慶応義塾大学通信教育教材-三色期2000年5月(No.626号)より
「平成11年度夏期スクーリング「総合講座」-環境問題と大学-『自滅』から『持続』へ(その2)
重力場における循環
前節で太陽エネルギーによって駆動さえる植物・動物・微生物の循環構造について述べたが、この地球は重力場があるため、それほどうまく回っていくことができない。山奥の森林が造りだす「栄養分」は水に溶け込んで山を下り、野の生きものを潤し、海に流れ込んで海洋生物の命を支える。
宮城県気仙沼の牡蠣養殖に取り組む畠山重篤さんはこの事に気付き、子孫に豊かな海を残すために山に入って植林を始めた。名著『森は海の恋人』はこの思いを多くの人々に伝え、全国の漁師が大漁旗をなびかせながら山に入り、植林活動を始めるきっかけを作った。
山から流れ下った栄養分は海洋性プランクトンによって捕捉され、豊かな海の生態系を育むが、その一部はさらに深海底に落ちてゆく。事実、数百メートル以上の深海ではリン酸などの濃度は海面より高く、山からの栄養分が深海に移行していることが判明している。海底の水温は海面の水温より低いため対流は起こらず、再び海面に戻ることはない。
山の植物が造りだした「栄養分」は、このままであれば、重力により深海底に移行するだけで、そこには循環ではなく「フロー」のみが存在する事になり、結局山の「栄養分」の全てが海に流れ込んだとき生態系は終焉を迎えられることになる。前節でのべた見事な循環システムは重力場の存在により崩壊してしまうことになる。
移動者としての動物
しかし、生態系には重力に抗して海から山へ向けて「栄養分」を運び上げる役割を果たす生物が存在する。循環系において「消費者」と位置づけられていた動物がその役割を担っている。
例えばトンボは水中に卵を産みつける。孵化したトンボの幼虫はヤゴと呼ばれ、水に溶け込んだ「栄養分」を蓄積し、成長すると脱皮すて空中に飛び去り、やがて森のなかで死ぬ。そのことにより水中の栄養分を重力に抗して山に戻す役割を果たしている。不思議なことに昆虫の中には水中で成長するものが多い。
水辺に棲息する鳥類の多くはこうした水棲昆虫や魚を採って食べて、山に戻って糞をすることで、重力に抗して山に栄養分を戻す役割を果たしている。山奥の水源から海辺に至る水系の周辺には多様な動物が生活しており、それらは複雑に絡み合いながらも、全体として海から山へ「栄養分」を運び上げる働きをしている。循環図では単なる「消費者」として位置づけられていた動物は、重力場における「移動者」として評価することができよう。
しかし、これら動物の動きがありながらも深海底における「栄養分」の蓄積は現実に存在しており、動物の役割は単に破局を先延ばしにしているに過ぎないようにみえる。
セイウチ・トド・アザラシの世界を支えるのは
アリューシャン列島の草木一本生えることのない荒れ果てた島々に、地球上最大の巨大怪獣であるセイウチやトドやオットセイやアザラシなどが所狭しと棲息している。海にはこれも巨大な鯨がゆっくりと暮らしている。この巨大な怪獣を頂点とする北辺の生態系を支える「栄養分」はこの不毛の島々には見当たらない。
深海の水温はほぼ一定でおよそ3℃程度である。温帯域では海面温度の方が高いため対流は生じないが、極北の海面の水温がこれより低いため、深海底から「栄養分」豊かな深層水が大規模に湧昇する。そのため、広大な大洋の海底ではゆっくりとした極北の海に向かう深海流が存在し、森から流れ込んだ「栄養分」がはこばれていく。
深海から湧昇した「栄養分」が海面で太陽の光に曝されることで大量の植物性プランクトンが発生し、これがこの北永洋の生態系の全てを支える物質的根拠となる。栄養分豊かな海水は大陸沿いに南下し親潮と呼ばれるようになる。同じことが南永洋にも起こっている。
サケはなぜ川を遡上するのか
サケは川の水源域の清流に産卵する。孵化した稚魚は川を下り海に出て、「栄養分」の豊かな北永洋に向かい、そこで成長した数年後には再び生まれ故郷の川を遡上し、最上流部で産卵してその生涯を終える。
そのサケの死体はクマをはじめとする獣類や、ワシやタカなどの鳥類の餌となり、その動物たちは森の奥で糞をすることで、深海に沈んだはずの「栄養分」を再び森に戻す。この深海海底に流れ込んだ「栄養分」を重力に抗して森に運び上げる役割を果たすのは、ただひたすら川を遡上するサケであり、また川辺に暮らす動物達であった。
この地球の生命系を維持する巨大な循環が重力場の中においても成立するためには、動物の移動する能力が必要であった。川は単に上流から下流に栄養分を流すだけではなく、深海から山頂へ向けて栄養分を運び上げる役割も果たしていた。この絶妙な生命維持装置が健全に機能することによってのみ、我々は「解放定常系」としての地球に生きることが可能となる。
ダムで川をせき止め、河口でサケを一網打尽にするようなことは、川の持つ機能を根底から破壊するものであることは自明である。我々が構築しようとしている環境学とは、「何をしてはいけないか」を見極める学問であると言えよう。
パリと江戸
人間の社会で最も人工的な空間は都市である。近世における百万規模の大都市として、パリと江戸とを比較してみよう。
パリを始めとするヨーロッパでは、もともとし尿を「おまる」で処理するのが普通であった。都市部では、各家庭から道路へこれをぶちまけるのが常態で、極めて不潔な町であったため、ペストやコレラがしばしば猛威を振るうことになった。
そこで、道路の下に下水道を巡らせ、バスタブの排水管に「おまる」を取付け、そこで排泄して水で流す技術を開発した。これが水洗便所の始まりでる。しかし、その下水道管の先はセーヌ河に開いていた。汚れを見えない場所に移動させただけのことだった。
それに対し、江戸では全く異なるシステムが構築されていた。家庭雑排水はドブから川へ流れ込み、海に入って行く。川の水には森からの栄養分が含まれているが、人間社会はそれに更なる「栄養分」を上乗せすることになる。この「栄養分」は植物性プランクトンや海草類に吸収され、豊富な魚介類を育む。
江戸市民はこれらを「浅草海苔」「江戸前の魚」として海から回収し、これらを食料にした。海に流れ込む「栄養分」と回収される魚介類とがバランスしたとき、江戸湾の海は安定した生態系を維持することができた。
江戸市民のし尿は一滴もむだにすることなく回収され、農地へ豊かな肥料として供給され、土壌微生物がこれを分解し、農産物が生産された。海から「栄養分」を回収し、各家庭からし尿を回収することのすべては、正(プラス)の経済活動として行われ、全体として循環構造を積極的に回転させることに成功した。
ここで、人間は、本来の動物の役割である、重力に抗して「栄養分」を海から回収し、田畑に持ち上げる役割を果たすことで、見事な物質循環を成立させた。江戸時代に完成したこの見事な循環系は明治以降にも残された。百万都市が一千万都市へと傍聴したとき、し尿を輸送する手段も多様化し、東京湾の漁業も健全に維持されてきた。基本的にこのシステムは第二次世界大戦が終了したあとも維持されてきた。
石油文明の登場
江戸型循環システムが崩壊したのは1960年代に入ってからであった。四百年あまりの時間の中で完成度の高い循環経済システムを構築してきたその全てが、東京オリンピックから大阪万博までの間に完全に崩壊した。この日本に本格的な西洋文明が導入されたのはこの頃からであったのかもしれない。鉄とコンクリートをふんだんに使った巨大な建造物が町に溢れ、便所の全てが水洗化され、河川は次々と三面コンクリート張りとなり、大地はアスファルトで覆われ、農地には化学肥料と農薬が投入されるようになった。
あらゆる循環が断ち切られた都市には、新たにゴミ問題、河川と海の汚染の問題が発生し、大気や土壌が汚染され、食べ物の中には農薬や保存料や着色料などが大量に含まれるようになった。これらはすべて、人間が自然の循環に依存する生活態度を放棄し、全面的に石油文明に依存する社会・経済システムに突入していった結果であった。環境問題とは、石油文明による循環系の破壊であると位置づけることができよう。
分散型社会システムへの道
現代社会に「江戸型」循環社会経済システムを再構築することはできるだろうか。コンクリートに塗り込められた大都市を再び豊かな循環歳に戻すことは極めて困難なことだろう。しかし、小規模分散的に様々な循環を取り戻す工夫はすでに行われている。
例えば、山形県の長井市でゃ、町から出る生ゴミを集め、質の高い堆肥にして農地に還元し、有機無農薬農業による安全な野菜を町に供給することに成功している。江戸型循環システムの再評価の一つの実例である。
個人の家でも合併浄化槽を設置して水の処理を行うことができる。台所と風呂と水洗便所の排水を合わせて処理し、透視度一メートル程度の質の高い水に再生し環境に戻すことに成功している。
太陽電池や風力発電などの自然エネルギーは、枯渇する事のない太陽エネルギーに依拠した発電システムであり、個人の住宅や中小都市の電力を自給することができる。巨大化したシステムを巨大なままで修復することは極めて困難であるが、それぞれの地域で自立(自律)的に循環を取り戻すことは可能であり、そのような等身大の技術システムは第三世界を誤った近代化路線から救い出すことも可能となろう。
グローバルな自滅的システムの廃棄
循環型の持続的システムは土壌微生物の分解作用を基礎に成立する。しかし、現在の巨大化した技術システムはこの循環システムを巨視的に破壊する力を持っている。いかに豊かな土壌を再生し、豊かな生態系を回復することに成功しても、一旦そこに放射能やダイオキシンが降り注げばすべての努力は無意味化される。チェルノブイリ原発事故では半径300キロメートルの範囲内の森と農地と水系は半永久的に放棄せざるをえない。劣化ウラン弾を打ち込まれたイラクやコソボの大地でも同じことが起こっている。
原子力産業は、それが軍事的であるか商業的であるかを問わず、三つの巨大な放射能問題を抱えている。その第一は既にのべた巨大事故の問題であり、もし万一その放射能が環境に放出されてしまえば、地球規模にその影響がおよび、国家の規模を超えた広範な大地を再生不能にしてしまうことになる。
その第二の問題は、たとえ事故を起こさずとも、産業を維持するために動員される労働者の放射線被爆を避けることができないという点である。特に原発の定期検査時に動員される大量の労働者は原子炉周辺の高放射線レベルの環境下で燃料の交換や部品の修理などを行い、大量被爆を避けることはできない。最も危険な作業は多重下請け構造により供給される日雇い労働者があたり、その人々は社会的に差別される下層労働者である。彼等の犠牲においてこの近代的で豊かな社会が維持されていることを知る人は少ない。
第三の問題は放射性廃棄物の処理問題である。原子炉では毎年一トンほどの高レベル放射性廃棄物が製造される。この放射能の量は核兵器の千倍程度の規模の毒性を持ち、核種によっては極めて長い寿命をもつ。例えば、チェルノブイリの大地を今なお汚染しているセシウム137は三百年ほどあってようやく千分の一にまで減衰し、プルトニウムの場合には24万年程の時間が必要となる。この膨大で強い毒性を持つ物質を数万年間に渡って管理する社会システムを構築することができるのか、また、その毒物に対する責任を負うことのできる社会システムを作ることができるのか、が問われている。核の利用技術を放棄してもなお、人類はこの問題への回答を迫られることになるだろう。
江戸時代に構築された見事な循環システムを再構築するための技術は、どれもがすでに成熟した技術である。しかし、この持続的システムの維持と、地球規模の自滅的システムは共存することができない。
環境論とは、私たちが安心して次の世代へいのちの流れを引き継いでいける社会を構築することが、真の目標である。そのためには、核と戦争とを、まず廃棄することからはじめなければなるまい。」