実際、1750年の人口は200年前に比べ、明らかに少なくなっていた。デルフト中心部の美しい景観が17世紀のままに今日まで保たれている理由が、18世紀の経済的沈滞の結果であるのは皮肉なことである。18世紀、人口は1万人近く減少し、新しい建物はほとんど建築されず、貧民地区の家屋は劣化したり単に取り壊されたりした。
(続いていきます)」
気がつけば10年前となりました。ようやく少しずつ振り返り。
部屋にスマホを忘れてきてしまったようです。帰ったらあるはず、なかったらどうしましょう。部屋を出る時、いついかなるときも斜め向かいにいるオッサンの物音に緊張していて、紛らわすためにスマホでイヤホンを使えなくなった今はタブレット端末でOTTVAを聴きながら出ています。そこに神経を集中しすぎていました。
明日からさらにきびしい一週間、やれることしかやれないさ、そんなにやれないさ。
「デルフトの社会と文化
小さなオランダ共和国は、17世紀に目覚ましい経済的繁栄を遂げ、急速に伸張した通商活動を通じて絶対支配権を獲得し、ヨーロッパ近隣諸国の羨望の的となった。それは、今日もなお、近代ヨーロッパ史における驚異の一つとなっている。しかしオランダの黄金時代(ネーデルランドの経済が拡大し、政治的な権力を握り、芸術において成功を遂げた偉大なる時代)は、驚くほど短命であった。近代西洋史史上、最も長い戦争(1568‐1648)でスペインから独立を勝ち取ったプロテスタントのオランダ共和国は、ヨーロッパの他の諸国の人口が停滞あるいは減少していたこの時代にあって、主として移民によって人口が増加した。のみならず、一人当たりの所得で見れば、すべてのキリスト教国のなかで最も裕福な国家となった。
オランダは、広大な海上踏査と通商ネットワークの中枢地となり、今日なお、スピッツベルゲンからブルックリン、ホーン岬、ニュージーランドに至るまで、世界の地名にその名残を留めている。オランダ船舶の貿易業者は、北海、バルト海、大西洋と、まさに世界の海を定期的に往復し、アメリカ大陸のニュー・アムステルダム(今日のニューヨーク)からブラジルまで、またアフリカ、セイロン、インドネシア、台湾、さらに日本の出島に至るまで、はるか遠くに交易所を設けた。1648年、(ジュラ地方がスペインからの独立を獲得した)ミュンスターの和約が結ばれたとき、オランダの世界的影響と文化的卓越はその頂点にあった。しかし惨禍の年である1672年、すなわちルイ14世の軍隊がネーデルランドに侵略したときには、オランダはすでにより強力なライバルであるフランスとイギリスによってヨーロッパの中心的舞台の外に追いやられており、決して戻ることはなかった。この短くも傑出した時代が、デルフト絵画の最盛期と一致するのは単なる偶然ではない。
デルフトは、決して大きくはないが、デルフスハーフェンという港を持っていた。17世紀に入る頃には、ビール醸造業と織物業を主要産業としていた。対スペイン戦争が始まると、南部から熟練の職人が流入し、人口がかなりの程度増加した。しかしながら比較的保守的な市の指導者たちは、レイデンやハールレムといった都市の場合のように、新たに移住してきた者を決して歓迎はしなかった。伝染病に周期的に襲われた。にもかかわらず、人口は80年戦争勃発時の約1万5,000人から1665ねんのピーク時には2万5,000人に増加した。1665年以降、デルフトの人口は減少し、18世紀には激しく落ち込む。実際、1750年の人口は200年前に比べ、明らかに少なくなっていた。デルフト中心部の美しい景観が17世紀のままに今日まで保たれている理由が、18世紀の経済的沈滞の結果であるのは皮肉なことである。18世紀、人口は1万人近く減少し、新しい建物はほとんど建築されず、貧民地区の家屋は劣化したり単に取り壊されたりした。
(続いていきます)」
気がつけば10年前となりました。ようやく少しずつ振り返り。
部屋にスマホを忘れてきてしまったようです。帰ったらあるはず、なかったらどうしましょう。部屋を出る時、いついかなるときも斜め向かいにいるオッサンの物音に緊張していて、紛らわすためにスマホでイヤホンを使えなくなった今はタブレット端末でOTTVAを聴きながら出ています。そこに神経を集中しすぎていました。
明日からさらにきびしい一週間、やれることしかやれないさ、そんなにやれないさ。