大谷大学博物館から島津製作所へ向かう道すがらです。
高瀬川の脇を通り北上しました。ウィキペディアによると「高瀬川(たかせがわ)は、江戸時代初期(1611年)に角倉了以・素庵の父子によって、京都の中心部と伏見を結ぶために物流用に開削された運河である。開削から1920年までの約300年間京都・伏見間の水運に用いられた。名称はこの水運に用いる「高瀬舟」にちなんでいる]。」との事。一之船入から九之舟入まで有り、その他舟廻しなど色々の施設がある。
九之舟入 |
1 佐久間象山と靖国神社に大きなと銅像が建っている大村益次郎の遭難の地だそうです。(また、高瀬川周辺は幕末の事変を示す石碑が多く存在する。
2 高瀬舟が係留されているすぐ後ろの鉄柵の所が現存する一之船入です。
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4 伏見の清酒を開運の荷として運んだ姿です。
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9 高瀬川は水深が数十センチの深さしかなく、ブナ底が平らな形状をした高瀬舟と呼ばれる造りになっています。
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