⛰課題1:人間にとって言語はどのような役割を持っているかを多面的に考察しなさい。
私たちの日常生活を振り返ってみると、多くの言語を使って、ものを考えたり、思想を形成したりしていることがわかる。言語そのものは、紙の上に書かれたりする物理的な出来事であるが、そればかりではなくて、思想を表現する行為へとつながっていくようにさせる働きをもしている。言語を操作することによって、私たちは情報を知り、考えるということの対象になる問題とぶつかる。したがって、言語を操作することができないならば、ものを考えることはできないだろう。言語を通じて私たちは、世界の情報を受け取り、事実を知るとともに、このような事実の情報にもとづいて、世界に働きかけているのである。
考えるということは、知ることから始まる。知るとか認識するとかいうことは、なんらかの記号があって起こる現象である。反応するものと対象とが、直接に関係するのではなく、その中間になんらかの記号体系が介在し、この記号体系を通じて対象が情報化され、この情報に応じて行動が行われようとするとき、はじめて知るという現象がおこる。記号そのものは、ひとつの物理的な事物あるいは、物理的な出来事に過ぎない。この物理的現象は、多種多様な事物の状態や、その複雑な変化についての情報を、間接的にわたしたちに与える役割をもっている。言語記号も、このような記号の一種である。私たちが思想を形成するために用いる道具のような役割を、言語という記号はもっている。
このような考え方は、人間の考えるというはたらきを言語という記号のはたらきとしてとらえている。言語は、私たちの思想の形成と、密接に関係しているのである。
言語によって情報を知り、思想を形成していくと、実際の行動へとつながる。知ることは、行動することの必要案件であり、知るという条件のもとで、行動することが、はじめて有効なものになってくる。知ることがなければ、哲学というものも無意味になるだろう。
哲学は、私たちの日常生活全体が提起する諸問題を対象とする。その時々の自然的・歴史的・文化的な環境と深く関わり、その中から生ずる最も根本的で、永続的な問題に答えようとするものである。多くの知識の間の関係を明らかにし、特殊な対象についての考え方の理論を調整して、私たちがより有効な行動をするための理論を探究しようとしている。有効な哲学の理論をつくりあげ問題を解決するためには、その時々の自然科学・社会科学が問題とすること、道徳や宗教などの直面する問題を知り、理解していなければならない。そこから得た考え方に、さらに新しい解釈をつけ加えて、より有効な行動をするための、統一的な新しい考え方をつくり出すのが哲学の仕事である。
そうすると、言語のはたらきを人間の思考としてとらえるならば、哲学の仕事において、言語の役割は重要である。私たちは言語を操作して、日常生活における諸問題を解決していこうとする哲学の仕事をしている。言語の使用の規制を学ぶことは、私たちの思想を明確にし、実際の行動へうまく接続していくために必要なことである。私たちの思考のはたらきが、言語という記号のはたらきである。
記号という物理現象は、これを使用する者にとってのみ、単なる物理現象ではなくて、記号というはたらきをもつ。記号は使用する人によって、その目的が異なる。使用者は、記号がなければ問題にする手がかりもないものを、記号を通じて知ることができる。言語記号も、私たちに多くの知識をもたらし、日常生活にひそむ諸問題に気づかせている。そして、私たち言語を使用する者の行動を拡大している。言語のはたらきがひろくなるほど、思考のはたらく範囲も拡大され、広い世界の情報にもとづいて、私たちの行動は拡大し、多様化していく。逆に言語のはたらきが貧しいと、思考のはたらく世界も狭くなってしまうだろう。
このように言語という記号は、ある特定の物理現象のなかでのみ、はじめてはたらきの場所をもつ。その体系の中で、ある物体に、言語記号を与え、これを文字や音声で表すと、現実の物体を、その言語記号は意味する。物理現象の体系が指定されないならば、言語の意味はどこにもない。言語の体系は、独自の記号や法則を含んでいる。このような記号をそれぞれの体系の中で、もっとも有効に働かせることによって、私たちは、この記号体系以外の自然にはたらきかけ、私たちの精神のはたらきを拡張し、多様化していく。私たちは、言語を通じて、思考のはたらきや知識のあり方を客観的にとらえ、私たちの生活全体から生じる哲学的問題の解決をしていかなければならない。
⛰課題2:事実と価値のあいだの関係を考えながら、人間の価値的行動について論じなさい。
心と身体の問題は、従来から多くの哲学者の間で議論されてきた。わたしたち人間は、思考すると同時に、物質としての身体をもっている。しかも、思考と身体は、何の関係もないばらばらな在り方をしているのではなく、密接に関係しあい、いわば一つのものとなっている。人間の知的活動である情報処理のためには、与えられた情報を適当な記号にいいかえなければならない。最初の感覚とその後の行動とは、それぞれ記号体系をもつ。二つの異なった記号体系の間に持続があり転換があればこそ、感覚的近くや行動が思考に影響を与え、逆に私たちの思考の結果が、行動や知覚にも影響を与える。
現代では、身心問題は、従来とはやや異なった角度からみた、より一般的な問題として再検討をせまられている。私たちは、人間には心があるという言い方をする。そこで、たとえば「部屋の中にテーブルがある」という命題に対するイメージと同じに「人間の中に心がある」という命題に対するイメージをもつとする。そしてこのイメージはうまく事実にあてはまらないところに、「心についてのいろいろな問題が生まれてくる。これに対して答えようとするとき、「何物かがある」という表現について考えてみようとする。存在するというのは、対象の諸々の特色について言う述語ではなく、むしろ私たちの言語や思考の対象への最初のかかわりあいを表明している。
これに対して、事実という概念は、主語-述語の命題によって、どういう事実であるかがはっきりと規定される。事実とは「真なる命題が意味するもの」というように定義することができる。
私たちの周囲には、確認できるいろいろな事実がある。これらに対して私たちは、良い・悪いなどの評価をくだし、区別や序列をつける。事実に対して、価値とは、いろいろな事実に対するある特定の立場からの分類や序列につけられた名称である。たとえば、あるものを特定の目的のために他人に勧めるという行為の立場から考えてみると、ある事実が目的の実現に役立つか否かによって、善と悪との区別が生じてくる。対象となるある事実も、それに対してもつ目的も異なれば、当然、善・悪の判断の区別の基準も異なる。また、その目的によって、善又は悪の判断をくだされる客観的条件は異なってくる。あるものを善といって勧める行為のためには、目的を実現させることのできる特定の客観的な性質や機能・構造などをもっていることが条件である。ある事実のもつ客観的条件が、ある目的の実現に役立てば善であり、役立たなければ悪であるから避けなければならない。善であるから勧めるという行為は共通であるが、善であるといわれるための客観的条件は、目的によって異なる。このように、善という述語は二重構造をもっている。
では、事実に対して価値をつけ加える基準となる目的はどこから生じてくるだろうか。私たちの現実に対する認識が異なれば、理想や目的もそれぞれに異なってくる。目的には、それぞれ具体的な規定性がある。もし、それらを取り去ってしまったならば、目的は時代や場所の特殊な事実によって規定されることなく、常にどこでも妥当するようなものになるだろう。しかし、一般的なものになってしまうと、その内容は抽象的で空虚なものになってしまう。より具体的で意識的な目的をもつためには正確な事実が必要である。したがって、私たちがもつ理念や目的は、具体的な規定をもつほど、逆に事実から制約をうけることになる。このようなことは、目的や理念が、正確な事実についての知識から生じてくる。
私たちは、どのような意味で、その目的や理念を決めたかということが重要である。それは、事実をどのように認識し、思考を働かせて行動の目的を捉えたかということと同様である。
私たちの行動は、常に限定されたものに向かうものとして、目的をもっている。行動の目的は、事実から導き出されるのだから、まず、事実を正確に把握しなければならない。私たちの意志は、無意識のうちに目的をもって行動している。そこで、さらに事実を客観的に認識し、思考の働きを通じて、事実の知識から将来の事実の知識を導き出し、これを意識的な目的として行動に規制を与える。無意識的な行動を意識的な目的として知識化し、行動を規制していくのである。目的は無意識のうちに事実から生じて、人間の大脳の記号操作を通じて、意識的な目的へと発展して行き、価値の判断の基準となる。目的を捉えようとすることは、私たちがどのように行動したらいいか、どんな行動をしたらいいか、どんな行動を否定しなければならないかを考えることである。私たちは事実を明確に知り、それに基づいて目的を決定し、目的に向って行動しなければならない。」
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昭和63年に書いたレポート、評価はB、
講師評は「丹念にまとめられたことがよくでていますが、一歩踏み込んでより具体的に論じてほしかったと思います」でした。
私たちの日常生活を振り返ってみると、多くの言語を使って、ものを考えたり、思想を形成したりしていることがわかる。言語そのものは、紙の上に書かれたりする物理的な出来事であるが、そればかりではなくて、思想を表現する行為へとつながっていくようにさせる働きをもしている。言語を操作することによって、私たちは情報を知り、考えるということの対象になる問題とぶつかる。したがって、言語を操作することができないならば、ものを考えることはできないだろう。言語を通じて私たちは、世界の情報を受け取り、事実を知るとともに、このような事実の情報にもとづいて、世界に働きかけているのである。
考えるということは、知ることから始まる。知るとか認識するとかいうことは、なんらかの記号があって起こる現象である。反応するものと対象とが、直接に関係するのではなく、その中間になんらかの記号体系が介在し、この記号体系を通じて対象が情報化され、この情報に応じて行動が行われようとするとき、はじめて知るという現象がおこる。記号そのものは、ひとつの物理的な事物あるいは、物理的な出来事に過ぎない。この物理的現象は、多種多様な事物の状態や、その複雑な変化についての情報を、間接的にわたしたちに与える役割をもっている。言語記号も、このような記号の一種である。私たちが思想を形成するために用いる道具のような役割を、言語という記号はもっている。
このような考え方は、人間の考えるというはたらきを言語という記号のはたらきとしてとらえている。言語は、私たちの思想の形成と、密接に関係しているのである。
言語によって情報を知り、思想を形成していくと、実際の行動へとつながる。知ることは、行動することの必要案件であり、知るという条件のもとで、行動することが、はじめて有効なものになってくる。知ることがなければ、哲学というものも無意味になるだろう。
哲学は、私たちの日常生活全体が提起する諸問題を対象とする。その時々の自然的・歴史的・文化的な環境と深く関わり、その中から生ずる最も根本的で、永続的な問題に答えようとするものである。多くの知識の間の関係を明らかにし、特殊な対象についての考え方の理論を調整して、私たちがより有効な行動をするための理論を探究しようとしている。有効な哲学の理論をつくりあげ問題を解決するためには、その時々の自然科学・社会科学が問題とすること、道徳や宗教などの直面する問題を知り、理解していなければならない。そこから得た考え方に、さらに新しい解釈をつけ加えて、より有効な行動をするための、統一的な新しい考え方をつくり出すのが哲学の仕事である。
そうすると、言語のはたらきを人間の思考としてとらえるならば、哲学の仕事において、言語の役割は重要である。私たちは言語を操作して、日常生活における諸問題を解決していこうとする哲学の仕事をしている。言語の使用の規制を学ぶことは、私たちの思想を明確にし、実際の行動へうまく接続していくために必要なことである。私たちの思考のはたらきが、言語という記号のはたらきである。
記号という物理現象は、これを使用する者にとってのみ、単なる物理現象ではなくて、記号というはたらきをもつ。記号は使用する人によって、その目的が異なる。使用者は、記号がなければ問題にする手がかりもないものを、記号を通じて知ることができる。言語記号も、私たちに多くの知識をもたらし、日常生活にひそむ諸問題に気づかせている。そして、私たち言語を使用する者の行動を拡大している。言語のはたらきがひろくなるほど、思考のはたらく範囲も拡大され、広い世界の情報にもとづいて、私たちの行動は拡大し、多様化していく。逆に言語のはたらきが貧しいと、思考のはたらく世界も狭くなってしまうだろう。
このように言語という記号は、ある特定の物理現象のなかでのみ、はじめてはたらきの場所をもつ。その体系の中で、ある物体に、言語記号を与え、これを文字や音声で表すと、現実の物体を、その言語記号は意味する。物理現象の体系が指定されないならば、言語の意味はどこにもない。言語の体系は、独自の記号や法則を含んでいる。このような記号をそれぞれの体系の中で、もっとも有効に働かせることによって、私たちは、この記号体系以外の自然にはたらきかけ、私たちの精神のはたらきを拡張し、多様化していく。私たちは、言語を通じて、思考のはたらきや知識のあり方を客観的にとらえ、私たちの生活全体から生じる哲学的問題の解決をしていかなければならない。
⛰課題2:事実と価値のあいだの関係を考えながら、人間の価値的行動について論じなさい。
心と身体の問題は、従来から多くの哲学者の間で議論されてきた。わたしたち人間は、思考すると同時に、物質としての身体をもっている。しかも、思考と身体は、何の関係もないばらばらな在り方をしているのではなく、密接に関係しあい、いわば一つのものとなっている。人間の知的活動である情報処理のためには、与えられた情報を適当な記号にいいかえなければならない。最初の感覚とその後の行動とは、それぞれ記号体系をもつ。二つの異なった記号体系の間に持続があり転換があればこそ、感覚的近くや行動が思考に影響を与え、逆に私たちの思考の結果が、行動や知覚にも影響を与える。
現代では、身心問題は、従来とはやや異なった角度からみた、より一般的な問題として再検討をせまられている。私たちは、人間には心があるという言い方をする。そこで、たとえば「部屋の中にテーブルがある」という命題に対するイメージと同じに「人間の中に心がある」という命題に対するイメージをもつとする。そしてこのイメージはうまく事実にあてはまらないところに、「心についてのいろいろな問題が生まれてくる。これに対して答えようとするとき、「何物かがある」という表現について考えてみようとする。存在するというのは、対象の諸々の特色について言う述語ではなく、むしろ私たちの言語や思考の対象への最初のかかわりあいを表明している。
これに対して、事実という概念は、主語-述語の命題によって、どういう事実であるかがはっきりと規定される。事実とは「真なる命題が意味するもの」というように定義することができる。
私たちの周囲には、確認できるいろいろな事実がある。これらに対して私たちは、良い・悪いなどの評価をくだし、区別や序列をつける。事実に対して、価値とは、いろいろな事実に対するある特定の立場からの分類や序列につけられた名称である。たとえば、あるものを特定の目的のために他人に勧めるという行為の立場から考えてみると、ある事実が目的の実現に役立つか否かによって、善と悪との区別が生じてくる。対象となるある事実も、それに対してもつ目的も異なれば、当然、善・悪の判断の区別の基準も異なる。また、その目的によって、善又は悪の判断をくだされる客観的条件は異なってくる。あるものを善といって勧める行為のためには、目的を実現させることのできる特定の客観的な性質や機能・構造などをもっていることが条件である。ある事実のもつ客観的条件が、ある目的の実現に役立てば善であり、役立たなければ悪であるから避けなければならない。善であるから勧めるという行為は共通であるが、善であるといわれるための客観的条件は、目的によって異なる。このように、善という述語は二重構造をもっている。
では、事実に対して価値をつけ加える基準となる目的はどこから生じてくるだろうか。私たちの現実に対する認識が異なれば、理想や目的もそれぞれに異なってくる。目的には、それぞれ具体的な規定性がある。もし、それらを取り去ってしまったならば、目的は時代や場所の特殊な事実によって規定されることなく、常にどこでも妥当するようなものになるだろう。しかし、一般的なものになってしまうと、その内容は抽象的で空虚なものになってしまう。より具体的で意識的な目的をもつためには正確な事実が必要である。したがって、私たちがもつ理念や目的は、具体的な規定をもつほど、逆に事実から制約をうけることになる。このようなことは、目的や理念が、正確な事実についての知識から生じてくる。
私たちは、どのような意味で、その目的や理念を決めたかということが重要である。それは、事実をどのように認識し、思考を働かせて行動の目的を捉えたかということと同様である。
私たちの行動は、常に限定されたものに向かうものとして、目的をもっている。行動の目的は、事実から導き出されるのだから、まず、事実を正確に把握しなければならない。私たちの意志は、無意識のうちに目的をもって行動している。そこで、さらに事実を客観的に認識し、思考の働きを通じて、事実の知識から将来の事実の知識を導き出し、これを意識的な目的として行動に規制を与える。無意識的な行動を意識的な目的として知識化し、行動を規制していくのである。目的は無意識のうちに事実から生じて、人間の大脳の記号操作を通じて、意識的な目的へと発展して行き、価値の判断の基準となる。目的を捉えようとすることは、私たちがどのように行動したらいいか、どんな行動をしたらいいか、どんな行動を否定しなければならないかを考えることである。私たちは事実を明確に知り、それに基づいて目的を決定し、目的に向って行動しなければならない。」
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昭和63年に書いたレポート、評価はB、
講師評は「丹念にまとめられたことがよくでていますが、一歩踏み込んでより具体的に論じてほしかったと思います」でした。