東京が江戸だった頃、現築地市場に隣り合う浜離宮恩賜庭園は、徳川将軍家の別邸でした。そもそもは徳川綱重(甲府藩主)の下屋敷で、綱重の子が6代将軍徳川家宣になり、将軍家別邸として大幅に改修され整備されたとか。それが幕末になり幕府海軍伝習屯所になりました。
これをふまえて、浜離宮恩賜庭園に水路を挟んで所在する築地市場ですよ。
江戸が東京になった頃、築地には海軍の主要施設が多くありました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』NHKのドラマでは、海軍に入った本木雅弘くん演じる秋山真之が、海軍兵学校で同級生とカヌーレースしてた場所ですね。ってか、『坂の上の雲』では早々に秋山真之くんは築地から広島…おそらく呉かな?(広島の江田島でした:10/17訂正)既に『坂の上の雲』の小説をbook-offに売ってしまったので確認出来ないんですけども。しかし在りし日の海軍施設の面影がなんと現存してるっぽいんですよ。『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本に掲載されている【築地物語】の散歩コースによりますとね。
ってな事で、聖路加病院から移動です。
昨日の記事から今日回る辺りを地図の切り抜きました。分かります?聖路加病院は地図の中央上部にあります。
目指すのは海軍経理学校の碑なんですがね。この辺りには日本はじめて物語的なあれこれが点在してまして…。早速石碑見つけた!
電信創業の地って事らしい。〜〜〜〜ン〜??
何やら記憶が刺激されたわ〜。電信創業の地って、横浜になかったっけ?神奈川県庁舎の近くで見た気がするんだが…?
横浜もののはじめ物語(2010年11月11日)の記事
検索かけたら記事立てしてました!気になった方はこちらで確認して下さい。
たぶんあれだね。電信だからさ。電信を打ったり受けたりする訳で。だから電信創業の地も2カ所ないと使えないって事ではないでしょうか?
あ。石碑に説明文彫ってあるわ〜。
あちこちに文章を刻んだ石碑って建ってるけどさ。実際読むとなると石碑に彫った文章って実に読みづらいよな〜。え〜と?何だって?
『電信創業記念碑の由来
明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた『伝信機役所』を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。』
あ。やっぱ推理は当たってたわ〜。
信号を渡ったらまた説明板があった!今度は何だ!?
月島の渡し跡だそうですよ?
『月島の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡し船を開始したことに始まります(後略)』
ん?今まで由来が残ってるってさ、言った者勝ちって事?更に読み進めると?『その後東京市が渡し船を市営化&無料化し、明治の末には臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡し船も開始されました。』
な、なんだってぇ〜??徹夜で渡し船なんかしてた時代があったんかい!それでそれで??
『昭和15年(1940)にかちどき橋が架橋されたことにより、渡し船の運航に終止符が打たれました。』
な〜るほど!そういや、江戸時代って幕府がそうそう川に橋をかけさせない文化があったよね。それが改善されたのって、関東大震災がきっかけじゃなかったっけか?確認してないけどさ〜。
ともかくは!勝ちどき橋!行ってみましょう〜。
着きました!すぐそこでした!
………。
しばらく橋を眺める。ここさ〜、確かさ〜、跳ね橋じゃなかったっけ?何か『ここは葛飾区亀有公園前派出所』の漫画で読んだ気がするんだが…?あれ〜??記憶違いかな?でもさ、橋の中央に怪しい構造物があるわ〜。
ともかく!信号を渡ろう!何かあるし!
…何かあるし!じゃねえよっ!本日の目的は秋山好古・真之兄弟ゆかりの地めぐりでした!海軍経理学校の碑はどこだ!?本に載ってる地図によるとこの辺なんだけども…??
ありました!道路の南側にかちどき橋の施設があって、そこに建ってました。
『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本によりますと、海軍経理学校の碑
海軍経理学校は「海軍会計学舎」として明治7年(1974)に創設。
「海軍兵学校」「海軍機関学校」とともに旧海軍三校のひとつで、武器・弾薬・食糧の補給や、海軍予算を編成する幹部を養成した。ほかの部署にくらべて戦地での死亡率が低かったこともあり、多くの秀才が集まったという。敗戦にともなう海軍の解体によって廃校となった。」とあります。
この碑の右隣に、かちどきのわたしの石碑がありました。
これですね。説明板もある〜。
『勝鬨の渡し 明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島の間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。
石碑の正面に「かちどきのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋区祝初捷会挙行之日建之京橋区同志会」と陰刻されています。
かちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。
対岸にある月島側の渡船場は、現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡し船が運航していました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起り、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。
勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。」
あ。推理は当たってた!
実はですね。石碑の背後にかちどき橋の資料館なるものがあります。
当初の予定では、昨日土曜日にナマステインディアと合わせての築地海軍物語散歩だったのです。それで決行していたらかちどき橋の資料館も見えたんだけどね。雨降りでパスしたら入れなかった〜。日曜は休館です。
あ。ちなみに、かちどき橋の資料館は 開館日:火・木・金・土曜日 開館時間:9:30-16:30 入館料:無料 となっています。
そんで諦め悪くこっち側からも隅田川にかかる勝鬨橋を眺めてました。これがトップ画像です。説明板もあります。
うわっ!勝鬨橋っえ、まさかの国の重要文化財だった!うわ〜。知らんかった〜。現役の橋がまさかの重要文化財!
ん?東京都知事 石原慎太郎って書いてある!
うわ〜。何だか納得〜ってか!「勝鬨橋」の字は石原さんの字かもしれんね。
ところでさ〜。何だか現在勝鬨橋は工事中です。
何の工事だろうか?
あ。説明板がありました!「橋梁長寿命化工事のお知らせ」
勝鬨橋に直接照明が取り付けてある。通行人用だと思うけど。これ、現役なんだろうか?さすがに夜間確認には来れないわ〜。すんごく気になる!なにしろ現役の橋にして、国の重要文化財ですから。
工事個所と解説部分を切り抜きしました。来年の3月29日までの工期です。かちどき橋を見にいくならば、工事が終わってからの方がいいかも?
でもさ、ようするに勝鬨橋の名前の由来ってさ、日露戦争戦勝記念って事だよね?知りませんでした!なるほど『坂の上の雲』由来の歴史巡りにはぴったりかもね。
さてと?次の目的地の軍艦操練所跡ってどこだ??
本に載ってるのは説明板だけですので、痕跡も殆ど残ってない模様。っていう事は、その説明板を探さないと〜?どこだ〜??
本に掲載されている説明板の写真の背後に写ってるラーメン屋を探そう!それが目印だ!
見つけたけどこれさ。本当に説明板しかないわ〜。切ないわ〜。
本によりますと?「安政4年(1857)幕府は外洋航海の必要性から講武所のあった現在の築地中央卸売市場の地に「軍艦教授所」、そして海軍所」と改称した。航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転練習をはじめたが、元治元年(1864)に付近で発生した火災によって焼失。再興するも明治元年(1868)の明治維新で幕府が瓦解し、活動は休止となった。しかし、幕府の海軍施設があった縁で、4年後に築地一帯に海軍省がおかれた。
ってな事で、次の目的地は日本の近代海軍発祥の地。旗山の石碑です。んが!!その前に前から行って見たかった波除稲荷神社さんがみたいです。
これをふまえて、浜離宮恩賜庭園に水路を挟んで所在する築地市場ですよ。
江戸が東京になった頃、築地には海軍の主要施設が多くありました。司馬遼太郎の『坂の上の雲』NHKのドラマでは、海軍に入った本木雅弘くん演じる秋山真之が、海軍兵学校で同級生とカヌーレースしてた場所ですね。ってか、『坂の上の雲』では早々に秋山真之くんは築地から広島…おそらく呉かな?(広島の江田島でした:10/17訂正)既に『坂の上の雲』の小説をbook-offに売ってしまったので確認出来ないんですけども。しかし在りし日の海軍施設の面影がなんと現存してるっぽいんですよ。『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本に掲載されている【築地物語】の散歩コースによりますとね。
ってな事で、聖路加病院から移動です。
昨日の記事から今日回る辺りを地図の切り抜きました。分かります?聖路加病院は地図の中央上部にあります。
目指すのは海軍経理学校の碑なんですがね。この辺りには日本はじめて物語的なあれこれが点在してまして…。早速石碑見つけた!
電信創業の地って事らしい。〜〜〜〜ン〜??
何やら記憶が刺激されたわ〜。電信創業の地って、横浜になかったっけ?神奈川県庁舎の近くで見た気がするんだが…?
横浜もののはじめ物語(2010年11月11日)の記事
検索かけたら記事立てしてました!気になった方はこちらで確認して下さい。
たぶんあれだね。電信だからさ。電信を打ったり受けたりする訳で。だから電信創業の地も2カ所ないと使えないって事ではないでしょうか?
あ。石碑に説明文彫ってあるわ〜。
あちこちに文章を刻んだ石碑って建ってるけどさ。実際読むとなると石碑に彫った文章って実に読みづらいよな〜。え〜と?何だって?
『電信創業記念碑の由来
明治2年9月19日(太陽暦10月23日)横浜裁判所と東京築地運上所内に設けられた『伝信機役所』を結ぶ約32キロメートルの電信線架設工事が開始され、同年12月25日に業務を開始した。これが、我が国における公衆電気通信の最初である。
この記念碑は、先駆者の業績を後世に伝えるため、昭和15年に建立されたもので、昭和53年、南南東約40メートルの地点から当地へ移設されたものである。』
あ。やっぱ推理は当たってたわ〜。
信号を渡ったらまた説明板があった!今度は何だ!?
月島の渡し跡だそうですよ?
『月島の埋め立てが完成して間もない明治25年(1892)11月、土木請負業の鈴木由三郎が、南飯田町(現在の築地7丁目18番)から月島(現在の月島3丁目24番)へ手漕ぎの船で私設の有料渡し船を開始したことに始まります(後略)』
ん?今まで由来が残ってるってさ、言った者勝ちって事?更に読み進めると?『その後東京市が渡し船を市営化&無料化し、明治の末には臨海工業地帯へと発展した月島への乗客増加に対応するため、徹夜渡し船も開始されました。』
な、なんだってぇ〜??徹夜で渡し船なんかしてた時代があったんかい!それでそれで??
『昭和15年(1940)にかちどき橋が架橋されたことにより、渡し船の運航に終止符が打たれました。』
な〜るほど!そういや、江戸時代って幕府がそうそう川に橋をかけさせない文化があったよね。それが改善されたのって、関東大震災がきっかけじゃなかったっけか?確認してないけどさ〜。
ともかくは!勝ちどき橋!行ってみましょう〜。
着きました!すぐそこでした!
………。
しばらく橋を眺める。ここさ〜、確かさ〜、跳ね橋じゃなかったっけ?何か『ここは葛飾区亀有公園前派出所』の漫画で読んだ気がするんだが…?あれ〜??記憶違いかな?でもさ、橋の中央に怪しい構造物があるわ〜。
ともかく!信号を渡ろう!何かあるし!
…何かあるし!じゃねえよっ!本日の目的は秋山好古・真之兄弟ゆかりの地めぐりでした!海軍経理学校の碑はどこだ!?本に載ってる地図によるとこの辺なんだけども…??
ありました!道路の南側にかちどき橋の施設があって、そこに建ってました。
『秋山好古・真之兄弟と正岡子規 ぶらり江戸めぐり3』の本によりますと、海軍経理学校の碑
海軍経理学校は「海軍会計学舎」として明治7年(1974)に創設。
「海軍兵学校」「海軍機関学校」とともに旧海軍三校のひとつで、武器・弾薬・食糧の補給や、海軍予算を編成する幹部を養成した。ほかの部署にくらべて戦地での死亡率が低かったこともあり、多くの秀才が集まったという。敗戦にともなう海軍の解体によって廃校となった。」とあります。
この碑の右隣に、かちどきのわたしの石碑がありました。
これですね。説明板もある〜。
『勝鬨の渡し 明治25年(1892)、銀座・築地方面と月島の間には「月島の渡し」が開設されましたが、月島側の発展にともない、両地の交通はこれのみではさばけない状態でした。
明治38年(1905)、日露戦争の旅順要塞陥落を契機に、京橋区民の有志が「勝鬨の渡し」と名付けて渡船場を設置し、東京市に寄付しました。当地にある石碑は、この時に建てられた記念碑です。
石碑の正面に「かちどきのわたし」とあり、側面には「明治38年1月京橋区祝初捷会挙行之日建之京橋区同志会」と陰刻されています。
かちどきの渡しの渡船場は、ここから約150メートル西の波除稲荷神社の辺りにありました。
対岸にある月島側の渡船場は、現在の勝どき1・3丁目の境)の辺りにあって、この間を渡し船が運航していました。
大正12年(1923)の関東大震災後、架橋運動が起り、船が通過する際に跳ね上がる可動橋が架せられることになりました。
勝鬨の渡しは橋の架橋まで運航され、昭和15年(1940)6月、勝鬨橋の開通とともに廃止されました。」
あ。推理は当たってた!
実はですね。石碑の背後にかちどき橋の資料館なるものがあります。
当初の予定では、昨日土曜日にナマステインディアと合わせての築地海軍物語散歩だったのです。それで決行していたらかちどき橋の資料館も見えたんだけどね。雨降りでパスしたら入れなかった〜。日曜は休館です。
あ。ちなみに、かちどき橋の資料館は 開館日:火・木・金・土曜日 開館時間:9:30-16:30 入館料:無料 となっています。
そんで諦め悪くこっち側からも隅田川にかかる勝鬨橋を眺めてました。これがトップ画像です。説明板もあります。
うわっ!勝鬨橋っえ、まさかの国の重要文化財だった!うわ〜。知らんかった〜。現役の橋がまさかの重要文化財!
ん?東京都知事 石原慎太郎って書いてある!
うわ〜。何だか納得〜ってか!「勝鬨橋」の字は石原さんの字かもしれんね。
ところでさ〜。何だか現在勝鬨橋は工事中です。
何の工事だろうか?
あ。説明板がありました!「橋梁長寿命化工事のお知らせ」
勝鬨橋に直接照明が取り付けてある。通行人用だと思うけど。これ、現役なんだろうか?さすがに夜間確認には来れないわ〜。すんごく気になる!なにしろ現役の橋にして、国の重要文化財ですから。
工事個所と解説部分を切り抜きしました。来年の3月29日までの工期です。かちどき橋を見にいくならば、工事が終わってからの方がいいかも?
でもさ、ようするに勝鬨橋の名前の由来ってさ、日露戦争戦勝記念って事だよね?知りませんでした!なるほど『坂の上の雲』由来の歴史巡りにはぴったりかもね。
さてと?次の目的地の軍艦操練所跡ってどこだ??
本に載ってるのは説明板だけですので、痕跡も殆ど残ってない模様。っていう事は、その説明板を探さないと〜?どこだ〜??
本に掲載されている説明板の写真の背後に写ってるラーメン屋を探そう!それが目印だ!
見つけたけどこれさ。本当に説明板しかないわ〜。切ないわ〜。
本によりますと?「安政4年(1857)幕府は外洋航海の必要性から講武所のあった現在の築地中央卸売市場の地に「軍艦教授所」、そして海軍所」と改称した。航海術・海上砲術の講習およびオランダから購入した軍艦の運転練習をはじめたが、元治元年(1864)に付近で発生した火災によって焼失。再興するも明治元年(1868)の明治維新で幕府が瓦解し、活動は休止となった。しかし、幕府の海軍施設があった縁で、4年後に築地一帯に海軍省がおかれた。
ってな事で、次の目的地は日本の近代海軍発祥の地。旗山の石碑です。んが!!その前に前から行って見たかった波除稲荷神社さんがみたいです。