あられの日記

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田園調布紅葉散歩2017.11/16現在

2017年11月22日 05時47分59秒 | 紅葉散歩
九品仏寺を10時6分に出発。田園調布駅に10時26分到着。改札を抜けたら西口へ。と?改札抜けたらスタンプ台があった。STAR WARSスタンプラリーだった。せっかくなのでスタンプを押したい。が!スタンプ用紙がない〜〜。諦める。ちなみに田園調布駅は金色ロボットでした。
さて、田園調布駅です。現在の駅は地下にあります。かつての駅が街のモニュメントのようにありました。ここから西へ道が放射状になっており、駅正面から見ると、3つの銀杏並木が見えます。

左端の銀杏並木へ。画像では分かりにくいのですが、駅からゆるい上り坂。その後下り坂。まさか高級住宅街に起伏があるとは思わなかった!バブル期には「田園調布に家が建つ」というギャグがありましてね。成功者の代名詞みたいでしたよ。で、実際に田園調布を歩くのはこれが初めてです。わくわくとスタートです。
が!期待していたイチョウ並木の紅葉は期待はずれ。紅葉してる木もあるけど、青葉の木もある。しかも、街路樹ですから枝の切り詰めがひどい。う〜む。まあ、車の通行量が少ないのと、道幅が狭いのは撮影しやすかったけども。記録のために1枚撮影しただけで移動です。
10時35分宝来公園到着。

説明板発見:宝来公園の由来
本公園は、多摩川の沿岸旧荏原郡下沼部村の丘陵に位置し、付近は、亀甲山古墳を始めとする多くの遺跡に富んでいます。園内には、梅、桜をはじめ、クヌギ、シイなど約70種1500本の樹木が繁り四季折々の自然の美しさは、今も、武蔵野の面影を残しています。
大正14年、田園都市の開発に際し、武蔵野の旧景を保存し長く後世に残すために街の一画の汐見台の地を公園用の広場として残しました。その後田園調布会より、東京市に寄付されました。東京市は、当時の金で1万円を投じて整備を行い、昭和11年4月「宝来公園」として開園されました。そして昭和25年10月1日に大田区に移管され現在に至っています。」(田園調布会は後で出ます。覚えておいてね)
公園は急斜面になっていて、上の画像のように背の高い雑木林です。雑木林はまだ紅葉してません。チッ!さっさか通り抜けよう。
坂を下まで降りるとすぐに上り坂です。
10時44分多摩川台公園に到着。

マップの右下からやってきて、左へ抜ける予定です。

東急沿線の紅葉スポットでは、多摩川台公園に2箇所モミジのポイントがあったのですが。
探さないと見つからないわけです。モミジはまだ赤くなってません。
がっくり。だって今日のお散歩は紅葉散歩なのですから。紅葉を愛でる気満々できたのに〜〜。
あれ?説明板発見:東京都指定史跡多摩川台古墳群 所在地:大田区田園調布1丁目63番地 同4丁目3番地。
多摩川台古墳群は、八基からなる古墳時代後期の古墳群である。古墳群の伊波には国指定史跡亀甲山古墳、北側には東京都指定史跡宝来山古墳の二基の大型前方後円墳が古墳時代前期(4世紀)に築造されている。
古墳群は、最初に2号墳が6世紀前半に築造され、2号墳を前方墳として利用し、1号墳を後円部とする一基の前方後円墳(全長39メートル)が6世紀後半に築造された。その後、3号墳から8号墳までの円墳(直径13−19メートル)が7世紀中頃まで継続して築造された。
発掘調査された古墳の横穴式石室内からは、副葬された直刀や鉄う鏃などの武具類、耳飾りや管玉などの装身具類、馬具の轡、須恵器や土器が出土し、墳丘部からは円筒埴輪が発掘された。
本古墳群は、大田区田園調布付近から世田谷区野毛付近に所在し、昭和初期に54基の古墳が確認されていた在原台古墳群の1支群にあたる。今日、在原台古墳群の多くの古墳が都市化の波に埋もれてしまっている中で、本古墳群は往時の姿をとどめているだけでなく、当時の多摩川下流左岸地域の首長墓群の変遷をたどることができる貴重な古墳群である。」
へえ〜へえ〜へえ〜〜!!田園調布に前方後円墳があるとはっ〜〜!!べっくら〜たまげた〜。
下流へ歩いてると、工事中の立て看板に行く手を遮られる。む!迂回路はどこだ??西へ抜ける道を探して階段を上がったら。

4号墳です。遊歩道の川側に小山がぽこぽこ並んでました。現状は画像のように草木に覆われて一見円墳だとわかりません。立て札が「8号墳」「7号墳」とあるので、ここが古墳だとわかるけども。見晴らしならば、川側の道を歩きたかったなあ〜。まあ雑木林はまだ紅葉してないんですがね。

時々多摩川の対岸に抜ける視界が素敵でしょ?このあたりはもう多摩川の下流なんで川幅が広い。河川敷にはグラウンドが!あそこに映画『シン・ゴジラ』の自衛隊の多摩作戦で10式戦車を並べたのかしら?
古墳群が途切れ、東屋を見つけた。川側に抜ける階段も発見。

東屋の壁にあったレリーフ。
説明板発見:下村宏氏(明治8年〜昭和32年)
明治・大正・昭和の官僚、新聞経営者・政治家・歌人。号は海南(かいなん)。
玉音放送のさいの内閣情報局総裁であり、ポツダム宣言受諾の実現に尽力したことでも知られており、公益。福祉及び教育事業に尽力するなど、その足跡は多方面に渡った。また晩年には(社)田園調布会会長に就任(昭和27−昭和32)されました。」(ここで宝来公園の説明文で登場した田園調布会が再登場)
へえ〜へえ〜へえ〜。あれだ!町田の成瀬で桜散歩してたら、ペリーから大統領の親書を受け取った人のあれこれを見つけた時と驚きがかぶるな。
恩田川遊歩道を吹上橋から堂之坂公苑へ(2017.5/4)の記事 こちらの記事に井戸石見守弘道のエピソードの記述があります。井戸は江戸詰浦賀奉行でした。

あ。多摩川台公園(昭和28年開園)の説明もあるな。
多摩川台公園
昭和12年、田園調布に居を構えて以来、この地(多摩川台)は下村宏氏が最も好まれた散策地でした。
未開の古墳群の丘を眺めながら、「なんとかならないか」が口癖で、後藤慶太氏(東急電鉄創設者)とも、このあたりの未来図を熱く話し合われていたそうです。
初代国立公園新議会の要職にあった下村宏氏は、当局に掛け合いまず多摩川台を公立公園とする許可をとりつけ、努力の末、昭和28年都立公園として開園、昭和50年に大田区に移管。現在では武蔵野の面影を残す自然林豊かな億円として区民の憩いの場となっております。」

確かに東屋のあたりの眺望は素晴らしい。ピーカンの日の散歩だったけど、残念ながら大山あたりが雲を被っていた。本来ならば、あのあたりに富士山が見えるらしい。
西へ。大きめの広場がある。そして東側に小高い丘。
 
画像ではわかり辛いのですが。左の画像は前方後円墳の前方部です。
説明板発見:国指定 史跡亀甲山古墳
この古墳は、大田区から世田谷区に及ぶ在原台古墳群中最大の前方後円墳である。
発掘調査は行われておらず詳細は不明であるが、埴輪・葺石等がないことや、その古墳の形により、5世紀前半ごろの築造と考えられ、当時、この地方に勢力のあった首長の墓と推定されている。
この前方後円墳は、後円部南端を浄水場建設工事により削られているものの、比較的よく原型を保っている。港区芝公園内にある丸山古墳と並んで、都内の代表的古墳である。昭和3年、国の史跡に指定されている。
全長:107メートル
前方部の長さ:41メートル
前方部の前端幅:49メートル
後円部の直径:66メートル
前方部の高さ:7メートル
後円部の高さ:10メートル

下流へ。次第に電車の音が聞こえ始める。開けた隙間から鉄橋を行く東急が見えた。
そして!!あの!青いアーチの橋は、シン・ゴジラでゴジラがぶっ壊してパーツが空に舞い、10式戦車を押しつぶした!あの橋です〜〜。うわ〜。あったよ〜。

説明板発見:調布浄水場跡
この区域は、その昔、多摩川の水を汲み上げて、地域の飲み水を供給していた「調布浄水場」の跡地を利用して整備したものです。
昔使用されていた浄水場の姿がよくわかるように、その形をできるだけ残すようにしました。沈殿池だったところには、池を作り湿生植物を植え、ろ過池だったところには、四季の野草と地被植物を植えました。また地下の配水池だったところには、雨水を貯めて、池の補給水として利用しています。」
上の画像奥が、前方後円墳です。後円部の削った場所ですね〜。
見取図だとこう。
多摩川台公園を後に。東急田園都市線多摩川駅からの最寄出入口。傾斜には紫陽花が多く植栽されています。

時刻は11時12分。いいペースです。

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