2019.5.5本山寺と琴弾周辺の巨木さんぽその7
琴弾公園にある根上がり松のすぐ近くに四国八十八ケ所霊場の68番神恵院と69番観音寺札所が並んでます。なぜに2つの札所がぶっちゃけ同じ境内にあるのか?といえば、明治の神仏分離令で、観音寺に神恵院を移動してきたから。よってお寺の歴史もぶっちゃけ琴弾八幡宮と同じです。歴史を見ると流れがわかります。
琴弾八幡宮は、日証上人が海の彼方から漂着した船から琴の音が聞こえ、八幡大菩薩が降臨。船と琴を山頂に引き上げ琴弾八幡宮を祀り、神宮寺を建立して、神仏習合の霊地となった。
時は流れ平安時代、唐より帰朝した弘法大師が大同2年(807)に来て第7代住職となる。薬師如来・十二神将・聖観世音菩薩・四天王などを刻み、七堂伽藍を建立。真言密教の道場となる。山号を七宝山、寺号を観音寺と改め、琴弾八幡宮の別当として神恵院をあてられた。
やがて四国八十八ケ所の霊場が形成。琴弾き八幡宮が第68番札所。観音寺が第69番札所として参詣され、一山に二霊場の形態となる。
その後、明治維新となり神仏分離令が布告され、琴弾八幡宮は四国霊場から切り離されることになった。八幡大菩薩の本地仏である阿弥陀如来は国の重要文化財観音寺金堂に移り、別当であった神恵院が第68番札所となった。
地元に住みながら詳しいことは知らなかったよ。
社紋かな?あんまり見たことないけど面白い。石段を上がる。母にも「お出でよ」と声をかけた。なぜならここに中学の時母に連れてきてもらった思い出があったから。
それがたまたま目的の巨木に重なるのは面白い。
あれ?何か、記憶の中の木と違うんですけど〜??
観察して気づく。大枝が折れていた。
うわ〜、マジかぁ〜。
実はね、中学生だったある日のこと、美術の先生に何人かの生徒と共にここに連れてこられたのだ。何かしら?と思えば、「境内でスケッチしなさい」と。今ならあちこちからツッコミが入りそうな怠惰な先生だったなあ。しかもこのスケッチ大会は先生の思いつきでなく、どうも一円の学校対抗写生大会で、後々発表せねばならんかったのです。そんなこととはつゆ知らず、スケッチという名のお絵描きは大好きだった私は、巨木のクスノキを手前に、奥に重要文化財の観音寺の金堂を据えてお絵描きしました。時間内に完成しませんでした。自分は描けて満足してたのに、数日後に怠惰な美術の先生に呼び出され「仕上げて提出しろ」と指令があったんです。ンなこと言われても、もう覚えてない。素直な私は困ってしまい、母に頼んで車でもう一度見に来たんですよ。
で、無事に絵を仕上げて提出したのですが、無理を言うだけ言って私の絵をなんかの大会に出しやがったのに、それを見に行った母いわく「あんな、あんたの名前違とったわ」と。
そう美術教師に「怠惰な」とつけてるのは、無茶ぶりしやがった上、私の名前すら覚えてなく、しかも名前を覚えてないから絵を返却しなかったんだ!と知ったのは卒業後です。ガッテムでしょう?ちなみに無茶振りして描仕上げさせられた私の絵は高評価でした。ちゃんと金賞だったからね。てっきり金賞とったから返却してくれないんだと、当時の清らかな心を持ってた中学生時代ですね。
で、2度目は短時間で一気に記憶して帰宅して一気に仕上げたので、巨木のクスノキの枝ぶりもバッチリ記憶に残ってました。
全然違う〜。悲しい〜。まあもう数十年前のことになるので、巨木といえども樹形がかわっちゃったんだろうねえ。
巨木サイトによりますと、観音寺のクスノキ:樹高:15メートル、目通り幹囲:6、6メートル 推定樹齢:伝承1000年とあります。目通り幹囲というのは、地面から1、2メートルで幹の周りを計測した数値のこと。けどもこのクスノキは根元が異様に膨らんでます。
すごいでしょ?
別角度から。
もう1枚角度を変えて。
巨木サイトによりますと、「目通りは6メートル台でも、地表あたりではゆうに10メートルのクスノキを思わせる」と書かれてました。いや〜、折れた大枝の形は覚えてたけど、膨らんだ根元は全く覚えてなかったよ。あれね。構図に入れてなかった模様です。
ベンチで母とあの時の話をして大満足で観音寺さんを後に。
帰り道は行きと違う道で〜と母が三架橋を通ってくれた。これもアニメ『結城友奈は勇者である』に繰り返し登場していたなあ。
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