行雲流水

阿島征夫、一生活者として、自由に現代の世相を評す。時には旅の記録や郷土東京の郊外昭島を紹介する。

忘れてはならないもう一つの東京大空襲1945年5月25日

2020-05-25 18:01:56 | 政治

先日、日経の私の履歴書に岸惠子さんが横浜で空襲に会ったことを書かれていた。彼女の筆力は素晴らしく、恐怖の様は空襲の恐ろしさを肌で感じるほどだった。当時彼女は12歳で、周囲の大人は子供は早く防空濠へと導いたが、母の言いつけで防空壕を飛び出し、高台の公園に避難し、松の木に登って助かったと書かれていた。防空濠に避難した人は全滅だった。私は当時2歳で、母から話を聞くだけで記憶にはないが、岸惠子さんの文章から、空襲の恐ろしさひしひしと感じた。

東京の下町を襲った3月10日の東京大空襲では10万人の死者が出た。103歳で亡くなった母の手記によると、5月の山の手大空襲で赤坂表町の実家で焼け出され、焼夷弾の降る中、当時28歳の母は私を背負い必至に逃げ、九死に一生を得た。岸さんの横浜の空襲では機銃掃射が身近にあったが、赤坂ではなかったようだ。岸さんの手記と同様、防空濠に逃げた人は劫火で蒸し焼きになり、私達親子は赤坂から丘の上の永田町小学校に逃げ込み助かった。母の弟、叔父が海軍に入隊しており、同小学校は海軍が守っていたからの判断だったようだ。

記録によれば、1945年5月25日夜間、B29米爆撃機502機が東京の山の手地域に来襲し、うち470機が無差別に焼夷弾を投弾する絨毯爆撃を行った。皇居も含め赤坂・青山・中野などが標的になり、投下された焼夷弾は3月10日の東京大空襲の倍近い3258トンで、「東京空襲の総仕上げ」とも言われている。この空襲での死者数は3651人で、特に表参道周辺には逃げ遅れた人々が殺到し、多数の犠牲者を出した。安田銀行 (現:みずほ銀行)の扉の前には黒こげの遺体が山となった。死者数が東京大空襲での死者数10万人を下回っているが、これは疎開が進んだことや、消火活動より避難を優先するようになった為だとされている。

政府は3月10日の空襲の翌日「空襲を恐れず、逃げないで消火せよ」と発表している。装備も不足しながら決死の消防隊の無力さ、無念さが無謀な戦争に突入した為政者に対する怒りは大変なものだったろう。


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