あられの日記

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川越城本丸御殿

2011年06月29日 04時08分52秒 | 記念スタンプ
富士見櫓跡の次に目指すは川越城本丸御殿です。
あれ?この細い道で合ってたっけ??すると、こんなんが見えて来ました。

鎌倉にも似たような道しるべが街のあちこちにあります。地図なんかなくても歩けルンです(2008年12月12日)の記事こちらに鎌倉の行き先案内標識の画像があります。
川越は観光の街なのです。観光客に優しい街です。今年は川越まつりは中止になったけど、訪問した5月14日にはもう観光客で一杯でした。やっぱり自粛は長く続かない。や。街に活気のあるのはいい事だ。
さて川越城本丸御殿に到着です。時刻は既に11時44分。
本丸御殿は3月末まで改修工事をやってて、久々に一般公開が再開されました。ええ。私はこれを待ってたのですよ。
まずは入場券を購入せねば。
って、アレ?共通入館(観覧)券があるじゃん。
これがいいや。
購入したのは、市立博物館&市立美術館&蔵造り資料館&川越本丸御殿の4館共通券450円です。ちなみに、本丸御殿だけの入館料は100円也。
あ。
忘れるとこだった。
「すみませ~ん。100名城のスタンプありますか?」
そう。川越城本丸御殿は100名城に選ばれてるのですよ。
受付のおじさんがスタンプを取り出してくれました。いつものマイスタンプ帳を取り出して100名城のスタンプを押してましたらば…。
おじさんが一言。
「あれ?君、それ100名城のスタンプ帳じゃないね」
そうよ。これは私のスタンプ帳だけど、何か?
「ダメだよ。そのスタンプは100名城のスタンプ帳専用なんだからさあ」困るなあ。迷惑だと言わんばかりの嫌な顔をされてしまいました!
え!?そうなの??
だって、皇居の100名城のスタンプ台なんか、休憩所に放置してあって、皆さん自由に押して下さいって感じだったのに??
他の城でのスタンプを思い出す。
確か、小田原城では受付に言ってスタンプ出してもらったんだった…。
んでもって、丸亀城でも同じだった…。でも怒られたのは始めてだ。
………。
残念ですが、100名城のスタンプ集めはこれにて終了となりました。過去の100名城のスタンプは以下の記事でご覧下さい。
丸亀城天守閣(2010年11月23日)の記事丸亀城の100名城スタンプを見ることが出来ます。
小田原城は100名城(2010年7月12日)の記事
記念スタンプ名所旧跡(2010年2月21日)の記事皇居の100名城のスタンプを見ることが出来ます。
んでもねえ。
私が川越城のスタンプを押してると、年配のおじさんが後から、「私は100名城のスタンプ帳を持ってます。でも今日は持って来るの忘れたんだよ。だからいいよね」ってな感じで、受付のおじさんを黙らせてスタンプを押してゆきました。
………。受付の人、相手によって対応が違うのはマズいんじゃないの??
つーか、100名城スタンプって管理元はどこなんだろう?昨今、城ブームでお城巡りしてる人増えてると思うんだが…。城によって対応が違うってどうなのよ?
ま。愚痴るのはこのへんで。
川越城の話に戻ります。
/川越城図。
上の地図は慶応3(1867)年ごろに作成されたもの。もう幕末も幕末。明治が始まるのは1868年1月25日からです。
川越城の歴史を紹介しますね。
「川越城は、扇谷上杉持朝が長禄元年(1457)に太田道真(資清)・道灌(資長)父子ら家臣たちに命じて築城させたものである。当時、持朝は山内上杉房顕と連合し、古河公方足利成氏と北武蔵の覇権をめぐって攻防を繰り返しており、築城は扇谷上杉領の北端の拠点とするためであった。築城当初の縄張りは後の本丸と二の丸を合わせた程度の規模と推定されている。
小田原を拠点に武蔵への進出を図る後北条氏は、天文6年(1537)に川越城を攻め落とした。天文15年(1546)、扇谷上杉氏はそれまで対立していた山内上杉氏・古河公方と手を結び、川越城奪還を図るが、後北条軍の奇襲にあって大敗し、扇谷上杉氏は滅亡した(川越合戦)。その後、後北条氏は川越城を足がかりとして北武蔵への支配を固めていった。
天正18年(1590)、豊臣秀吉の関東攻略に際し、川越城は前田利家らに攻められて降伏した。同年8月、後北条氏の遺領を得た徳川家康が江戸城に入ると、江戸に近い川越城には重臣酒井重忠を置き、その後も幕府の有力な大名たちが川越領を持つことになった。
寛永16年(1639)、川越城主となった松平信綱は川越城の拡張整備を行う。その結果、本丸・二の丸・三の丸・追手曲輪・新曲輪などの各曲輪、3つの櫓(幕末の絵図にはもう1つ隅櫓状の建物が描かれている)、13の門からなる、総面積約9万9千坪(約32万6千平方メートル)余りの規模をもつ巨大な城郭となった。
慶応3年(1867)、大政奉還により武家政治が終焉を迎えると、川越城は早々に解体が始まり、一部は学校や役所などの公共用地となったが、城地の大部分は払い下げられ、宅地化されていった。現在ではわずかに往時の姿を止めている。 以上「川越城跡」配布ちらしからの抜粋。


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鎌倉の観光標識のリンク先の入力をミスってました。6.30の7:30頃修正しました。ごめんなさい。



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