東本願寺から西本願寺に向かう時に、西本願寺の隣に本山興正寺がありましたので、参拝した次第です。
興正寺の事を何も分からず入りお参りです。
なので、興正寺のHPからその沿革を引用させて頂きます。
興正寺の沿革
興正寺(こうしょうじ)は、親鸞聖人(1173~1262)を開祖とする真宗興正派の本山です。興正寺の創建は鎌倉時代にさかのぼります。承元の法難(建永の法難)により越後国(新潟県)へと配流された親鸞聖人が、建暦元年(1211)に勅免をうけた後、翌建暦2年(1212)に京都へと一時帰洛して、山科の地に一宇を草創したことに始まります。興正寺という寺号は、順徳天皇(1197~1242)によって名づけられたと伝えられ、日本に仏教をひろめた聖徳太子の事績にちなみ「正しき法を興し、さかえさす」(正法を興隆する)との願いが込められています。 第7世了源上人(1295~1336)の時代に寺基を山科から京都東山の渋谷へと移し、寺号も佛光寺と改めます。佛光寺の寺号は、御本尊の阿弥陀如来像が光明を放ったという霊験にもとづき後醍醐天皇(1288~1339)から賜ったと伝えられています。佛光寺の教勢は飛躍的に拡大し隆盛を極めます。 室町時代、第14世蓮教上人(1451~1492)は、本願寺の蓮如上人(1415~1499)と歩みを共にし、佛光寺を弟に譲り、再び山科の地に多くの門徒と共に興正寺を再建することになりました。その後は本願寺と歩調を合わせ、度重なる移転にも常に行動を同じくしています。 第17世顕尊上人(1564~1599)の時代であった天正19年(1591)に、興正寺は本願寺とともに現在の京都堀川七条の地へ寺基を移します。お堂が隣接して建てられているのも本願寺との深い関係を示しています。 一方、江戸時代を通じて興正寺は西本願寺の末寺でしたが、本山として独立しようとする気運も根強く、第27世本寂上人(1808~1877)の時代であった明治9年(1876)に一派本山として独立を果たしました。
明治35年(1902)、興正寺は火災によって、いわゆる「ひとつ御堂」と称せられた本堂をはじめほとんどの堂舎を失います。残されたのは鐘楼(1774年建立)や経蔵(1848年建立)などわずかな建造物だけでした。翌年に再建の議が決し、明治45年(1912)に御影堂が、大正4年(1915)に阿弥陀堂が完成しました。 多くの変遷を経ながらも「正法を興隆する」という願いのもと興正寺の歩みは続けられています。
歴史にも寺社仏閣にも疎い自分ですから、学ぶことは初めての事ばかりです。隣に在ったからなどと不謹慎な事をのべましたが、歴史のある寺院でした。
1 堀川通を渡って向かいます。この通りが東京から大阪へ通じる国道一号線のようです。
2 大規模な修繕が行われているようでした。一番左手前に在るのが鐘楼ですが、建立以来今に伝える貴重な物だとは知らずに正確に撮った写真はありませんでした。歩行者信号の後ろに写っているだけです。
3 土塀に格式を示す五本線です。真宗興正寺派 本山興正寺と記されています。
4 本山 興正寺です。
5 三門の手前からです。 隣に見えるのが阿弥陀門です。
6 立派な三門です。
明治45年(1912)建立(HPより引用です。)
御影堂の前に位置する二階建ての楼門です。三門とは空・無相・無願を経て涅槃に至る門、三解脱門を表しています。三つに仕切られた入り口があり、門扉には牡丹唐草に抱牡丹紋の彫刻が施されています。明治45年(1912)の宗祖650回大遠忌を期して建立されました。
7 三門です。
8 中央に本尊の阿弥陀如来の木像を安置されている、本瓦葺二重入母屋造の興正寺の本堂である阿弥陀堂です。
9 本尊の阿弥陀如来が祀られている阿弥陀堂です。
10 撮影禁止の文字は見えませんでしたが、ズームで遠くから阿弥陀堂内を撮影させて頂きました。
11 修復中の御影堂です。三門からの撮影です。
12 阿弥陀堂から修復中の御影堂を望み。
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14 嘉永元年(1848)に建立された経蔵です。
初層は唐破風付白壁土蔵造、二層は唐破風付楼造、屋根は宝形造の経蔵です。中には経・律・論のすべてを収録した一切経がおさめられています。「法宝蔵」の勅額は孝明天皇より下賜され、額字は右大臣近衛忠煕の筆です。建立当初の位置が唯一変わっていない貴重な建築物です。 以上引用です。
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一寸視線を変えて、一休みです。
今回は旅の中での都バスのお話です。
都内で出会った燃料電池の都バスです。東京都交通局では燃料電池バスを運用し始めたのは知っていましたが、今回の旅で初めて見る事ができました。
都バスに限らすその他の公共交通機関でも使用を一部開始しているようです。
水素と空気中の酸素で発電し脱CO2の化石燃料に繋がり、地球温暖化防止の一助になるかもしれないしれない技術です。
車を造るときも脱CO2で、車を運用するときも省エネ且つ脱CO2で、車を解体するときも脱CO2でトータルの経費も軽減できる事を願いつつ。
最初の導入時の燃料電池バスの車体価格は1億円程度で、一般的な路線バスの5倍程だったそうです。トヨタの技術力などで安価になって来ることを願っています。
東京都交通局のHPから燃料電池バスの記事を引用させて頂きます。
交通局では、このたび、トヨタ自動車株式会社が開発・市販化した燃料電池バス2両を導入する運びとなり、下記のとおり、平成29年3月21日(火)から、市販車では日本で初めて、路線バスとして営業運行することと致しましたので、お知らせします。
交通局は、これまで、平成15年や27年の実証実験などで、燃料電池バスの市場投入に向けた技術開発などに協力してまいりました。今後も、燃料電池バスの導入を順次拡大するなど、水素社会の実現に向け貢献してまいります。
トヨタ自動車の燃料電池バス「SORA」の先進的な記事はこちらです。
トヨタの燃料電池車のミライはこちらです。
個人的には水素ステーションなどの配置の事も有り、自家用車として普及するのには、未だ未だボトルネックがあると思っています。しかし、公共交通機関の一翼を担う路線バスには、ある意味最高の位置にいるかと思っています。水素ステーションも水素の補給も全てにおいてこれに勝る燃料電池車は無いと思っています。
トータルで脱二酸化炭素が捗り化石燃料の使用が削減でき、安価でバスが出来るのであれば最高だと思う次第です。
自分が知らない間に、都心部では既に沢山走って居る事を目の当りにして捨てたもんでは無いと思っています。もしかするとこれも 2020 東京オリンピックの賜物かもね。
東京駅の八重洲側で見つけた燃料電池の都バスです。三井ガーデンホテル京橋から東京駅に戻り我が家に初めて帰宅する直前です。
こちらは、豊洲で何台も見かけましたが、道路の反対側を走る燃料電池都バスです。
30泊31日の旅の最後、六本木のホテルから我が家に帰る為に渋谷に向かうところで写したものです。こちらのバスに乗っても渋谷には行きません。行き先は六本木ヒルズのようです。
四日目の旅は京都駅近辺です。全て徒歩での移動です。
二件目にお邪魔した東本願寺の沿革を真宗大谷派(東本願寺)のHPから引用させていただきます。(ニコンにて撮影)
真宗大谷派(東本願寺)沿革
真宗大谷派の本山である真宗本廟(東本願寺)は、当派の宗祖である親鸞聖人(1173~1262)の門弟らが、宗祖の遺骨を大谷(京都市東山山麓)から吉水(京都市円山公園付近)の北に移し、廟堂を建て宗祖の影像を安置したことに起源する。親鸞聖人の娘覚信尼は門弟から廟堂をあずかり、自らは「留守職」として真宗本廟の給仕を務めた。爾来、真宗本廟は親鸞の開顕した浄土真宗の教えを聞法する根本道場として、親鸞聖人を崇慕する門弟の懇念により護持されている。
第3代覚如上人(1270~1351)の頃、真宗本廟は「本願寺」の寺号を名のるようになり、やがて寺院化の流れの中で、本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)が並存するようになった。こういった経緯により、真宗本廟は、御真影を安置する廟堂(現在の御影堂)と本尊を安置する本堂(現在の阿弥陀堂)の両堂形式となっている。
戦国乱世の時代、第8代蓮如上人(1415~1499)は、その生涯をかけて教化に当たり、宗祖親鸞聖人の教えを確かめ直しつつ、ひろく民衆に教えをひろめ、本願寺「教団」をつくりあげていく。このことから、当派では蓮如上人を「真宗再興の上人(中興の祖)」と仰ぐ。
京都東山にあった大谷本願寺は比叡山との関係で一時退転し、蓮如上人の北陸布教の時代を経て、山科に再興。その後、大坂(石山:現在の大阪市中央区)へと移転する。しかし、第11代顕如上人(1543~1592)の時代に、織田信長との戦い(石山合戦)に敗れ、大坂も退去することとなる。この際、顕如上人の長男教如上人(1558~1614)は、父顕如上人と意見が対立し、大坂(石山)本願寺に籠城したため義絶された。天正10年(1582)に義絶は解かれ、天正13年(1585)本願寺は豊臣秀吉により大坂天満に再興。さらに天正19年(1591)京都堀川七条に本願寺(現在の西本願寺:浄土真宗本願寺派の本山)は移転した。顕如上人没後、一度は教如上人が本願寺を継ぐも、秀吉より隠退処分をうけ、弟(三男)の准如上人が継職した。
しかし、その後も教如上人は活動を続け、慶長3年(1598)秀吉没、慶長5年(1600)関ヶ原の戦いを経て、慶長7年(1602)京都烏丸六条・七条間の地を徳川家康から寄進される。慶長8年(1603)上野国妙安寺(現在の群馬県前橋市)から宗祖親鸞聖人の自作と伝えられる御真影を迎え入れ、同年阿弥陀堂建立。慶長9年(1604)御影堂を建立し、ここに新たな本願寺を創立した。これが当派の本山である「真宗本廟」のなりたちであり、教如上人を「東本願寺創立の上人」とするゆえんである。
真宗本廟は、その後四度にわたって焼失しており、現在の堂宇は明治28年(1895)に再建されたものである。世界最大の木造建築物である御影堂をはじめとする諸堂宇は、100余年の経年により屋根瓦や木部の随所に損傷が見られ、現在その修復工事に取り組んでいる。
江戸時代の東本願寺は、創立時における家康との関係もあって徳川幕府との関係は良好であり、また、寺院と門徒の間には、寺檀関係(檀那寺と檀家の関係)による結び付きがあった。明治時代に入ると、新政府による神仏判然令(神仏分離令)、廃仏毀釈(仏教弾圧)の動きが仏教諸宗にふりかかり、東本願寺も苦境に陥った。さらに幕末の戦火で両堂を失っていた東本願寺であったが、厳しい財政状況のなか、あえて新政府への協力を惜しまず、また全国の門徒による多大なる懇念により財政再建が果たされ、明治の両堂再建が成し遂げられた。しかし、一方で教団は、江戸時代の封建制度の流れを汲む体質を残したまま、近代天皇制国家のもと戦争に協力していくことにもなったのである。
そのような中、当派の僧侶である清沢満之(1863~1903)は、教団の民主化と近代教学の確立を願い、宗門改革を提唱し、数多の教学者と聞法の学舎を生み出していった。この潮流は、昭和37年(1962)に「同朋会運動」として結実し、爾来、当派の基幹となる信仰運動として、半世紀にわたって展開している。
ただし、こうした「同朋会運動」の潮流は、始めからすべての人たちに受け入れられた訳ではない。昭和44年(1969)、「同朋会運動」に抗する勢力により教団問題が顕在化する。当時、東本願寺の歴代は、法主※(法統伝承者)・本願寺の住職・宗派の管長の3つの職を兼ね絶大な権能を有していたが、その力を利用しようとする側近や第三者により、東本願寺が私有化され数々の財産が離散するという危機に瀕したのである。
また、数々の差別問題を引き起こし、旧態依然とした教団の封建的体質が根底から問われることになったのである。
こういった教団の本義を見失う危機を経て、当派は、これらを深く懺悔し、昭和56年(1981)、最高規範である「真宗大谷派宗憲」(当派の最高規範)を改正。「同朋社会の顕現」(存在意義)・「宗本一体」(組織理念)・「同朋公議」(運営理念)を運営の根幹とし、一人ひとりが信心に目覚め、混迷する現代社会に人として本当に生きる道を問いかけていくことを課題とし、純粋なる信仰運動たる「同朋会運動」を軸として歩み続けている。
2019年の11月から12月に掛けての旅行でも東本願寺にはお邪魔して居ましていましが、スレッドはアップしておりませんでした。大谷祖廟はアップしてありました。
今回は以前にアップしていると思い込んでいたので、特殊なアングルでの差撮影になっていますが、ご了承のほど。
1 HPの案内図などをスクリーンショットで引用させて頂きました。
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3 手水舎越しに御影堂門を望んでいます。
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9 京都駅のご近所ですから、タワーも見えます。
10 心憎い配慮がありがたいです。原村の峠の我が家にも初期の頃、赤松を伐採した材木で作りました。と、言うより切っただけですが。そんなことを思い出して座らせて頂きました。
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12 御影堂門を潜って入ると右手に見える参拝接受です。
13 左手の建物が御影堂で右側が高廊下側です。
14 御影堂門の壁に五本の線が入っています。天皇家と近くて格式のある寺社を示しています。
15 御影堂を接受所側から撮影したものです。
16 この日は、音響機器なのか計測機器なのか分かりませんが設置して係りの方が作業を行っておりました。
17 御影堂から阿弥陀堂に移動する途中に毛綱と大橇が展示されています。
新潟県より信徒の方々に依って切り出されたケヤキの巨木を運んだ大橇です。雪崩に遭遇して27名の尊い命が失われた方達の哀悼の意をささげます。 HPから次に引用いたします。
大橇(おおぞり)
1883(明治16)年3月12日の午後2時頃、越後国頸城郡川谷村内(現、上越市吉川区川谷)の尾神嶽(おがみだけ)で二千余人の人が、川谷村より切り出した欅の巨木を大橇で運搬中に雪崩に巻き込まれ、27名の人々が亡くなられました。これを「尾神嶽殉難事故」といい、高田教区においては、念仏の教えを相続するため、1887年9月に「報尽為期碑」(ほうじんいごひ)を現場付近に建立しました。「尾神嶽殉難事故」当時も、このような大橇で用材が運搬されたと考えられます。
※この大橇は、上越市柿崎区円田神社で保存されていたものであり、尾神嶽殉難事故の際に使用された大橇ではありません。
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19 仏教寺院ではこの五色が特別な意味を持つようです。長谷寺で頂いた五色線のスレッドはこちらです。
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21 阿弥陀堂から御影堂門方面を覗いています。
22 奈良、京都にある古い寺社仏閣の中にあっては歴史的な建造年は浅いかもしれません。でも、木造建築の素晴らしさを示してくれています。
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28 境内にある「鐘楼」を含めて、次の五つの境内にある「御影堂」「阿弥陀堂」「御影堂門」「阿弥陀堂門」「手水屋形」の6棟が重要文化財に指定されています。
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30泊31日の旅の最終版の2021年4月25日の東京の空です。
時刻は午後6時20分です。
4月26日に最終の宿泊で、開けて27日に自宅に帰りました。
夕焼けを眺めての都心の空です。
今までも血圧計を使っていましたが、新しいオムロンの上腕式血圧計が届きました。手首など今では水銀式に留まらず沢山の形式の血圧計が出ています。
個人判断ですが、上腕式血圧計が精度が一番高そうなので今回も上腕式俗に言う二の腕で計測するものです。
私の今日、最初に測った血圧の数値です。血圧の薬を飲んでいますので数値が正常でも当たり前ですが。最低血圧(拡張期血圧)が75mmHg までが正常値ですからその数値は上回っていますが、それ程神経質になる事もありません。
今まで使用していたオムロンの上腕式血圧計です。機能的には何も壊れえていませんが、マジックテープが弱くなり少し手で押さえねば外れてしまいます。同じものがお山にもありますので、そちらも廃棄する積りです。スマホのアプリで毎日の血圧等アップしています。健康に関しても今ではアプリ様様です。
スマホのアプリで健康管理です。
大好きと言うのも言葉として可笑しいかもしれませんが、そんな気持ちになる東本願寺です。
だからと行って東本願寺の事も西本願寺の事も何も知りません。
今回は東本願寺の飛地境内地(別邸)である渉成園から東本願寺までです。
一直線で、歩いても直ぐですが。(撮影は全てニコンです。)
1 渉成園を入った直ぐの所にある休憩所にはご覧の通りの東本願寺のお水の自販機がありました。
2 町家の雰囲気を醸し出すお宿。囲炉裏です。今は外国人も来ませんし大変だと思います。
3 振り返ると、渉成園の正面入り口が見えます。
4 烏丸道路わきもご覧の通り桜が満開です。撮影は3月31日です。
5 移転や火事などで焼失しての再建ですが実に立派です。
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7 烏丸通を渡り東本願寺へ。
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13 これより御影堂門を潜るところまでです。
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本来は入り口方向に歩いていますから、順序は逆ですが。
撮影順にアップしています。
色々な庭園がある事を肌で感じる旅でした。
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23 次の二枚はニコン一眼レフでの撮影です。出てきた入口を振り返り。
24 奥の方に行ってしましましたが。本来はこちらの来るのが正しい順路dした。
気分を変えてここでクイズです。
ミサンガの用に見えるこれは何だか知っていますか。
ヒント
1 奈良県民の方はご存じかも。
2 参拝したお寺で左手首に巻いてもらいました。
3 五色の糸が束ねられています。
4 あるお方との縁を結んでいます。
解答は追って。
解答です。
大和の国 長谷寺 のHPから以下引用させて頂きます。
今季もたくさんの方にご縁を結んでいただいている特別拝観(12/4まで)ですが、その際に結縁の証としてお渡ししている五色線についてのご提案です。
お渡しした五色線は左腕につけて頂いています。また、お渡しした袋にいれて仏壇に置いておられる方もいらっしゃいます。せっかく結縁しましたので近くに付けて頂けると有難いです。
そこで、毎日腕につけて頂いても良いのですが、根付にして鞄や車につけて頂いても良いでしょう。
その方法としてあげまき結びという結び方を紹介いたします。あげまき結びは古来より飾り結びとしてさまざまな所で使用され、魔除け、護身の意味も込められている結び方です。
観音さまよりいただいた「ご縁」をお守りとして大切にしていただきたいと思います。
観音様と縁を結んだ証の五色線が正解です。
HPをスクリーンショットで撮影させて頂きました。
HPにも記載されていますが「あげまき結び」として根付の如く肌身離さず持ち歩く方法もあります。ユーチューブ動画で長谷寺五色線あげまきむすびで検索すると直ぐに出てきます。
自分は左手に巻いて、観音様を感じつつ生活します。
前回来た時に東本願寺に行ったのに、その飛び地にあたる庭園・渉成園にお邪魔していませんでした。
初日の京都駅前のホテルでは遅くまで起きずにノンビリていていたので、徒歩で行ける京都駅周辺をにした次第です。
最初に訪問した東本願寺の別邸の渉成園を二部に分けてアップします。次の文章は真言大谷派・東本願寺のHPから渉成園の所を一部引用させて頂きます。
池泉回遊式庭園をもつ東本願寺(真宗本廟)の飛地境内地(別邸)。1641(寛永18)年に三代将軍・徳川家光から当地(約一万坪)が寄進され、石川丈山の趣向を入れた作庭がなされました。園内の諸殿は1858(安政5)年、1864(元冶元)年の二度にわたって焼失。現在の建物は明治初期から末年ごろに至る間に順次再建されたものです。庭園には四季折々の花が咲きほこり、変化に富んだ景観は「十三景」と称されて、高い評価がなされています。
宿から徒歩で来ましたので、南側の所に突き当たりました。本来は東本願寺がある西側に正門がありますが、3/4週して正門に辿り着くことになりました。
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5 突き当りを左に曲がり園内の入るのが順路でしたが、前の方に付いて右に曲がって行ってしまいました。逆回りで庭内を見学する事になりましたので、次の建物などの順番と映像で出てくる順路が異なります。悪しからず。
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京都の夕食と岡山の夕食が相前後してしまいましたが、前日に頂いた鶏の三和さんのれるトランでの夕食です。
岡山駅のショッピングセンターになるのでしょうか、レストランやショップが並んでいて、雨に濡れる事もなくホテル近くまで行ける便利な所でした。「さんすて岡山」との名がついたショッピング街ですが、「さんすて」て何処からこんな名前が付いたのかと感じる程でした。聞きなれた言葉ではありませんから不思議な感じです。
鶏三和さんはチェーン展開しているお店で、美味しい親子丼を頂く事ができました。私たちの世代にとっては鶏と言えばブランドは名古屋コーチンでした。その美味しい名古屋コーチンの名店のようです。たまごもふわっとしていて美味しい事。その上、店内で働く若い青年の接遇態度には感銘を覚える程でした。何かあってその対処が良かったと言う訳ではありませんから、何が良かったのが今では思い出せません。心に感動を覚えさせる働きと心地良い対応をしてくれたのだと思います。笑顔と接遇は料理をより一層美味しくしてくれるエッセンスだと強くかんじました。お店を出る時美味しく尚且つ気持ち良い接待であった事を伝えると喜んでくれました。遠い岡山ですから何度もお邪魔できませんが、本人もさることながら店長さんや企業理念・教育の良さを感じるお店でした。
岡山一番街 さんすて岡山 南館2F にある「鶏三和」です。
店内の他のお客が映らないように上を撮影させて頂きました。
お店も歴史を自負する事が出来る気構えを感じる素敵な店でした。
拙い自分の説明より、HPから文章を引用させて頂きます。
明治三十三年伊藤和四五郎商店創業。
名古屋コーチンの歴史と伴に歩み、飼育から販売まで
自社一貫事業体制で管理した名古屋コーチンをご提供致します。
尾張名古屋名物手羽煮とふわふわトロトロの卵に
名古屋コーチンの歯ごたえと旨味が楽しめる
贅沢な親子丼と鶏惣菜の専門店。
行く機会がないのが少し残念です。
今回の三井ガーデンホテルズの『 HOTEL どこでもパス』は本来のホテルと同じ形式で部屋貸しですから、朝食も夕食もついていません。日本人は普通、ホテルを予約するときは一泊朝食付きの事が多いです。今回、朝食を付けるにはチェック・インの時に予約する形式と、レストランで支払う形式が多かったです。
夕食は旅館と違い外で沢山のレストランなどで食事する事に決めていました。三度の京都方面で何度が食事を頂いた京都駅前の地下街ポルタに足が向かいました。で、大好きなカキフライがありましたので即決です。
1 レストランだけではありませんが、色々なお店が入って居ますから大変重宝しました。その上、ホテルから近いときています。
2 この看板を見たら素通りはできません。
3 生ビールを頂いて。いつも食事をする時のビールなどお酒が出てきますがアル中でも呑兵衛でもありません。念のため。しかし、歩き廻っていますからこの一杯が美味しい事。
4 東京では見かけませんがチェーン店、展開しているとんかつKYKさんです。
5 注文したのは多分、カキフライ膳です。美味しかったですし、ご飯はお代わりしてしまいました。
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7 夕食を終えて外に出てきました。とっぷりと夜になっていました。
8 マンマ・ミーアのポスターがありました。
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さて、ホテルに戻りノンビリ致します。
東京を発つ前日に宅配便で荷物をこちらの三井ガーデンホテル京都駅前に送りました。海外旅行に行くハードケースのスーツケースを予定していましたが、荷物を入れると半分程度にしかなりません。で、ボストンバッグに変えましたが旅してからスーツケースを持参すればよかったと思ったしだいです。機内持ち込みの出来る小型の布のスーツケースはお山ですから、こちらにはありません。で、背負う事が出来、転がすことも出来るスーツケースは東京になりましたが、意外と物が入いりません。ですからやっぱりハリーバートンでと、理由は追って。
こちらの京都駅前にお世話になったのは、3月30日~4月6日迄の7泊8日と京都を発って東京に向かう4月18日~19日の一泊二日でした。最初予定を変更することなく、こちらにお世話になりました。奈良に三井ガーデンホテルが無いので、京都駅前に宿泊して奈良の旅をした為に長逗留になりました。時間の節約と交通費の節約の為にも一箇所程度は奈良にホテルがあると嬉しかったです。
懐かしい、京都に着きました。
1 京都のこちらのホテルも岡山のホテルもオフィスビルとフロアーをシェア形式ではなくホテルとしてのビルでした。
2 基本は一人宿泊ですが、どこでもパスではシングルもモデレート・ツインも選択できました。両方のベットを利用すると言う意味ではなく、少しでも広い部屋と言う事で基本はモデレート・ツインを予約しました。勿論経費を節減する意味を兼ねて隣のベットは完全にしようしませんでした。腰掛ける事すらしないように努めました。
3 こちらも窓の外は道路を挟んだ向かいのビルですが、あまり良いビルではありませんでした。障子も開ける事もありませんでしたが。
4 基本的にはホテルよりお宿で上げ膳据え膳の旅が殆どですが、今回はビジネスホテル(シティーホテル)の三井ガーデンホテルです。TVを付けると、ホテルの案内が表示されます。Wi-Fiなどのパスワードや大浴場があればその混雑状況など。今は進んでいます。キーは勿論テッチ式のカード・キーでした。エレベーターの使用にも、大浴場があるときはそのキーとしても使用しなければならない賢いキーです。海外では以前からカードキーをタッチしないと上りエレベーターが動かない所は時々見かけました。セキュリティ関係でも良いと思います。
5 バッグは既にお部屋に運び入れてくれてありました。
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8 水回りです。ツインですから全て二組は完全に揃えられてありました。
9 省エネには気を使いました。
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11 シャワーヘッドが壁側に向いている配慮も良いですね。誤って服の上からでも、冷たい水の状態でも浴びる危険性はありません。
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バスで姫路駅に戻り、コインロッカーに預けていたリックサックを出してお宿の京都へ向かいます。(説明が無い物はすべてソニーのエクスペリアで撮影です。)
と言っても、スレッドは未だ三日目です。
初めて新快速なる電車に乗りましたが早い事、早い事。120キロ程度の速度が出ているようでした。それも特別な線路でも特別な列車にもおもえませんでしたが。成田空港に行くとき160キロで走行する京成スカイライナーに何度か乗りましたがミニ新幹線のような感じですが、新快速は普通の中距離電車と言った感じでした。
新快速の車窓からの風景を。
1 姫路から京都に向かう線路わきにも桜並木が見えますが京都駅に近い所だと思います。
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3 自宅から宅配便で送った荷物もホテルに着いているはずです。本格的に関西地方の旅の始まりを感じました。この二年ほどで三度の京都旅行、一度の奈良旅行をしていますたが、今度は長丁場です。それも結果的に一人旅になりましたが。京都駅に到着です。既に京都通の気がします。一度は白河院に宿泊で、二度目は新阪急ホテルで、三度めが都ホテル八条でした。奈良旅行は奈良ホテルでしたから、知った積りになってもおかしくはありません。でも、旅用の本を買っての京都・奈良の旅の始まりです。
午後5時前後に到着しました。
4 京都駅には列車マニアではなくても撮り鉄に変えさせる列車が止まっていました。自分は見た事の無いカラーなだけですが。
5 特別塗装の車両ですからレンズが向かいます。
6 見慣れた自由通路から展望デッキに上がる展望GATEです。今回はのぼりませんでした。前回の画像はこちらです。
7 ホテルに向かいます。これから少しの間お世話になる三井ガーデンホテル京都駅前です。
8 京都タワーが見えました。
先日姫路城の公開を再開しますとのニュースを拝見しました。と、言う事は好古園と時期を同じくして休園していたようです。本当についていました。
好古園のスレッドをその一とその二でアップしたしたが、そちらはニコン一眼レフでした。性懲りもなく今回は好古園ですがソニーのスマホのエクスペリア・プレミアムで撮影したものです。撮影時にシャッターが落ちるまでタイムラグがありますが、この程度の大きさでは何ら遜色ありません。
それとファインダーを覗いて被写体を見ている訳ではないので、晴天時にはスマホの画面に映像が映っているのやら分からない事もありますが、便利な世の中になりました。
既に飽き飽きしているかとは存じますが、自己の旅の記録として。興味があれば見てみた下さい。
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3 チケットを買って既に中に入っています。
4 櫓が見えます。
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次は京都に向かう電車のスレッド迄進んできました。超早いのに驚きでした。
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