行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

伊豆の旅

2016-10-03 21:31:38 | Weblog

たまには温泉と思い立ち,伊豆へ圏央道が東名につながり、伊豆箱根が近くなった。

修善寺の伊豆のへそという道の駅、一本柱が巨大な建物を支える珍しい構造、隣のハワイアンセンターではポリネシアショウも

宿は湯ヶ島の奥、狩野川の上流にとった。ドコモの電波は届かないが、宿ではWI-FIのサービスがある。こんな辺鄙な宿にも中国人客が、かの国の浸透力はかつての大英帝国、高度成長時代の日本を彷彿させる。

宿からの狩野川の渓谷と近所の浄蓮の滝

  

帰路、世界遺産韮山の反射炉(カノン砲製造工場)と建設した江川太郎左衛門英龍の屋敷を訪ねた。

この反射炉、オランダから取り寄せた設計図を基に作り上げたもので、当時欧州では高炉の時代になっており、反射炉は残っていない。まさに遺産といえる。日本の技術発展史の源流と評価されている。

江川太郎左衛門の屋敷を訪れ、解ったことは代官としての行政役人と技術者の二面を備えてるだけでなく、蝶や鳥の絵を見ると、若冲はだしの精密観察画を画いており、日本のダビンチと地元では評価していた。彼は技術者養成の塾を開き、最初の卒業生は佐久間象山で、咸臨丸乗組員の半分はこの塾出身者だった。塾での英語の先生はジョン万次郎だったところを見ると、当時の日本では最高の私学ではなかったか。

築700年といわれる江川邸玄関

江川家のその後の家系はやはり技術屋や教育者がが多いが、太郎左衛門英龍の孫英武は代官の管理領地とほぼ同じ当時の韮山県の知事となった。そして、明治に入り3年間、韮山県は神奈川県、伊豆半島の大部分,山梨の一部、わが住居東京多摩をも含む巨大な県として存在した。


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