『アンナ・カレーニナ(中)』-第五篇-14より
「その翌日、病人は聖体機密と聖伝機密の式を受けた。儀式のあいだ、ニコライは熱心に祈った。色のついたナプキンをしいたトランプ机の上に置いてある聖像に注がれた彼の大きな目の中には、激しい祈りと希望の色が表れていたので、リョーヴィンはそれを見るのが恐ろしいほどであった。この激しい祈りと希望は、彼があれほど愛していた生との別れを、ただ苦しいものにすることを、リョーヴィンは承知していたからである。リョーヴィンには兄の人がらも、思想の遍歴もわかっていた。彼は兄の無信仰も、信仰をもたぬほうが生きやすいからではなく、この世のあらゆる現象を現代科学が次々に解明していって、ついに一歩一歩信仰をしりぞけていった結果であることを承知していた。したがって、今兄が信仰に帰ったのは、同じ思想の過程をふんで行われた合法的なものではなく、病気をなおしたいという狂おしい希望から発したほんの一時的な、利己的なものにすぎないことも、リョーヴィンにはわかっていた。リョーヴィンはまた、キチイが自分の聞いた大病がなおったという異常な物語を話して、兄の希望をさらに強めたということも知っていた。リョーヴィンにはそうしたことが、みんなわかっていた。そのために、その希望に満ちた祈るようなまなざしや、やっと上へ持ちあげて、ぴんと皮膚の張った額に十字を切るそのやせこけた手や、突きだした肩や、病人がこれほど求めてやまない生命をもう保つことのできない、ぜいぜいあえいでいるうつろな胸などを見ているのは、心をかきむしられるような苦しさであった。秘儀が行われているあいだじゅう、リョーヴィンもまた祈りをささげ、信仰を持たぬ彼が、もう千度もやったことを、また繰り返したのであった。(略)
聖伝機密の式がすむと、病人は急にぐっとよくなった。まる一時間、一度も咳をしないで、にこにこしながら、キチイの手に接吻して、涙を浮べて礼をいい、自分はとてもいい気持で、どこも痛くない、食欲もあるし、力も出たようだ、といった。スープが運ばれて来たときには、自分から起きあがり、おまけにカツレツまで食べたいといった。彼の容体はまったく絶望的であって、ひと目見ただけでももうとても全快の望みがないのは、明らかであったにもかかわらず、リョーヴィンとキチイはこの一時間のあいだ、同じような幸福を味わいながらも、ひょっとしてまちがいではないかというびくびくした興奮にかられていた。
(略)
が、この惑いもそう長くつづかなかった。病人は安らかに眠っていたが、30分ほどすると、咳で目をさました。するととつぜん、いっさいの希望は、まわりの者にとっても、彼自身にとっても、跡形もなく消えうせてしまった。一点の疑う余地もない、いや、さきほどの希望のかげすらとどめぬ苦悶という現実が、リョーヴィンと、キチイと、病人自身のいだいていた希望を、一挙、破壊しつくしたからであった。
病人は30分前まで自分がなにを信じていたのか、それさえわからずに、いや、そんなことを思いだすのさえ恥ずかしいといった様子、ヨードの吸入をしてくれといった。リョーヴィンは、小さな吸入穴のいくつもあいた紙で蓋をしたヨード入りの小瓶を、取って渡した。と、あの聖油を塗ってもらったときと同じ希望に満ちたまなざしが、今度は弟の顔にひたと注がれて、ヨードの吸入は奇蹟的な効果をもたらすことがあるといった医師の言葉を肯定してほしいと訴えるのであった。
(略)
その晩の7時すぎ、リョーヴィンが妻とともに自分の部屋でお茶を飲んでいると、マーシャが息せききって駆けつけて来た。その顏は真っ青で、唇は震えていた。
「もうだめですわ!」彼女はささやくようにつぶやいた。「もう今にも息をひきとられるのじゃないかと思ってびくびくしてますの」
ふたりは病室へとんで行った。病人は床の上に起きあがり、片肘をついて、長い背中を曲げ、頭を低くたれていた。
「気分はどうです?」ややしばらく黙っていてから、リョーヴィンはささやくようにたずねた。
「いよいよおさらばだという気分だよ」ニコライは苦しそうに、しかし、恐ろしくはっきり一語一語言葉をしぼり出すような調子でいった。彼は首を持ちえずに、ただ上目づかいで見たが、その視線は弟の顏まで届かなかった。「カーチャ、どいていておくれ!」彼はさらにいい足した。
リョーヴィンはさっととびあがって、小声で命令するような調子で、妻を出て行かせた。
「いよいよおさらばだよ」彼はまたいった。
「なんだってそんなことを考えるです?」リョーヴィンはいったが、それはただなにかいうためであった。
「だって、いよいよおさらばだからね」まるでこの表現が気に入ったように、彼はまたそう繰り返した。「もうおしまいだよ」
マーシャがそばへ寄って来た。
「横におなりになったら、そのほうがお楽ですのに」彼女はいった。
「もうすぐ静かに横になるさ」彼は口走った。「死骸になってな」彼はあざけるように、腹立たしげにいった。「それじゃ、横にしてもらおう、お望みなら」
リョーヴィンは兄を仰向けに寝かせると、そばへ腰をおろして、息を殺して、じっと、その顔を見つめはじめた。瀕死の病人は目を閉じて、横たわっていた。しかし、その額の筋肉は、まるでなにか深いもの思いにふけっている人のように、ときおり、ひくひくと動くのであった。リョーヴィンは思わず、今兄の内部にあって完成しつつあることを、兄といっしょに考えてみようとした。しかし、兄と歩調をあわせようと、いくら努力してみても、兄の落ち着いたきびしい顏の表情や、眉の上の筋肉の動きなどから察して、自分にとっては相変らず不明なことが、今まさに死んでいく人には、しだいしだいに、はっきりとわかってくるらしいことを悟った。
「うむ、そう、そうだよ」瀕死の病人は一語一語に間をおきながら、ゆっくりといった。「待ってくれ」それからまたしばらく黙っていた。「そうだ!」不意に、まるで自分にとっていっさいのことが解決したかのように、彼は安らかな調子で言葉をのばしていった。「ああ、主よ!」彼はそういって、重々しく溜息をついた。
マーシャは病人の足にさわってみた。
「冷たくなってきました」彼女はささやいた。
長いあいだ、ひじょうに長いあいだ(そうリョーヴィンには思われた)、病人は身じろぎもせずに横たわっていた。しかし、彼はなおも生きていて、時には溜息をついた。リョーヴィンは激しい精神の緊張からもう疲れていた。彼はどんなに精神を緊張させてみても、なにが『そうだ』なのか、自分には理解できないと感じていた。彼は自分がもうとっくに、死んでいく人から取残されたような気がしていた。彼はもう死という問題そのものを考えることはできなかった。しかし、彼は心にもなく、これから自分のしなければならないことを、つまり、目を閉じてやったり、経帷子を着せてやったり、棺を注文したりしなければならぬ、といった思いが浮んでくるのだった。それに、ふしぎなことには、彼は自分がすっかり冷淡になっているのを感じ、もう悲しみも、肉親の失われた嘆きもなく、ましてや兄に対する憐憫の情などは、露ほどもなかった。もし兄に対して何らかの感情をもっていたとすれば、それはむしろ、瀕死の兄がもはやかちえたところの、自分には手のとどかない知識に対する羨望ぐらいのものであった。
彼はなおもまだ長いあいだ、兄の最後を待ちながらまくらもとにすわっていた。が、その最後はなかなか訪れなかった。戸があいて、キチイが姿を現わした。リョーヴィンは相手をとめようとして、立ちあがった。ところが、立ちあがった瞬間、彼は死者の動く気配を感じた。
「行かないでくれ」ニコライはいって、片手をさしのべた。リョーヴィンは兄に自分の手を握らせ、腹立たしげに、片手を振って、妻を出て行かせた。
彼は自分の手で死んだような兄の手を握ったまま、30分、1時間、さらにまた1時間と、じっとすわっていた。彼は、もう今となっては死のことなんか、まるで考えていなかった。彼はキチイはなにをしているだろうとか、隣の部屋にはだれがいるのだろうとか、医者の住んでいる家は自分の持ち家だろうかなどと考えていた。彼は腹がへって、眠くなってきた。彼はそっと手を抜いて、足にさわってみた。兄はもう冷たかったが、病人にはまだ息があった。リョーヴィンはまた爪立ちになって出て行こうとした。が、病人はまた身を動かすと、いった。「行かないでくれ」
夜が明けた。病人の容体は、相変らず同じことであった。リョーヴィンはそっと手を放して、瀕死の兄の顔は見ないで、自分の部屋へ帰ると、すぐ寝込んでしまった。彼は目をさましたとき、予期していた兄の死んだという知らせのかわりに、病人は前と同じ状態になったと聞かされた。彼はまた起きなおって、咳をしたり、また食べたり、話したり、また死については口にしなくなった。また全快の希望を見せたり、前よりいっそういらいらして、気むずかしくなったりした。リョーヴィンも、キチイも、だれひとりとして、兄をなだめることはできなかった。彼はだれに対しても腹を立てた。そして、みんなが自分の苦痛に対して責任でもあるかのような口ぶりで、すべての人に不愉快なことをいい、モスクワから名医を呼んでくれと、要求するのだった。彼は気分がどうかときかれるたびに、いつも憎悪と非難の表情を浮べて「すごく苦しい、とてもやりきれん!」と答え始末だった。
病人は、ますます苦しみを訴えるようになった。ことに、もうどうにも手の施しようのない床ずれのために苦しんで、ますます周囲の者に、ことごとに腹を立て、とりわけ、モスクワから医者を呼んでくれぬといっては非難の言葉を浴びせた。キチイはなんとかして彼を楽にさせて、慰めようと努めたが、すべては徒労であった。そして、リョーヴィンは、キチイが自分では口に出していわなかったが、肉体的にも精神的にも、すっかりまいっているのを見てとった。病人が弟を呼びよせた晩、この世との別れを告げて、みんなの胸に感動を呼び起したあの死の感じは、今はもう跡形もなく破壊されてしまった。もっとも、彼が近いうちにまちがいなく死ぬということは、もう半ば死骸も同然だということも、みんなは承知していた。みんなの望んでいたただ一つのことは、彼が少しでも早く死んでもらいたい、ということであった。が、みんなはそれを秘め隠して、薬瓶から水薬を飲ましたり、薬や医者を捜しまわったりして、病人をも、自分をも、また、お互い同士をも欺いているのだった。こうしたことはすべて虚為だった。リョーヴィンはその性格からいっても、また、だれよりも病人を愛していたことからいっても、この虚為をとりわけ痛切に感じていた。
リョーヴィンはもうかなり前から、せめて臨終のときにでも、兄たちを和解させたいと望んでいたので、兄のコズヌイシェフに手紙を書いてやったところ、返事がきたので、その手紙を病人に読んで聞かせた。コズヌイシェフは、自分では出かけて行けないがと書いて、感動的文句を並べて弟に許しを請うていた。
病人はひと言もいわなかった。
「兄さんにはなんと書いてやったらいいでしょうね?」リョーヴィンはきいた。「もう、まさか腹を立てちゃいないでしょうね?」
「ああ、ちっとも!」ニコライは、こんな質問をされて、さもいまいましそうに答えた。「ただ、おれのところへ医者をよこしてくれるように書いてくれ」
それからまた、苦しみに満ちた三日が過ぎた。病人は相変らず同じ容体であった、もう今では病人をひと目見たものはだれでも、その死を望む気持にかられた-宿のボーイたちも、主人も、すべての泊り客も、医者も、マーシャも、リョーヴィンも、キチイも。ただ当の病人だけは、そうした気持を表わさなかった。いや、それどころか、医者を呼ばないといってはあたりちらし、薬を飲みつづけ、生きながらえることの話ばかりしていた。ただまれに、阿片の注射で、ほんのひととき、そのたえまない苦痛を忘れることができると、ほかのだれよりも強く彼の心にあった思いを、夢うつつのうちに、口走るのであった。
「ああ、早くけりがつけばいいのに!」とか、「いったい、いつになったら、おしまいになるんだ?」とか。
苦痛は、一歩一歩、激しさをまし、着々とその力を発揮して、病人を死へと近づけていった。彼にとっては苦しまずにいられる状態もなければ、自分を忘れることのできる瞬間もなく、痛み苦しまない肉体は一個所とてなかった。いや、もはやこの肉体につての記憶や印象や考えすらも、彼の心にからだそのものと同じく、嫌悪の情を呼びさますばかりであった。他人の姿も、その話し声も、自分自身の追憶も、-すべてこうしたものはなにもかも、彼にとっては、苦悩のたねにすぎなかった。周囲の人びともそれを察して、無意識のうちに、
病人の前では自由に動きまわったり、話をしたり、自分の望みを明らかにすることをつつしんでいた。彼の全生活は苦悩の感情と、それからのがれたいという欲望に集中されていた。
彼の心には明らかに一つの転機が生れたらしく、そのために、彼は死というものを、すべての欲望の充足であり、幸福であると感ずるようになった。以前、彼の苦痛や欠乏によって呼び起れた個々の欲望は、飢饉や、疲労や、渇きなどと同じく、自分に快感を与える肉体的な機能の遂行によって満足感を与えられていた。ところが、いまや欠乏と苦痛はそのような満足感をもたらさず、かえって満足感を得ようとする試みは、新たな苦痛をひき起すばかりであった。こうして、すべての欲望は、すべての苦痛とその源である肉体からのがれたい、という一つの欲望に集中された。ところが、この解放の欲望を表現するために、彼は適切な言葉が見つからなかったので、それを口に出してはいわずに、ただこれまでの習慣どおり、もはや満たすことのできない欲望の満足を求めるのだった。彼は「寝返りをさせてくれ」といったかと思うと、すぐそのあとで、元どおりに寝かしてくれと要求した。「スープをくれ、いや、スープなんか持っていけ。なにか話をしてくれ、なんだってそう黙りこくっているんだ」といった調子だった。そのくせ、だれかが話をはじめるが早いか、彼は目を閉じてしまって、疲労と、無関心と、嫌悪の情を表わすのだった。
この町へ来て10日めに、キチイは病気になった。頭痛がして、吐き気をもよおしたので、朝のうちはずっと床から起きあがることができなかった。
(略)
「きょうが最後でしょうね、きっと」マーシャはささやくようにいったが、リョーヴィンの気づいたところでは、えらく敏感になっている病人の耳にはそれが聞こえたらしかった。リョーヴィンはしっと彼女を制して、病人のほうを振り返って見た。ニコライはその言葉を耳にしたが、それは彼になんの感銘も与えなかった。そのまなざしは、相変らず、人を責めるような、緊張した表情をおびていた。
「なぜそう思われるのです?」リョーヴィンはマーシャのあとから廊下へ出たとき、たずねた。
「自分のからだをつまむようになりましたもの」マーシャはいった。
「つまむってどんなふうに」
「こうですわ」彼女は自分の毛織りの服の襞(ひだ)をところどころ引っぱりながら、いった。実際、リョーヴィンも、病人がその日一日じゅう、自分のからだをあちこちつまんでは、なにか引きちぎろうとしているようなのに気づいた。
マーシャの予言は正しかった。夜には、病人はもう手を上げるだけの力もなく、ただ、注意を一点に集中したようなまなざしを変えずに、じっと、目の前を見すえているばかりであった。弟なりキチイなりが、いやでも目にはいるように、彼の前にかがみこんでも、病人の目つきは、やっぱり変らなかった。キチイは、臨終の祈祷をしてもらうために、司祭を迎えにやった。
司祭が臨終祝文を唱えているあいだ、瀕死の病人は、少しも生きている徴候を見せなかった。目は閉ざされていた。リョーヴィンとキチイとマーシャは、寝台のそばに立っていた。司祭がまだ祈祷が終わらぬうちに、病人はぐっと伸びをして、溜息をつくと、目をひらいた。司祭は祈禱を終ると、冷たい額に十字架をあて、それからゆっくりとそれを聖帯につつんで、なお二分ばかり無言のまま立っていてから、もう冷たくなった、血の気のない、大きな手にさわった。
「ご臨終です」司祭はいって、そばを離れようとした。が、そのとたん、ぴったりくっついていた死者の口ひげがかすかに動いて、胸の奥からしぼりだされたような、きっぱりと鋭い響きが、あたりの静けさの中に、はっきりと聞えた。
「いや、まだだ・・・もうすぐだ」
それから一分後に、その顔はさっと明るくなって、口ひげの下には微笑が浮んだ。と、集まっていた婦人たちが、かいがいしく死体の始末にとりかかった。
兄の様子と死期の切迫は、リョーヴィンの心に、兄が自分の家へやって来たあの秋の晩、不意におそってきた恐怖の念を、また呼びさました。それは死という不可解なものを前にしたときの、と同時に、死の切迫と不可避とに対する恐怖の念であった。いまやこの感情は、前よりもっと強くなった。彼は自分が前よりもいっそう死の意義を解く力のないことを痛感し、しかもそれが不可避であることをさらにいっそう恐ろしく感じていた。しかし、今は妻が身近にいるおかげで、この感情も彼を絶望におとしいれなかった。彼は、死というものが存在していても、生きかつ愛さなければならないと感じていた。彼は愛こそが自分を絶望から救い、絶望の脅威にさらされることによって、この愛がさらに強烈にさらに純粋になっていくことを感じていた。
彼の目の前で死という一つの神秘が、不可解のまま完成されるかしないうちに、それと同時に、不可解な、愛と生にみちびくもう一つの神秘が生まれたのである。
医師はキチイの健康について自分の診断を確認した。健康がすぐれないのは、妊娠のせいだったのである。」
(トルストイ『アンナ・カレーニナ(中)』昭和47年2月20日発行、昭和55年5月25日第16刷、新潮文庫、481-493頁より)